第1小節
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ひと夏のアルバイトに選んだのは海辺のホテルでの譜めくりの仕事だった。
ピアニストの左側に座って譜面をめくる。
単純な作業のように思われるかもしれないけれど、そう簡単にできるものでもない。
まず第一、当たり前だけど譜面が読めなければつとまらない。
やっかいなのは反復記号がある場合。
どこまでもどるのか、どこで終わるのか、どこへつづくのか、あらゆるパターンがそこにはある。
その点、大学でピアノを専攻しているわたしは問題ない。
そもそもそのアルバイトも、わたしが通ってる大学のピアノ科の生徒限定の募集だった。
けっこう破格と思われるような日給に、海辺のリゾートホテルで半月あまりすごせて、バカンス気分さえもあじわえるというアルバイトにはさすがに多数の応募者がいたみたいだった。
けれど面接もなしに書類選考だけでわたしが採用になった。
なぜわたしだったのか、その理由を知りたかった。
でもあまりそうゆうことをあえて聞くのもどうかと思ったので、特に気にかけないという感じでホテルの担当者の方からの採用の電話を受けた。
採用が決まったので、学園(柊学園音楽大学)の生徒として恥ずかしくないように、そしていざはじまってからいろいろとあわてないようにとわたしは本格的な譜めくりの準備に入った。
譜めくりには必要な技術がある。
そう、そのめくり方。
さりげなく、そっと、しなやかに。
もちろん音を立てるなどもってのほか。
譜めくりというのはすべてはピアニストのために存在しているわけだから、技術というよりも作法と呼んだほうがいいのかもしれない。
まず、めくるタイミングというものがある。
ピアニストとの息の合ったタイミングはとても重要で。
けっこうはやめに、ほんの少しはやめに、いやジャストで。
ピアニストが好むタイミングがあって、それこそピアニストごとにそのタイミングの瞬間があるともいえる。
どういったタイミングを好むのかはあらかじめ打ち合わせの段階で聞いておけばいいのだけれど、なにぶん言葉と感覚というものには微妙なずれがある。
なのでそこは実際に演奏をしてもらって確認する必要がある。
それにピアニストだって毎日おなじ調子ではない。
その日のテンポの変化やさまざまな反応の仕草をその都度くみとらなければならない。
それを怠ったり、無感覚でいたなら、ピアニストはイライラがつのって感情的に演奏に集中できなくなってしまう。
そういうことがあることを幼い頃よりピアノにふれてきているわたしは経験的にわかっている。
譜めくりはピアニストにみじんも影響をあたえてはならないのだ。
それから服装だって、髪型だって、外見もそれにふさわしいものでなければならないし、じぶんの体調だって本番に合わせてきちんとととのえておかなければならない。
まだまだある。
わたしは譜めくりに関する情報を大学の図書館やインターネットでできるかぎりあつめて勉強した。
心得ておくべきことは山ほどあった。
その奥の深さにわたしはひるんでしまうほどだった。
だけどきっとこの経験が、ピアニストとして将来かならず役に立つという感触も同時につかんではいた。
そして、何より大事なことがあった。
それはピアニストとの信頼関係。
それがあってこそうまくゆくということ。
わたしのいちばんの気がかりはそのことだった。
しかしわたしはまだピアニストが誰なのかも知らなかった。
募集時もふせてあったし、ホテルの担当者の方もおそらく理由があっていわなかったのでしょうからこちらから誰なのか聞くのも失礼に思ったし、それに何だかえらそうな感じにも思われそうだったので尋ねることはひかえた。
でも、正直なところ、ちょっぴり不安はあった。
じぶんでめくる場合に譜面がずれるのを嫌ったり、めくりすぎてしまうのをとにかく心配していたり、はたまた落としてしまうんじゃないかという恐怖にとらわれていたりする人が譜めくりを依頼するケースがあるようだったから。
そういった場合は失敗は許されないよね。
仕事だから失敗は許されないことだけど。
譜めくりも、アルバイトもはじめてのことだし。
あっそっか。
譜めくりのプロの方がいるわけだし、完ぺきを求めるならプロの方雇うよね。
アルバイトなんだからそこまで厳しくないかな。
だからといって失敗が許されるなんてことにはならないか。
仕事というのは失敗のどこまでが許容されて、どこまでが許容されないのだろう。
いやちょっぴりじゃなく、そこはうんと不安はあった。
しかしいくら心配しても仕方がないことだったので、わたしはその不安は妄想でかき消すことにした。
場所は、海辺のリゾートホテル。
ネットで見ると白亜の美しいホテルだった。
ホテルはおおきな森に囲まれていて、目のまえには広大な海がひろがっていた。
浜辺には桟橋があった。
わたしは朝、そこへ散歩にでかける。
わたしはそこで海を眺めている。
そこへ……うふふ。