第5章 Max&Minimum
練習は終始和やかなムードで行われていた。
ただし、そこには瞬時に切り替わる空気と、冗談を言い合っていても一定の高さに保たれている意識の波動があった。
リラックスすることとだらけることは別物だ。
肩の力を抜いた状態でも、自分の体がしゃんと背筋が伸びているような、余計な力は入っていないが丹田に気合いを込めているような、そんな雰囲気をマコトは肌で感じとっていた。
――アーチェリーの名門、鳳城大学でトップ選手に交じって弓を射つ。
そんな幸運に恵まれて、文字通りマコトは借りてきた猫のようにおとなしくなってしまっていた。
まずは肩慣らしやな、と言ったヒカルの言葉に一同は賛成し、70メートルの練習から始める。
マコトは遠慮して射場の一番左端の的前に立ち、70メートルの距離から的の中心、Xを見据えてシューティングラインに立つ。
マコトのすぐ右隣に副将の橘ヒカル、主将の一条ケイ、結城アキラ、ツバサが同じように真っ白なシューティングラインを跨いで弓を構える。左利きのツバサだけはみんなと向かい合うように立っている。
一瞬の静寂。
体に沿うように引き絞られた弓。
それぞれの的の真ん中、ゴールドに狙いを定める。
矢をぎりぎりまで引き込んで、クリッカーの切れるかすかな音の直後。
びん、と緊張がはじける低い音とともに矢はストリングを離れて飛んでゆく。
残された弓は先端に取り付けた錘の重みで持ち手を中心にしてぐるりと落ちる。
しゅ、と羽根が空気を裂く音に合わせ次々とまっすぐに放たれる矢。一射目は全員が10点だった。
中でもケイの矢はX。インナー10に深々と吸い込まれていった。
「相変わらず絶好調やな、ケイ」
ひゅ~、と口笛を吹いて大げさに揶揄したのはヒカルだ。
ケイはその軽い賛辞に特に反応することもなく、二射目をつがえる。
よっしゃ、と呟いてケイより先に二射目を放ったヒカルが今度はXを射抜いた。
―——―この距離でインナー10を狙って射ったのか?
一部始終を間近で見ていたマコトは驚きのあまり射つのを忘れ、神技を放つ3回生たちの背中を見つめていた。
みんなの片胸を覆っているチェストガードの背中側には、いくつもの輝くバッジがついている。
全国クラスの大会などに参加するともらえるバッジだ。その数が多ければ多いほど、全国区の実力者だということだ。
また、腰から下げている矢筒には、真ん中に的を模した星型や五角形のバッジが留められている。公式試合で一定以上の点数を記録した者だけに渡される、全日本アーチェリー連盟公認のバッジだ。色によって段階が決まっており、これを見れば、持ち主がどのくらいの実力なのかがわかる。まずはゴールドをもらうことがトップ選手の仲間入りの証としてアーチャーが目指す目標だ。
「藤宮くん、だっけ、さっきからずっと手が止まってるけどどうしたん?」
あまりに呆けた顔でぼぅっと突っ立っていたのだろう、矢取りを終えてシューティングラインまで戻ってきたヒカルに顔を覗き込まれる。
「あ、えっと、その、先輩方の射型を見させてもらってましたっ」
「ははは、そうか、それは恥ずかしいなぁ。油断できへんわ」
「いえっ、た、橘先輩の射型、ものすごくリリースが綺麗で……俺、どうしてもたまに力んじゃうんス」
そういってマコトは左の人差し指を唇の前で立て、右手それを握りリリースの形を作る。
利き手の人差し指から薬指までの三本の指で弦を引っ掛けるようにして握り、リリースするときは背筋の力を使ってスムーズに後ろへ抜くようにするのだが、気づくと握りこみ過ぎていることがあるようだ。無駄な力が最後まで弦にかかっていると矢にその力が伝わってしまい、ブレの原因になる。
「あぁ、リリースか。指を最初から深く掛けすぎなんちゃうかな。俺が見たるからちょっと射ってみ」
「あ、はいっ! ありがとうございます!」
「ところで藤宮くん、君の弓、なんて名前なん?」
「……はい?」
「弓。自分のパートナーなんやから、名前くらいあるやろ?」
「……えっと、その、名前はない……です」
「なんで?! 自分、ペットは飼ってへんの? ペットには名前つけるやろ?」
「あー、実家では犬、飼ってるんすけど……レゴって名前っスけど」
「せやろ? なら弓にも名前つけるんは普通やろ。可愛い相棒やねんから。ちなみに俺の弓は”長太郎”って名前や。長距離が上手くなるようにやな。あ、ケイの弓はな……」
「……橘。そのくらいにしておけ」
目を点にしたまま固まっているマコトを横目でみて、ケイが助け舟を出してくれたのだろう。端正な横顔のまま、切れ長の黒い瞳がじろりとヒカルを睨んでいた。
へーい、と気軽な返事をしてヒカルがぺろりと舌を出す。さすが関西人、しゃべりだすと止まらない。
「じゃあ改めて。1本射ってみて」
「はい!」
マコトはたちまち全身に回ってきた緊張を吹き飛ばすように腹から返事をし、一射目の矢をつがえる。
シューティングラインに立つ足の位置を微調整し、丹田を意識してまっすぐに立つ。
目の前の的に視線を固定したまま左手のグリップの感触を味わい、右手の力をできるだけ抜いて弦に指を掛ける。これが射つ前の一番大事な動作、セットだ。
息を吐き出し、そしてゆっくりと吸いながら左ひじを伸ばしたまま右手を背筋に任せて一緒に弓を肩の高さまで持ち上げセットアップ。そのまま両の背筋を真ん中に寄せるようにしてドローイングしていく。
これが上手くいっているときは、2キロほどもある弓の重さは一切感じない。40ポンド近くある弓の硬さも、まるでゴムかのように楽々と引けてしまう。弓と一体となるようなこの感覚が、マコトは好きだ。
キリキリと引き絞りながら照準器を的の真ん中にあわせる。そのまま引き続け、カチ、とクリッカーの音が鳴った瞬間、背筋を意識して両側に伸びるようにリリースする。
風を切って飛んでいく矢の終着点は9点。
「うん、悪くないやん。でもやっぱお前、弦にちょっと深く指掛け過ぎやな。薬指だけでも浅くしてみたらどや?」
そや、ビデオ撮ったろビデオ、と言いながらヒカルは自分の弓をボウスタンドに置いて射場を出ていく。
「あ、俺も行きます!」
先輩にわざわざ自分のためにビデオを取ってこさせるなんてできるわけがない。
慌ててマコトも弓を外し、大股で歩いていくヒカルの後を追った。
「……藤宮、だっけ、あいつなかなか良い射型してんじゃん」
「だねー。今度のリーグ戦、メンバー入りしてくるかな」
「いやーまだまだ! 一年坊主には譲れねぇよ! ま、補欠なら可能性あるかもなー」
アキラとヒカルが向かい合ったまま賑やかに話し出す。
この双子は、自分たちが双子であることを最大限に活用するタイプだ。
すらりと程よく筋肉のついた体躯に鍛え上げて割れた腹筋。
少し癖のある髪を茶色く染め、ツンツンと長めにスタイリングしている。
笑うと八重歯が覗き、長い前髪の間から見える大きめの二重の瞳がチャーミングですらある整った顔立ち。
ツバサが左利き、アキラが左目の下に泣きボクロがあることを覗けば、一卵性双生児の二人は親でもときどき間違えるほどよく似ていた。
所属の学部が違うので、ときどき出席だけお互いに代返を頼んだり、アキラが趣味で所属している軽音サークルにツバサが時々参加したり(もちろんアキラ本人はいない)ということを面白がってやっていた。今日も、上下完全にお揃いのユニフォームを着て練習に出ている。
「そーいや、二回生のやつら、遅ぇな。部室の掃除、そんなに時間掛かるか?」
「……お前ら二人がこの間の追いコンで派手に散らかしただろう」
「あー、そうだっけ?まーみんな楽しんでたんだから同罪じゃーん」
「いやぁ~あれは傑作だったな! 特にケイの女装がな!」
「………」
ケイの静かな突込みと冷ややかな視線にも臆せず、くくくく!と二人で引き気味に笑い転げる。薄い腹を折り曲げて八重歯を見せながら笑うその仕草までそっくりだ。
今日は朝から二回生は新年度に向けてクラブハウス、つまり部室の大掃除をしているのだ。
射場レンジにあるプレハブ小屋は、正確には部室ではなく更衣室兼用具置き場だ。
ミーティングをしたり個人のロッカーがあるのは、大学の敷地内にあるクラブハウス棟で、他の部活やサークルと同じように一室を与えられている。入口には年季の入った木製の立て札が掛かっており、「体育会洋弓部」と墨痕鮮やかに(書いた当時は)書かれていた。ただでさえ図体のデカイ男ばかりなので、普段は狭い部室に居座ることはない。週1回行われるミーティングや新学期の部活見学の期間を除けば、卒業生の追い出しコンパや新歓コンパなどが行われるときに、二次会会場となって少し騒ぐことがあるくらいだ。
今年から部活の主力となる3回生に上がったメンバーのうち、アキラとツバサの二人がやや”元気過ぎる”ために、例年よりも派手な追いコンとなったのは致し方ない。4回生は就活や卒論が控えているのでフリー練習となり、幹部も3回生に譲るし試合に出るかどうかも自由だ。
カチ、とクリッカーが切れる音が自分の耳元でし、アキラは思わず反射でリリースをしてしまった。
しまった、と思った時にはもう遅く、引いている途中で的へ押し出された矢はクリッカーに挟まったまま羽根をくしゃりと折り曲げてあらぬ方向へ飛んで行った。慌てて弓を大きく上に振ったが、見事にM、0点だ。
「っ、おいツバサ! てめぇソレやめろっていつも言ってんだろ!」
「くっはははは! ほんっとアキラはクリッカーの音に毎度騙されんのな。そんなだから試合中もやるんだよ」
「~~っ! ぜってぇ克服してやるっ」
まだ浅い傷口に塩を塗りたくられ、くそ、と忌々しげに吐き捨てた。してやったりと手を叩いて笑う片割れをにらみつける。
矢を毎度一定の長さまで引き込むための補助器具として、矢を乗せるレストの近くにクリッカーという薄い金属のプレートを取り付ける。クリッカーと弓本体の間に矢を挟み、レストに乗せて、一定の距離まで引くとクリッカーが矢の先端から外れ、そのときの音とわずかな振動でリリースするタイミングを計るものだ。鳴る音は素材によって多少変わるが、ほとんど聞き分けられない。なので、他人のクリッカーの音に反応して思わずリリースしてしまい、ミスをするということはあり得なくはない。
実際、つい先日出場した都内のインドア大会でも柄にもなく緊張したアキラは、大一番でそれをやってしまい、敢え無く8位に沈んだのだった。一方のツバサは準優勝。ルックスも実力も目立つ双子たちだけに、この差は屈辱だった。
「……お前ら、そろそろ真面目に練習したらどうだ」
主将の声のトーンが一段低くなったのを合図に、双子たちはぴゅうと口笛を吹いてから大人しくなった。
俺は真面目にやってたのに!ツバサてめぇ覚えてろよ。
表情と視線だけで向かい合う同じ顔にアキラは悪態をついた。
しばらくは静かに矢が飛び交う音だけがレンジに響く。
と、その時、レンジの外が騒がしくなり、入口に駆け足で2回生のメンバーがやってくる。
「「「ちわーす! 遅くなりました、よろしくお願いします!」」」
「おぅ、やっと来たか! 早く弓組んで練習しろよ!」
「「「はいっ!」」」
2回生の入江アオバ、矢上シンイチ、そして的場レンだ。
深々と上級生にお辞儀をすると、すぐに踵を返して準備に取り掛かる。
1年前は全然なっていなかった作法も、さすがにしっかりできるようになっていた。
―—時は3月。
運命の王座出場をかけた戦いが始まるまで、あと2か月。
レンジの向こうではマコトとヒカル、そして2回生たちの賑やかな声が聞こえてきた。
王座予選出場メンバーがこの中から決まるのだ。
皆がしのぎを削るライバルであり、共に団体戦を戦う仲間だ。
ぐんぐんと芽吹く若葉さながらに、互いに切磋琢磨しながら実力をつけ、鳳城大学の洋弓男子は戦いに備えていた。