第18小節
わたしはホールに入ると、はや足でピアノのまえに行き楽譜を置いて蓋をあけてどんと座った。
何しろ一刻もはやくピアノにさわりたかった。
何だか海シリーズのⅢが妙に弾きたくっていてもたってもいられなかった。
Ⅲは何度かソラで弾いたことがあった。
好きな箇所があって、そこを弾くとまた最初にもどってそこまで弾くというパターンをくりかえしていた。
そのときはうろおぼえだったけど、いまは譜面を見て完ぺきに弾ける。
そっか、譜面見て完ぺきに弾きたかったんだと気づいた。
美しい曲だった。
彼は頭でっかちっていったけど。
無理に好きになる必要はないっていったけど。
それを確かめたかったのかと、弾きながら思った。
衝動があって、理由があきらかになってゆく。
こんなことははじめての経験だった。
第1楽章『桟橋』。
あの桟橋なんだろうか?
悲しみ、いつかそれは、大切な何かにかわる。
潮騒の調べを聴いていると。
そう思えてくる。
この第1楽章『桟橋』と第2楽章『潮騒』と第3楽章『いつか』のものがたりはそうなんだと思う。
あらためて弾いてみてそう思った。
悲しみを美しさとはき違えているのだろうか?
そう思い込もうとしているのだろうか?
わたしはくりかえしてまた最初から弾いてみた。
疲れたところでじゅうぶんに休憩して、また弾いた。
そしていつしか夢中になって弾いていた。
弾き終えると拍手が聞こえた。
見ると、彼が扉の横の壁にもたれて楽譜を脇にかかえたまま拍手していた。
わたしは立ちあがって礼をした。
彼は楽譜を手にしてゆっくりとバージンロード(であった通路)を歩いてきた。
もう1時?
それが今日のリハーサルの開始時間。
はじめてから3時間近く経っていたようだ。
わたしは楽譜を取ってじぶんの定位置の丸椅子のうしろにさがった。
彼がピアノに楽譜を置いて座ると、わたしのほうにからだを向けた。
「座って」
「はい」
わたしは楽譜を膝にのせて座った。
「邪魔するつもりはなかったんだけどね、1時間はやめにきちゃったわけだし」
実際にはわたしが弾いていたのは2時間ちょっとだったんだとわたしは即座に計算し、いまはまだ午前中であること、あるいは正午あたりであることに安堵した。
「扉越しに聴くのはもったいなと思ってね、そっと」
「お恥ずかしいかぎりです。ご本人のまえで」
「いやいやさすがは天才少女の腕前だよ。いまはぼくよりはるかに上手いと思う」
「そんなこと」
「いやほんと、きみはいま確実に国内でトップだ」
「トップではないんです」
「ん?」
「トップになれないんです、このところ」
「だから、このバイトを?」
「ええ。何かつかめるかもと思って」
「海のそばでね」
「そうです。ほんとにそうです。すごい。何でもわかるんですね」
「だからぼくもずっとこのホテルにいる」
「そうだったんですね」
それから彼はピアノに向かった。
「きみなら、ぼくのかわりに弾いてもお客さんは文句はいわないだろうな」
「えっ」
「万が一のときだよ。もちろん、きみが嫌なら帰ればいい」
「そんな」
「いま聴いて確信したよ。ぼくより美しく、きみは弾ける」
「そんな」
「まあ、考えてみて」
「はあ」
「うん。じゃあ、今日は空をやるね」
「はい」
わたしは楽譜をバッグに仕舞い、彼は空シリーズを弾きはじめた。