第3章 そもそもの始まり
「……そんなに興味があるなら、少し弓を触ってみないか」
鳳城大学に入学して2日目、オリエンテーションで早めに授業の終わったナオトたちは、たまたま立ち寄った射場で声を掛けられた。
一斉に放たれる矢。次の瞬間には遠く離れた的の真ん中に吸い込まれていく。
バン、と鋭い音で弓から離れると、矢は軌道すら追えない速さで空を裂いた。
一方でほとんど微動だにしない射手。
張り詰めた糸が切れたようにくるりと半円を描く弓。手元にぶら下がる金属製の弓がキラリと日差しを反射する。
カチャカチャと腰で揺れる矢筒。
今まで知っていた他のどのスポーツより静と動が分断される競技。
ナオトは初めて見るアーチェリーのかっこよさに目を奪われていた。
大月ナオトと壬生リョウガは二人とも理工学部だ。二人の出会いは三年前にさかのぼる。高校一年の入学式で、大喧嘩を繰り広げてからというもの、すっかりマブダチになってしまった。お互いに、目が合った瞬間わけもなくイラっとして、突然殴り合いになったのだ。今思えば、普段冷静で物静かなリョウガがそんなことをするなんてあり得ない。よっぽど虫の居所が悪かったか、ナオトのことが癇に障ったのか。
そんなわけで第一印象はお互い最悪だったが、クラスが同じで仕方なく接するうちに、悪い奴じゃないと思えるようになったのだ。リョウガはもともと嫌みなくらい冷静で面倒見のいい兄貴肌で、弟気質のナオトは一緒にいて居心地が良いことに気付いた。4つ年上の姉のミサキに日々いじめられて育ったナオトは、ずっと”頼れる兄貴”が欲しかった。リョウガは一度打ち解けるとナオトにとって”理想の兄貴”になった。
それから三年間、奇跡的に同じクラスが続いたナオトとリョウガは、部活や補習(これは主にナオトが受けていた)がない限り、ほとんどの時間を一緒に過ごしていた。
ナオトより頭のデキがはるかに良かったリョウガはもっとレベルの高い大学にだって入れただろうが、「一人暮らしをしたくない」という理由で地元の鳳城大学に決めてしまった変な奴だ。ただし、同じ学部でもリョウガは大学内で最も偏差値の高いシステム情報科学科、ナオトは建築学科に落ち着いた。二つの学科の偏差値の差がどれほどのものかはここでは触れたくはない。
ともかく、大学の入学式も二人で一緒に向かい、University(総合大学)の名にふさわしい、ものすごい数の新入生の波に揉まれてめでたく花のスクールライフをスタートしたのだ。
「ナオト、そっちの学科はオリエンテーション終わったか?」
広すぎて迷子になりかけていた巨大な校舎の廊下で、いきなり腕をぐいと掴まれ思わず剣呑な視線を向けた相手はリョウガだった。
「っ、っくりしたぁ、リョウガかよ」
「なにきょろきょろしてんだ、もしかして迷子か?」
「ち、ちげーよ、ちょっといろいろ見学してたんだよ」
「ふーん、まぁいいが。で、今日もサークル見学行くのか」
「……んーまぁな、なんかめんどくせぇけどな。で、誰だよそいつ」
リョウガの後ろから勢いよく顔を出した男子学生を指さした。
ひとなつっこい笑みを満面に浮かべてこっちを見ている。
「あぁ、俺は羽室カズヤ! 大月ナオトくん、だっけ? 同じ理工学部やねん、よろしゅたのむわー」
コテコテの関西弁まる出しで馴れ馴れしく肩をバシバシ叩いてくる。
思わず顔をしかめるとリョウガがまぁ落ち着け、とそいつをなだめた。
「こいつ、俺と同じ学科なんだ。席が近くて話したんだが、なかなか面白い奴だ」
「せやねん、壬生っておもろい苗字やん!って思ってな。俺、読まれへんかったわー。大月クンは壬生クンの親友なんやて?俺も仲良うしてくれたら嬉しいわぁー」
「……あぁ、まぁ、よろしく……羽室、だっけ、大阪出身なんだ?」
「そうやぁ、実家は岸和田ちゅうとこなんやけど。知ってる? 岸和田のだんじりって有名な祭りがあるとこー」
関西人ってのはみんなこんなにおしゃべりなのか。
ペラペラと機嫌よく話し続ける羽室を見て少しうんざりする。話の内容はほとんどスルーだ。やたらと語尾が伸びるのも気になり始めてそわそわする。
リョウガもいちいち律儀に相槌を打っているが、テンポが微妙にかみ合っていない。
「で、お二人さんはサークルどこ入るかもう決めたん? まだやったら俺も一緒に見学行ってもええ?」
「あぁ、まだ俺たちも決めてないんだ。よかったら一緒に見て回ろう」
「可愛い女子が多いとこがええなぁー。せっかくやし、彼女とかほしいやん。大月クンは彼女おるん?」
「さぁな。それより女子が多いとこっていったらテニスサークルとかフットサルとかなんじゃね」
「え? え? さぁなってことはどっちなん? 彼女おるん? おらんのん?」
「どっちでもいーだろ別に。なんで初対面のアンタにそんなこと言わなきゃなんねーんだよ」
ちょっとイラついたナオトは思わず突き放すような言い方をしてしまったが、カズヤは意にも介さない。
「えーだって気になるやん? 俺今フリーやし、これから東京の可愛い女の子いっぱい紹介してほしいもーん」
「じゃあテニスコートのほうに行ってみるか。ついでにグランウンドのほうも行けば他のサークルも見れるだろう」
カズヤのめんどくさい絡みにも冷静に対応するリョウガは、いつもブレない。
なんだか少し面白くなくて、ナオトはほとんど無言のまま二人について歩いていた。
入学式の日から大学の敷地内の至る所でサークルやら部活やらの勧誘にもみくちゃにされ、いい加減うんざりしていた3人は、人込みを足早にかき分けてカズヤの誘導で裏門から外に出た。カズヤは受験の前に一度下見に来ていたらしく、構内の地理に詳しかった。
テニスコートは校舎の敷地を抜けて一旦外に出て、住宅街を抜けて5分ほど歩いたところにあった。道路を一本挟んで隣に大きなグラウンドがあり、ラバーが張られた立派なトラックを走っている集団が見えた。あれはたぶん駅伝部だろう。鳳城大学ここの駅伝部は毎年箱根駅伝に出場している強豪だ。
トラックの隣の少し狭いスペースにサッカーゴールが置かれてあり、サッカー部員たちがちまちまと練習をしていた。さすが私立だけあって、規模の差はあれど設備が充実している、という印象だ。
テニスコートは3面あり、サークルだか部活だかわからないが、異常な人だかりだった。
一番道路に近いコートではシングルスの試合の真っ最中のようだった。日に焼けた男子学生二人の対決を、黄色い声援を上げて囲む女子学生たちの色とりどりのウェアが、ふわふわと花のように揺れていた。
「……うわぁ、あれテニスサークルか? 随分人数多いじゃん」
「ちょっと多すぎるようだな。あれでは満足にみんなが練習できないんじゃないか」
「でもでも、女子もめっちゃいるやん! あっ、あの子可愛いなぁー、その隣のショートカットの子もタイプやわー」
パーン、と小気味よい音をたててコートを往復する黄色いボール。
つい数か月前までのナオトは、日がな一日あのコートの上にいた。右手にいくつもできたタコはまだ健在だ。思わず掌を握りながら、コート上の勝敗の行方を追った。
「ま、あれはサークルだろうな。部活にしては二人のレベルがそんなに高くない。ナオトが相手なら瞬殺だろう」
「え、大月クン、テニスやってたん? じゃあテニス部入ろうと思ってるん?」
「テニスはもういいんだよ、どうせやるなら違うスポーツがいい」
「もったいないな、お前の実力だったらどこのテニス部でもエース級のレギュラーだろう」
「……しつけーなリョウガも。もうテニスはやらねぇんだよ」
「ふっ、そうだったな」
テニスのことを言われるとつい頑なになってしまうのは、まだ傷が癒えていないせいだ。
リョウガの言う通り、ナオトは中学・高校とテニス部に所属していた。ナオトとリョウガのいた高校は、都内でも有数のテニス部の強豪校で、そこでみっちりと扱きあげられていたナオトの腕前は相当のものだった。もちろんインターハイも国体にも毎年出場していたし、全国大会でも必ず全員が予選は突破するくらいで、そんなレギュラーたちには他校のファンも多かった。試合に出れば黄色い声援がたっぷりとついてくる、そんな高校のテニス部でレギュラーを張れる。それはテニスをする高校生にとっては憧れだ。
だが、どこの集団でも優劣はつく。
憧れて入った超高校級と呼ばれる集団の中ではナオトは比較的目立たない存在で、どれだけ頑張っても追いつけない相手がいることを、高校1年の夏には身をもって知ってしまった。プロを目指すことが現実的な目標として日々練習している部員たちを見ていると、自分がどれだけ実力不足かを思い知らされたのだ。
いや、正確にはポテンシャルが足りなかったのだ。
実力はある程度までは努力すればどうにかなる。それ以上を突き抜けようとすれば、持ち前のセンスだとか、天性の才能だとか、あるいはもっと他の何かが必要だ。
テニスは大好きだったし続けたいと思っていたが、プロを目指せるほどには実力がなく、故にモチベーションも足りなかった。部員たちは皆それぞれに仲が良く、厳しい練習の中にも充実した日々だったが、やりきれない疎外感を感じていたのもまた事実だった。
自分はここにいていいのだろうか。この仲間とともに戦うに相応しいのだろうか。
プロという夢に向かって真っ直ぐに、純粋に高みを目指す仲間たちの姿は、ナオトにとって眩しすぎた。
(もう真剣にスポーツするのはごめんだな)
自分の実力よりはるかに及ばない二人の男子学生の、それでも楽しそうにプレイする姿を見つめながら、ナオトは気分が沈むのを感じてそっと目を逸らした。
「なぁなぁ、ちょっとコートの近くまで行ってみーへん? 1回生の女の子たちもおるやろうし、仲良うなっとこーやぁ」
嬉々としてカズヤが騒ぎ、ナオトとリョウガの背中をぐいぐいと押してくる。
「……俺、パス。行くなら二人で行って来いよ。俺はその辺をぶらぶらしてっからさ」
そういい捨ててナオトはさっさと逆の方向へ歩き出す。
「えぇ~、大月クン行かへんのぉ? 自分、テニス得意なんやろ? 女の子たちに教えたったらえぇやんか~」
……無視だ無視。
自分にそう言い聞かせて、後ろ手に手を振ってその場を離れた。
さっき、コートから目を逸らした先に、緑のネットで覆われた細長い空間があるのを見つけたのだ。テニスコートの歓声がうるさくて中の様子はさっぱり伺えなかったが、何人か人がいるのは見えた。
なんとなく興味を惹かれたその場所へ向かって歩いていく。横から見ると何かがすごい速さで空中を飛んでいるのが見えた。
———―なんだありゃ。
「ナオト、どこ行くんだよ。何か見つけたのか?」
「んー、なんかわかんねぇ」
「わかんないって何だよ、ちょっと待てよ」
「なになにぃ~、待ってや! 俺も行く!」
結局3人で連れ立って歩いていく。
その何気ない気まぐれが、ナオトたちの4年間を大きく変えてしまうことになるとは、このとき誰も思いもしなかった。