第7章 エースは誰だ
都内の某所、繁華街から少し離れた裏路地の地下。
通りがかるだけでは絶対にわからない場所に、そのバーはあった。
重い樫の木で作られた扉は年季が入っているがよく磨きこまれており、飴色に光っている。木目が美しい曲線を描いていて、左側に取り付けられた樫のドアノブも客たちの手で握りこまれて滑らかでやわらかな手触りだ。ドアの正面には真鍮でできた小さなプレートに“Bar Lupin”とそっけなく彫り込まれ、毎夜常連の客たちを迎えていた。
ぎぃ……と重たく軋んだドアが内側に開き、一人の男が店の中に入ってきた。
店内はオレンジ色のランプが所々に配置され、薄暗いが心地よい明るさだ。大きな一枚板のカウンターテーブルに、高いスツールが横並びに8脚。隣の壁に沿うようにして2人用の小さなテーブル席が3つ。ウナギの寝床のように細長い造りでも、高い天井のおかげであまり圧迫感を感じさせない。
男は黒っぽいベレー帽をかぶりティアドロップのサングラスをかけ、口元にひげを蓄えていた。着古したデニムにチェックのシャツ、というありふれた服装だが、堂々としたたたずまいが店の雰囲気にひどくマッチしていた。
常連客なのだろう。さっとカウンターの一番奥まで歩いてくると、サングラスを取りスツールを引いて腰かけた。
「アオバ」
キッチンの入口で背中を向けてグラスを拭いていた若いバーテンダーに声をかける。光沢のある黒いベストと首元の蝶ネクタイがまだ初々しい。聞き覚えのある声に、アオバは弾かれたように顔を上げた。
「あ、桐原さん! お久しぶりです! いらっしゃいませ」
「久しぶりだな。元気でやってるのか」
「はい、練習もしっかりやってますよ」
桐原と呼ばれたその男は、そうか、とかすかにほほ笑むと胸ポケットからタバコを取り出し、テーブルの上のマッチを擦って火をつけた。ふーっと息を吐くと細い煙が立ち昇り、天井へと吸い込まれていく。
アオバの地元である長野でアーチェリーショップを営む桐原は、アオバが高校生だった頃からよく面倒を見てくれた。アーチェリー部に入って3か月が経った頃、新入部員たちの弓を買うために当時の部長と顧問が呼んだのが桐原だった。初めて桐原に会ったとき、あまりに”ワルそうな”その風貌に、高校一年だったアオバはすっかり萎縮し、まともに話せるようになるまで半年以上かかったのだ。
その後も、桐原は合宿や試合の前など定期的に上條東高校を訪れては、部員たちに指導をしたり、顧問と楽しげに冗談を言い合ったりしていた。もともと業者として毎年のように長野県の各地の高校に出入りしていた桐原だ。その中でも東の名門、上條東高校へ出入りする回数が最も多かったのは当然のことだった。今ではアオバにとってアーチェリー以外のことも相談できる、数少ない大人の一人だ。
何にしますか、とアオバは言わずに、いつも桐原が最初にオーダーするモヒートを作ろうと、ミントを手に取った。Bar Lupinのモヒートは、ミントをたっぷり使うのだ。
「アオバ、今日はモヒートじゃなくていい。マティーニをくれ」
「マティーニですか? 桐原さん、食事してきたんですか」
「あぁ、取引先の部長に誘われてな。四ツ谷で接待を受けてきた」
ふっ、と目尻にしわを刻み、悪そうな顔で笑う。
マティーニは”007”でジェームズ・ボンドが飲んでいたことで有名なカクテルだ。ジンとベルモットを合わせ、逆三角形のカクテル・グラスの底にオリーブの実を沈める。非常にアルコール度数が高く、お酒に疎い女子大生なんかが飲んだら一杯飲み切らないうちにK.O.だろう。そうでなくてもすきっ腹に叩き込むような酒ではない。
「できるか」
「できますよ、けっこう出るカクテルですもん。俺、あれからだいぶ練習してレパートリー増やしてますから」
「そうか。楽しみだな」
アオバの得意げな顔に違わず、出されたマティーニは美味だった。一口すすった桐原の満足そうな顔を見るとアオバはニっと笑い、つまみのレーズンバターとマカダミアナッツを出した。ナッツのほうはサービスだ。
「今年の新入部員はどうだ。いいのが入ったのか」
「いいかどうか……それはまだわかりませんね。それなりに人数は集まりましたけど、残念ながらマコト以外は全員初心者です」
ほう、と桐原が片方の眉毛を上げる。もちろん、上條東高校出身の藤宮マコトも教え子だ。
「マコトだけか。鳳城大学もアーチェリーのスポーツ推薦枠を廃止してから、人材が集まりにくくなったな。リーグ戦も来年以降は苦戦しそうだな」
そうですね、とアオバも同調する。
リーグ戦は大学対抗でのチーム戦だ。大学数が多く激戦の関東地区で勝ち抜くには、チーム全員がそれなりのレベルでないと難しい。今のところ、1部から6部まである関東地区で鳳城大学は1部リーグをキープしているが、上位リーグの実力はほぼ拮抗している。いつ何時2部落ちするかわからない。
アオバの一つ上の学年までは鳳城大学はスポーツ推薦枠に洋弓部が入っていた。そのため、一条ケイや橘ヒカル、結城兄弟などのツワモノが全国各地から集まったものだが、スポーツ推薦枠が昨年なくなったときから徐々に減り、今年に至ってはマコトは一般入試での入学だ。いくら鳳城大学洋弓部が強豪であったとはいえ、高校時代にみっちり部活漬けだった選手たちは推薦入学のほうに流れがちだ。今年の一回生も他校の推薦枠に多数入学したとの情報は桐原も知っていた。
「ま、でも育てりゃなんとかなるんじゃないか。お前と同学年の矢上だって、タッパも筋力もあるしなかなか筋がいいと思うぞ」
「シンイチは別格ですよぉ。あの体格は今から鍛えてなるもんじゃありませんし」
「まぁ……そうだな」
マティーニはほとんど空になっていた。二杯目にラムのロックを注文する。ラムの最高級品と言われる、ロンサカパ・センテナリオの23年物で、桐原のお気に入りの逸品だ。これが置いてある店は都内でもそう多くはない。片手に収まったグラスのなかで、カラリ、と見事な球体の氷が鳴った。
「そろそろ王座予選も始まるだろう。今年のメンバーはどうするんだ」
「そうですね、4回生が2人出るか出ないかというところなので、主力は3回生になるでしょうね。一条主将と橘副将は確定です。あとは、結城兄弟、的場、マコト、俺の中で予選の6名は決まりそうです」
「ケイは大丈夫なのか。この間の都大会では肘を痛めていただろう」
「ええ、ですが練習を見ているとほぼ完治しているようです。今年は特に他校に強豪選手が多いので、主将に抜けられたら困りますよ」
王座、とは、毎年春から初夏にかけて行われる全国の大学対抗の試合だ。各地区で予選を行い、それぞれの枠で勝ち上がった大学が本選に行ける。本選のレベルはそれこそリーグ戦の比ではない。関東以外にも関西、東海、九州、北陸など、全国各地から我こそはという血気盛んで実力者揃いの大学が集まり、しのぎを削り合うのだ。鳳城大学は昨年、一昨年とベスト8に終わっており、アオバは自分が在学中に王座の頂点を目指すことを目標のひとつとしている。
「……個別にみりゃ、お前らのメンツで王座優勝は難しい話ではないと思うがな。チーム戦ってのはいろいろあるもんだ。エースがごろごろ揃っていても勝ち上がれるかはわからんし、その逆もまた然りだ。どうやってその壁を越えていくかは、個人でオリンピックを目指すより複雑なことかもしれんな」
ぷわり、とロンサカパの芳醇な香りが桐原の周りに漂う。大人の香りだ、とアオバは思った。
このバーでバイトをすると決めたのは、シフトが遅い時間からでいいことと、普通の居酒屋よりも静かだということが理由だった。夜7時すぎまでみっちり練習をしても、バイトが9時から2時までなので支障はない。小さなバーなのでお客も普段は常連しか来ないし、大声で騒いだりベロベロに酔っぱらって粗相をするような客はいない。何より、ドラマの影響でバーテンダーという職業に憧れていたこともある。
それ以上に、尊敬している桐原が酒好きだということ。忙しい桐原が、ときどき仕事で上京すること、そして息抜きにこのバーに立ち寄ることを知っていたからだ。Bar Lupinのオーナーは、桐原の昔なじみだった。
つまみにチーズを追加して、ラムのおかわりを頼む。ほとんど顔色は変わっていない。酒に弱く、すぐに全身真っ赤になってしまうアオバからするとうらやましいくらいだ。
「で、お前は今年はどうするんだ。王座とリーグ戦だけが目標ってわけでもないだろう」
思わず返事につまった。
それどころではない。新入部員たちにはああ言ったが、マコト以外に戦力になれる者がいない、いや、それ以上にライバルになりそうな者がいないことで、アオバは大いにモチベーションを下げてしまっていた。王座とリーグ戦に気合いが入るのは、よくて今年までだろう。今年の4回生が卒業してしまったら、鳳城大学団体としてのレベルはぐんと下がってしまう。たとえ、絶対的エース、一条ケイがいたとしても。
アオバにはそれが歯がゆかった。逆に言えば、それだけ鳳城大学洋弓部のメンバーとしてのプライドが芽生えているということか。
「……まぁ、そうっすね、全日も国体もありますし。あとは、シングルと70Wで自己ベスト出すことです。70Wはまだ一条主将に勝ててないですから」
目が泳いだのがわかったのだろうか。
桐原は何も言わず、しばらくアオバをじっと見つめてきた。そのままグラスにちびりと口をつける。何も飲んでいないアオバのほうが、ごくりと喉を鳴らした。店内で小さく掛かっているジャズが急に音量を増したようだった。
こういうときの桐原は怖い。こちらの考えを何もかも見透かしているような、そんな目をしているときは。
高校時代、スランプに陥って試合で全然成果を出せなかったとき。
一条ケイを追いかけて、鳳城大学への入学を即決して報告したとき。
入学してすぐ、部の仲間と折り合いがつかず、むしゃくしゃしながら試合に出ていたとき。
そんなとき桐原に会うと、決まってさっきのような目でこちらを見ていた。普段のように説教を垂れるでもなく、アドバイスをするでもなく、アオバの心の中を覗きこむように。
体が軋んでしまうかと思われるほど長い時間、そうして二人は見つめ合っていたが、やがて桐原のほうがふっと視線を外すと、もう一本タバコを取り出して燻らせた。
「……ま、お前さんのこったから頭で考えるより、体で覚えていくだろ。あんまり俺は心配していない。だからお前も心配するな。今までどおり伸び伸びやれ」
「……はい」
いつもどおりの渋く柔らかいテノール。この声で静かに言われると、アオバはいつも安心していられた。やはり桐原には気づかれたのだろう。俺のモチベーションの変化を、この人は誰よりもよくわかってくれる。
店の古い振り子時計が、12時を告げた。オーナーご自慢のアンティークだ。
桐原はタバコをクリスタルの灰皿に押し付けて消し、よっこらしょ、と立ち上がる。スマートに会計を席で済ませ、また来る、と言ってドアのほうへ歩いていった。
「近いうちにレンジに行くぞ。ケイから新入部員の弓を選ぶのに、事前にチェックしてほしいと言われてるからな」
じゃあバイト頑張れよ、と言って手を振るとカラン、とベルの乾いた音を残して店を出ていった。
レンジに来るって?そういう大事なことはもっと早くに言って欲しい。新入部員の件は、もうケイからさんざん情報を仕入れていたのだろう。ついでに、アオバが彼らのことをどう思っているかということも。つい先日、新入部員のことでケイに軽く愚痴った話はきっと桐原の耳には入ったはずだ。
アオバはがっくりとうなだれた。筒抜けもいいところだ。良くも悪くも、桐原の下で育てられた上條東高校の出身者たちは、桐原を父親のように慕うファミリーのような雰囲気がある。これだけ年下の、扱いにくい男子たちの尊敬と信頼を一心に受ける桐原の懐の深さは脱帽だが、あまり何でもかんでも共有されるのは居心地が悪い。思春期の少年のような気恥ずかしさを抱えながら、今更ながら頬に血が集まるのをアオバは感じた。
————それにしても、毎度毎度どうして12時になると帰るのか。
まるでシンデレラのような、とそこまで考えて、あまりの似合わなさに思わずひとり噴き出した。
*****
その頃、我らが主将一条ケイは、今年のリーグ戦・王座予選のメンバー選定に頭を悩ませていた。
先日痛めた右肘はほとんど完治していると医者には言われたものの、まだ若干の不安があり思い切って射てていない。
周りには気づかれていない様だが、こういうことは自分が一番よくわかる。
また、アオバがここのところ練習に身が入っていないことも気になっていた。もともと高校の頃から気分にムラがあり、調子の上下が激しいタイプではあった。大学に入ってからは、新たなライバルである的場レンがいい刺激になり、実力ももう一段あがったという印象だった。
新入部員についても、希望よりも不安が勝っている状況だ。ここまで初心者の数が増えると、今まで通りの練習内容では初心者を完全に置いてきぼりにしてしまう。そうなっては、今後の鳳城大学を支える選手が育たない。
早くも痛くなってきた頭を抱えながら、いったん気持ちを切り替えようと部屋を出てコンビニに向かう。学生用のアパートは、家賃は安いが相応に手狭だ。実家の自分の部屋よりも一回り狭くて、慣れるまで窮屈な気分で過ごしたものだ。
まだ肌寒いが上着が1枚あれば過ごせるまでになってきた。ジーンズにロングTシャツ、薄手のニットのカーディガンを羽織った格好で、心地よい春の夜風に身を任せる。周りに丸い道路標識を見かけるとそれに向かって無意識に両腕がセットアップの格好をしてしまう。すっかり立派なアーチェリー馬鹿だ。
――エース、か。
先日ヒカルに言われた言葉が甦る。
『ケイ、肘が治って良かったな。お前は鳳城のエースやからな!』
満面の笑みでそう言ったヒカル。今の俺は本当にエースなのだろうか。実力でいえば4回生の先輩たちのほうがはるかに上だと思っている。
よく故障する肘。意外にも体力のない体。シングルラウンド1回を真夏にやって、必ず毎回熱中症にかかっている。
いい加減、慣れてもいいと思う。そんな自分に苛立ちを感じなかったことはない。
アオバ、マコトの自分を見つめる目が怖かった。純粋に、自分を尊敬し、憧れ、キラキラと輝く瞳。
いつまで彼らの目標となっていられるのだろうか。いや、すでに自分にはそんな資格はないと思っている。
ただ、アーチェリーが好きで好きで、どんなに体調が悪くても、ケガをしてもやめられなくて。
それだけで運よくここまで来てしまった。
指導者にも、ライバルにも恵まれただろう。そのことについては本当に感謝している。
願わくば、後輩たちにも、勝つためだけではなくアーチェリーを楽しんで欲しい。楽しむ、その延長線上に勝つ楽しさもあると思う。
そこまで思い至ったとき、少し気持ちが軽くなった気がした。
コンビニまではもうすぐだ。
ケイの足取りは、ほんのちょっとだけ早まった。