第10小節
彼が楽譜を抱えて入ってきた。
白いシャツに、黒のスラックス。
スタイルは一緒だけど素材は先日よりは少しラフな感じ。
「はやいね」
と彼はいった。
わたしは立ちあがって礼をした。
彼はピアノまでくると笑顔を見せて、さっそくピアノに向かって楽譜を置くと、優雅に座って、そして蓋をあけた。
「座って」
と彼はいうとわたしのほうに向いて座りなおした。
「はい」
とわたしはいって座った。
「いろいろ心配しているかもしれないけど、慣れるまではぼくのほうがきみに合わせるようにするから」
「はい。えっ、でも」
「最初はぼくのほうがきみに合わせたほうがうまくいくよ。きっとね。そう思わない?」
「お、思います」
「うん。慣れたら、そこからはきみにゆだねるからね」
「がんばります」
「がんばらなくていいよ」
「えっ」
「自然に。でないと楽しくないでしょ?」
「あっ、はい」
「音楽とは楽しくってしかたがないって関係でないとね」
「わ、わかりました」
彼はわたしをちらりと見る程度で、たいていは視線をわたしからそらして話した。
わたしも彼にあわせてそうした。
そう、しようとはした。
「うん。じゃあまあ、簡単に説明するけど、演奏するのはぼくのオリジナル曲で、ファンの人たちからのリクエストがおおい曲を毎日ランダムに演奏することになっている」
「はい」
「オリジナル曲なのに譜めくりが必要なのかって話なんだけどね。ある日をさかいにしてぼくは、あたらしく記憶することがまったくできなくってしまってね。ふしぎと曲に関してだけはなぜかそういう状態なんだ。オリジナル曲はそんな状況のなかで一気に作った曲だから譜面を見ないと弾けなくてね」
「はい」
「きみもピアニストだからわかると思うけど、ぼくは曲に変な間をつくりたくはなくてね」
「はい」
「それに、視力もこの頃おちてきているうえにメガネもコンタクトがきらいときている。一応試してみたけど、どうもピアノとのいままでの感覚がちがっていてね。だから楽譜がおおきくてページ数がおおいのは、そういうわけなんだ」
「ああ」
「困ったことにお客さんを呼べるのはそのオリジナルの曲なもんだから……まあ、譜めくりが必要なのは、だいたいはそういうことなんだけどね」
「オリジナルというのは3つのシリーズですね」
「うん、そう」
「わたし海シリーズが大好きです」
「へえ~」
「ほんとですよ」
「きみもⅠ(ワン)とかⅥ(シックス)派かな?」
「わたしはⅢ(スリー)派です」
「めずらしいね」
「海シリーズは全部好きなんですよ。でもそのなかでもいちばんっていったらやっぱり」
わたしは彼にあわせて視線をそらしていようとしていたけど、どうしても見つめてしまっていた。
彼は見つめられることに慣れている様子だった。
わたしが見つめていることを気にしてないようだったし、それをわずらわしく思ってるといったようなとまどいもまったく見てとれなかった。
もし彼にずっと見つめられていたら、わたしは話などまともにできなかったかもしれない。
たぶん彼は相手がそうなってしまうことを体験的にわかっているんだろうなと、そんなふうに思った。
「いまね」
「はい」
「いま、リクエスト募ってアルバム作ろうとしてるんだけどね。人気のある上位の曲をあつめて。まあこの演奏会はそのアルバムとあたらしく書き下ろすアルバムへの予行練習みたいなものでもあるんだけど。そう、そっか、Ⅲが好きなんだね。Ⅲのどこかそんなにいいのか聞いてもいいかな。なぜ好きなのか」
「はい。わたしはⅢがあるから、だんだんとⅠとⅥがきらきらして聴こえてくるんだと思うんです。わたしはそうゆう曲が好きなんです」
「いい答えだね」
「ありがとうございます。まちがってますか?」
「まちがってはいないよ。ただ頭でっかちな感じがするな」
「頭……でっかち」
「きみはそれを理解してくれる感性を持ってる。いろんな批評があったけどそう感じてくれたのはきみだけだしね。気づいてほしいのは、ⅠとⅥがなぜ人気があるかってところなんだ。何かにこだわるのはいいことだけど、ときにはそれが目を曇らせてしまう場合もあるってことなんだ」
「わたし何かにこだわってるんですかね」
「無理やり好きになる必要はないってことさ」
彼のその言葉は、わたしのその何かを蹴飛ばした。
蹴飛ばしてくれた。
「そうなったらきみはほんとにすごいよ」
「そうなれますかね?」
「うん。きみならね」
彼のことばに対して、否定されたという感情よりもわたしは感謝に近い感情を抱いた。
そういってくれる人がようやくあらわれたっていったような。
正しい答えはまだわからない。
それなのに、わたしにとっては正しくはない答えだったということはじぶんでもびっくりするほど素直に受け入れられた。
「あっ、あたらしいアルバム作るんですね」
「この演奏会しだいだけどね」
「ほんとにわたしでよかったんでしょうか」
「どうして?」
「そんな大事な演奏会に」
「だめならだめでいいじゃない」
「はあ」
「きみが責任を感じることはないよ」
「でも」
「レコード会社もそんなに期待してないから」
「めちゃくちゃ期待してると思いますよ」
「そうかな」
「そうですよ」
「そうはいわなかったけど」
「期待しないレコード会社はないんじゃないですかね」
「そんなレコード会社じゃないんだけどね」
「売れることを期待しないところなんですか?」
「まあね」
「そんな会社あるんですね」
「無名のぼくにチャンスをくれるようなところだからね」
「じゃあほんとに期待してないのかもしれませんね」
「それもちょっとさびしいけどね」
彼はそういって笑った。
わたしもつられて笑った。
「それじゃあ一度試しにやってみようか、ねっ」
「はい」
彼はピアノにからだを向けた。