ひとりぼっちのクリスマス
世界が白く息をしているような夜だった。駅前の街路樹には金色のイルミネーションが巻きつけられ、枝先に残った雪が、小さな星みたいに光っていた。吐く息はすぐに白くほどけ、手袋の中の指先は冷たかったのに、私の胸だけは不思議なくらい温かかった。隣にお父さんがいたからだ。
「お父さん、早く!」
八歳の私は、歩道の先でくるりと振り返って、両手を大きく振った。
「待ちなさい、香織。そんなに走ると転ぶぞ」
そう言いながら、お父さんは少し息を切らして私に追いついた。仕事帰りのコートは古く、マフラーも去年と同じものだったけれど、私には世界でいちばん格好いい人に見えた。お父さんはしゃがみ込み、私の赤いニット帽を直してくれた。
「お前もずいぶん足が速くなったなあ」
「だって、もう八歳だもん。なんでも一人でできるよ」
「そうか。もう八歳か」
お父さんはそう言って笑った。けれど、その笑顔の奥に、少しだけ寂しそうな影があったことを、私は今でも覚えている。大人になってから思い返すと、あれはきっと、私の成長を喜ぶ顔であり、同時に、私がいつか自分の手を離れていくことを想像した顔だったのだと思う。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「今年もサンタさん、来てくれるかな」
「香織はいい子だからな。きっと来てくれるよ」
「やった!」
私はその場で飛び跳ねた。お父さんは、私の頭をぽんぽんと叩きながら言った。
「今年は何をお願いするんだ?」
「えっとね……」
私は少し考えてから、胸を張って答えた。
「お父さんと、ずっと一緒にいられますようにってお願いする!」
お父さんは、すぐには何も言わなかった。街の音、車の音、遠くのクリスマスソングだけが、二人のあいだを通り抜けていった。
「……そうか」
「変?」
「変じゃないよ。お父さんも、そうだったらいいなと思ってる」
その言葉が、私の聞いたお父さんの最後の穏やかな声になった。
事故は、ほんの数秒の出来事だった。
横断歩道の信号が青から点滅に変わり、私は慌てて足を出した。お父さんが「香織!」と叫んだ。次の瞬間、手首を強く引かれて、私は歩道へ尻もちをついた。車のブレーキ音が夜の空気を引き裂いた。何か大きなものがぶつかる鈍い音がした。
見上げた先で、お父さんの体が倒れていた。
「お父さん?」
私は立ち上がろうとして、足がうまく動かないことに気づいた。膝が震えていた。息ができなかった。周りに人が集まってくる。誰かが電話をしている。誰かが私を抱きしめようとする。けれど私は、その腕を振りほどいて、お父さんのそばに這うように近づいた。
「お父さん、起きて。ねえ、起きてよ」
握った手は、まだ温かかった。だから私は信じられなかった。温かいのに、どうして動かないのか。さっきまで笑っていたのに、どうして目を開けてくれないのか。
「お父さん……?」
救急車のサイレンが近づいてくる。赤い光が街路樹の雪を染める。誰かが私の名前を呼んでいた。けれど、その声は水の底から聞こえてくるみたいに遠かった。
あの日から、世界は音を失った。
葬儀の日のことは、ところどころしか覚えていない。黒い服を着た大人たちがたくさんいて、みんな私に優しくしてくれた。親戚のおばさんが「明日からうちに来ればいいからね」と何度も言った。学校の先生も来てくれた。市の人も来て、これからのことを大人同士で話していた。
でも私は、ずっと玄関の方を見ていた。
お父さんが、いつものように「ただいま」と帰ってくる気がしたからだ。
お父さんは忘れ物が多い人だった。お財布を忘れて戻ってきたこともあるし、買い物袋をスーパーに置いてきたこともある。だから、きっと今回も、どこかに行ったまま帰り道を間違えているだけなのだと思いたかった。
けれど、夜になっても、お父さんは帰ってこなかった。
クリスマスイブの夜、私は父と暮らしていた小さなマンションにいた。翌朝には叔母の家へ行くことになっていた。大人たちは「一人にしておくのはよくない」と言ったけれど、私はどうしても、最後に一晩だけこの家にいたいと泣いて頼んだ。叔母は困った顔をしたあと、隣の部屋に泊まってくれた。けれど私は、自分の部屋にこもって、ベッドの上で膝を抱えていた。
部屋には、クリスマスツリーがまだ出ていた。お父さんが百円ショップの飾りを少しずつ買い足して、毎年一緒に飾っていた小さなツリー。てっぺんの星は少し曲がっていた。
机の上には、私がサンタさんへ書いた手紙があった。
今年のプレゼントは何がいいか、お父さんに聞かれたとき、本当はゲームが欲しいと思っていた。けれど、もうそんなものはいらなかった。私は鉛筆を握りしめ、震える字でこう書いた。
サンタさんへ。
お父さんのところへ連れていってください。
おねがいします。
香織より。
書き終えた瞬間、涙が止まらなくなった。
死ぬ、という言葉の意味を、私は正しくわかっていなかったのだと思う。ただ、お父さんがいない世界に置いていかれることだけが怖かった。朝が来るのが怖かった。知らない家へ行くのが怖かった。これから先、お父さんの声を聞けないまま生きていくことが、どうしてもできないと思った。
「お父さん……迎えに来てよ」
そう呟いて、私は泣き疲れて眠った。
その夜、私は物音で目を覚ました。
がたん、とキッチンの方で何かが落ちる音がしたのだ。
「……おばさん?」
返事はなかった。私は毛布を握りしめたまま、そっと部屋のドアを開けた。廊下の奥から、ひそひそ声が聞こえる。
「だから言っただろ、最近のマンションはオートロックが面倒なんだよ。煙突どころか、玄関から入るにも申請がいる」
「サンタさん、文句を言わないでください。最新式の認証を突破できただけでも奇跡なんですから」
「奇跡を起こすのが仕事だろ」
「奇跡と不法侵入は違います」
私は廊下の陰から顔を出した。そこにいたのは、赤い服のサンタではなかった。黒いスーツに赤いネクタイを締めた、少しくたびれた大人の男が一人。もう一人は、丸眼鏡をかけた優しそうな男で、こちらもスーツ姿だった。二人とも大きなビジネスバッグを持っている。
「……どろぼう?」
私が言うと、黒いスーツの男が勢いよく振り返った。
「失敬な。私はサンタクロースだ」
「サンタさん?」
「そうだ。サンタクロース配送管理部、特別巡回班、識別番号四五六九――」
「サンタさん」
眼鏡の男が小声で遮った。
「あっ、そうだった。子どもの前では親しみやすく、だったな。私はサンタさんだ」
私は眠気と涙でぼんやりした目をこすりながら、男の全身を見た。
「でも、赤い服じゃない」
「あれは広報用だ。現場であんな格好をしていたら目立つだろう」
「サンタさんって、スーツ着るの?」
「現代社会に適応しているんだ。最近はコンプライアンス研修もある」
「こんぷら……?」
「子どもに難しい話をしないでください」
眼鏡の男が呆れたように言った。彼は私に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「驚かせてごめんなさい。私はトナといいます。サンタさんの助手です」
「トナ?」
「昔はトナカイと呼ばれていましたが、今は人型勤務が主流になりまして」
そう言って、トナは内ポケットから名刺を取り出した。白いカードには、銀色の文字で「北極圏贈与機構 現地支援課 トナ」と書いてあった。
「トナカイって、名刺持ってるの?」
「時代に乗り遅れないよう、努力しています」
私は少しだけ笑いそうになった。笑いそうになって、そのことに自分で驚いた。お父さんがいなくなってから、私は一度も笑っていなかったからだ。
けれど、机の上の手紙を思い出した瞬間、その小さな笑いは消えた。
「ねえ」
私は二人を見上げた。
「本物のサンタさんなら、お願い、叶えてくれる?」
サンタは、私の顔を見た。さっきまで面倒くさそうにしていた目が、少しだけ真剣になる。
「手紙は読んだ」
「だったら、連れていって」
「それはできない」
「どうして!」
私の声は、自分でも驚くくらい大きかった。隣の部屋で寝ているはずの叔母が起きてしまうかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。
「だってサンタさんなんでしょ? 奇跡を起こせるんでしょ? だったら、お父さんのところに連れていってよ!」
トナが膝をつき、私と目の高さを合わせた。
「香織さん。あなたのお願いは、とても悲しいお願いです」
「悲しくてもいい」
「いいえ。あなたがいなくなったら、悲しむ人がいます」
「いないもん!」
「叔母さんがいます。学校の先生がいます。お父さんのお友達もいます」
「そんなの、お父さんじゃない!」
私は叫んだ。
「お父さんじゃなきゃ嫌だよ! お父さんがいないなら、私、ここにいたくない!」
トナは何か言おうとして、口を閉じた。困ったように眉を下げる。優しい人なのだとわかった。優しいからこそ、私の言葉に傷ついているのだともわかった。けれどその時の私は、誰かを傷つけることより、自分が一人で残されることの方が怖かった。
沈黙の中で、サンタが頭をかいた。
「あー……こういうのは苦手なんだよな」
「サンタさん」
「わかってる。逃げない。逃げないから、そんな目で見るな」
サンタはため息をつき、私の机の前に立った。小さなツリー、開いたままのノート、鉛筆、そしてサンタへの手紙。彼はその横に置かれていた、古い封筒を手に取った。
「これは?」
私は目を見開いた。
「それ……知らない」
封筒には、お父さんの字で「香織へ」と書かれていた。
「キッチンの棚の奥にあった。クリスマス用に隠していたんだろうな」
サンタはそう言って、封筒を私に差し出した。
私は震える手でそれを受け取った。中には、便箋が一枚入っていた。お父さんの字は少し丸くて、ところどころ曲がっていて、見ただけで胸が痛くなった。
メリークリスマス、香織。
プレゼントは気に入ってくれたかな。
今年は、仕事の帰りが遅くなる日が多くてごめん。
お母さんがいない分、寂しい思いをさせているんじゃないかと、お父さんは時々心配になります。
でも香織は、いつも明るく笑ってくれる。
その笑顔に、お父さんは何度も助けられています。
香織は、これから少しずつ大きくなります。
楽しいことも、悲しいことも、悔しいことも、たくさんあると思います。
全部うまくできなくてもいい。
泣いてもいい。怒ってもいい。
でも、自分のことだけは、嫌いにならないでください。
香織が生きていてくれることが、お父さんにとっていちばんのプレゼントです。
世界でいちばん大好きな香織へ。
お父さんより。
便箋の文字が、涙でにじんだ。
お父さんは、私が泣いてもいいと言ってくれていた。うまくできなくてもいいと言ってくれていた。生きていてくれることがプレゼントだと言ってくれていた。
私は手紙を胸に抱きしめた。
「……お父さん」
声にした途端、胸の奥で凍っていたものが割れた。私はその場にしゃがみ込み、子どもみたいに泣いた。いや、私は子どもだった。お父さんを失ったばかりの、世界でいちばん心細い子どもだった。
トナがそっと私の背中に手を置いた。サンタは何も言わなかった。
どれくらい泣いたのかわからない。涙が少し落ち着いたころ、サンタが静かに言った。
「香織」
私は顔を上げた。
「願い事は、まだ同じか?」
私は手紙を握りしめた。お父さんのところへ行きたい。その気持ちは消えていなかった。けれど、それはもう、死にたいという気持ちとは少し違っていた。会いたい。もう一度だけ声を聞きたい。もう一度だけ抱きしめてほしい。
「……会いたい」
私は言った。
「お父さんに、会いたい」
サンタはトナを見た。
「規則では?」
「原則禁止です」
「例外は?」
「書類が山ほど必要です」
「担当は?」
「私です」
「じゃあ頼んだ」
「やっぱりそうなるんですね」
トナは困った顔をした。でも、すぐに笑った。
「ただし、少しだけです。ほんの少しだけ」
「……ほんと?」
「クリスマスですから」
サンタは胸ポケットから小さな鈴を取り出した。赤いリボンのついた、古びた銀の鈴だった。
「香織。これは、お父さんのところへ連れていく魔法じゃない」
サンタは言った。
「お別れを、ちゃんと言うための魔法だ」
鈴が鳴った。
りん、と澄んだ音が部屋いっぱいに広がった。小さなツリーの電飾がふわりと明るくなり、窓の外で降っていなかったはずの雪が、白く舞いはじめた。世界の輪郭がやわらかく溶けていく。机も、ベッドも、壁も、ぜんぶ光の中に沈んでいく。
そして、光の向こうから、誰かが歩いてきた。
古いコート。去年と同じマフラー。少し猫背で、優しい目をした人。
「……香織」
「お父さん!」
私は走った。転びそうになりながら、お父さんの胸に飛び込んだ。お父さんの腕が、しっかりと私を抱きしめてくれた。あの日、横断歩道の前で私を引き寄せてくれた手と同じだった。大きくて、温かくて、少しだけ硬い手。
「お父さん、お父さん、お父さん……!」
「うん。ごめんな、香織。怖かったな」
「やだ。行かないで。もうどこにも行かないで」
私はお父さんのコートを握りしめた。絶対に離すまいと思った。けれど、お父さんは悲しそうに笑った。
「お父さんは、ずっと一緒にはいられない」
「どうして」
「もう、帰らなきゃいけない場所があるんだ」
「私も行く」
「だめだ」
お父さんの声は、優しかったけれど、はっきりしていた。
「香織は生きなさい」
「でも、一人になっちゃう」
「一人じゃないよ」
「お父さんがいないもん」
「見えないだけだ」
お父さんは、私の涙を親指でぬぐった。
「香織が楽しいときも、悲しいときも、怒っているときも、転んで泣いているときも、お父さんはきっと、どこかで見ている。声は届かないかもしれない。手は握れないかもしれない。でも、香織が生きていてくれたら、お父さんはそれだけで嬉しい」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「私、泣いてもいい?」
「いいよ」
「怒ってもいい?」
「いい」
「お父さんのこと、忘れたくない」
「忘れなくていい。でも、香織の毎日を、お父さんだけでいっぱいにしなくていい」
その言葉の意味は、八歳の私にはまだ半分もわからなかった。ただ、お父さんが私に生きてほしいと思っていることだけはわかった。
「お父さん」
「うん」
「私、生きる」
そう言った瞬間、お父さんの顔がくしゃりと歪んだ。泣きそうで、でも嬉しそうな顔だった。
「強くなったな、香織」
「強くないよ」
「強くなくても、生きていいんだ」
お父さんは私の額にそっと口づけた。
「香織がお父さんの娘で、本当によかった」
「私も、お父さんの子でよかった」
光が少しずつ薄くなっていく。お父さんの体が、雪のように透けはじめる。
「待って」
私は手を伸ばした。
お父さんは最後に、あの街路樹の下で見せたのと同じ笑顔を浮かべた。
「メリークリスマス、香織」
「メリークリスマス……お父さん」
お父さんは、光の中へ消えていった。
気がつくと、私は自分の部屋の床に倒れていた。窓の外はまだ暗く、ツリーの電飾が静かに点滅していた。廊下から叔母の寝息が聞こえる。部屋には、サンタもトナもいなかった。
夢だったのだろうか。
そう思って起き上がると、手の中に、お父さんの手紙があった。確かに、キッチンの棚の奥に隠されていたはずの手紙。
そして机の上には、見覚えのない小さな銀の鈴が置かれていた。赤いリボンが結ばれた、古びた鈴。
私はそれを手に取り、そっと鳴らした。
りん、と音がした。
その音は、胸の奥まで届いた。
「私、生きるよ」
私は窓の外を見上げた。夜明け前の空は冷たく澄んでいて、遠くの街灯が雪みたいに光っていた。
「お父さんの分も、ちゃんと生きる」
あれから何年も経った。
私はもう、八歳の子どもではない。クリスマスが来るたびに、今でも少し胸が痛む。街路樹のイルミネーションを見ると、あの夜の白い息を思い出す。横断歩道のブレーキ音を思い出して、立ち止まってしまうこともある。
けれど私は、生きている。
泣きながら大人になった。怒りながら大人になった。何度も立ち止まり、何度も誰かに助けられながら、それでも今日まで生きてきた。
あの夜の出来事が夢だったのか、現実だったのか、今でもわからない。スーツ姿のサンタクロースも、名刺をくれたトナカイも、規則違反の奇跡も、誰に話しても信じてもらえないかもしれない。
でも、私は信じている。
お父さんに会えたあのクリスマスを。
私に「生きていい」と言ってくれた、あの温かい腕を。
そして今でも、机の引き出しの奥には、赤いリボンのついた銀の鈴がある。
クリスマスの夜、どうしても寂しくなったとき、私はその鈴をそっと鳴らす。
りん、と澄んだ音がする。
すると、どこか遠くで、お父さんが笑っている気がするのだ。




