第14小節
クーラーは嫌いなので少し窓をあけて寝た。
ここは夜になると涼しい風がふいて気持ちよかった。
朝、目が覚めると同時に波音が聴こえた。
外はすっかり夏色のブルーをしていた。
窓から見える桟橋には誰もいなかった。
ボートハウスは営業しているのかどうかわからない。
ロープにつながれたプレジャーボートがゆったりと波に揺れていた。
ボートが頻繁に使われている様子はなかった。
あのボートは観光用ではなく救命用なのかもしれない。
わたしにはボートが、海にでようするたびに引きもどされているように見えてしょうがなかった。
わたしは冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取りだしてはんぶんほど飲んだ。
朝食のバイキングが終わる30分まえくらいにいくつもりでいた。
アルバイトのわたしがいく時間はそのくらいでいいのだと思う。
それまでにまだ1時間ほどあった。
わたしはシャワーを浴びて、それから歯を磨いた。
部屋着からワンピースに着替えて、折り畳みができる麦わら帽子を持って散歩にでかけることにした。
わたしはフロントの男性スタッフに会釈して外にでた。
ああ、ルームキーはフロントにあずけなくてもいいということだった。
陽射しはもうすでに強烈だった。
わたしは麦わら帽子をかぶった。
木立ちのなかに造られた遊歩道を通って、ちょっとしたプライベートビーチみたいなところへでると桟橋に向かった。
ボートハウスの入口にはクローズの札が掛けられたままだった。
窓にはカーテンがしてあって室内の様子は見ることができなかった。
桟橋の上を少し歩いて、ふとふり返ってみた。
ボートハウスの向こうにある奥まった木々だけがいっせいに白い花を咲かせていた。
あんなに咲いていたら気づくはずなのに。
それともわたしがきたあとに咲いたのだろうか。
もしかしたらここからホールへと、白い花を咲かせた木はつづいているのかもしれないと思った。
そこだけはどこか秘境的なムードがあった。
白い花がボートハウスを飾るように咲いていて、ここから見るその小屋のかたちはどことなく祭壇のようにも見えてくる。
桟橋の中央付近にはテラスのように突きでた部分があって、海にはそこから階段を下りて入ることができるようになっていた。
テラスには屋根付きのベンチがあり、そのベンチに品の良い老婦人が座っていた。
わたしは桟橋の先にいきたかったので、その老婦人のそばを通るときにおはようございますと声をかけた。
老婦人は、おはようございますとかわいらしい声で返してくれた。
すれちがいざま、老婦人はお泊まり? と聞いた。
あ、いえ、何ていうか、その、あのアルバイトです、とわたしは立ちどまって答えた。
そう、と老婦人はいい、よかったら少しお話でもどうかしら、と誘った。
あ、はい、とわたしは答えて、じゃあ、失礼します、ととなりに座った。
「アルバイトって、学生さん?」
と老婦人は聞いた。
「はい。音大の学生です」
とわたしは答えた。
「あら、ピアノかしら」
「ええ、そうです」
「そう。指を見て何となくね」
「ああ」
わたしはさりげなくじぶんの指をながめてみた。
「どこかで見たお顔だと思うのだけど、この頃、歳のせいかうまく思い出せなくなってしまってねえ」
「そんなに有名な顔じゃありませんからご心配なく」
「そう?」
「ぜんぜん」
「わたしね」
「はい」
「ピアノが弾けたらなって思うときがあるの」
「ええ」
「ふとメロディーが浮かんで、そのメロディーをつなげていきたいってね」
「ああ、わかります」
「あなたは作曲もするのね」
「たま~にですけど」
「すてきね、こころに浮かんだメロディーをつなげていくって」
「そう思います」
「つなげていくには、ピアノが弾けたらうまくいくと思うの」
「ああ」
「つなげて、そしてまたそこへもどってゆくの」
「リフレイン」
「リフレインっていうの?」
「ええ。賛美歌ではリフレインは合唱になるんです」
「感動的ね」
「そうなんです」
水平線に大きなタンカーが進んでいくのが見えた。
わたしはそれを目で追っていた。
海と空のチークタイムのように時がゆったりと流れていた。