第17章 相棒
第17章 相棒
マコトの苛立ちはいっこうに収まらなかった。
誰もいなくなった部室でひとり、ちっと舌打ちしてから大きくため息をつく。頭の後ろで手を組み、大きく仰け反ったマコトの体重を受けて、さびたパイプ椅子がぎしりと鳴る。
—————ったく、これだから初心者は嫌いなんだ。躾けのなってないやつも。
ついさっき、捨て台詞を吐いて去っていった倉田の姿が思い出される。なんで当たり前のことを言った俺が、あんなふうに言われなきゃならないんだ。部則を破ったのは自分のくせに、デカイ態度しやがって。そもそもあんなやる気のないやつ、部にいられても空気を悪くするだけかもしれない。だったら早いうちに辞めてもらったほうが都合がいいか……。
いらいらとした感情のまま、思考がひねくれたほうへ走り出す。
それにしても、4人一度に辞めるとは思わなかった。11人から7人。まだ7人いる、ともいえるし、もう7人しかいない、とも言える。今日の一件で芋づる式に脱落するやつがこの先出ないとも限らない。残った6人には、さっきまで買うべき部品についてレクチャーしていたが、それでも道具一式を買い揃えることに金銭的な不安がないやつなどいないだろう。マコトだってその気持ちはよくわかる。たとえば、ゴルフ部に入って全部道具を買いそろえろと言われたら、きっと躊躇するだろう。アーチェリーはゴルフと同じくらいお金がかかるスポーツだ、とも言われる。とはいえ、普段の練習場所についてはアーチェリーのほうがよほど安いが。
————あーあ、一条主将になんて報告すっかなー。その前に、タクロー先輩に報告するほうが気が引けるなぁ……ガチで怒るだろうしなー。
今度は頭を抱えて机に突っ伏した。タクローが怒ると本当に怖いのだ。彼はゴリゴリの体育会系出身で、ヒカルやケイなんかよりよほど礼儀に厳しい。あのアオバも1回生の頃は相当怒られたらしく、しばらく会わないうちにすっかり軍隊のように躾けられていて驚いた。
マコトが悪いわけではないとわかってくれているだろうが、それでも監督不行き届きと言われるだろうか。まだ打ち解け切っていない1回生をまとめる役目を言い渡されて、弟気質のマコトはそれだけで気が重かったのだ。アオバやケイにまとわりついて、甘やかされていた高校時代が懐かしい。自分にはチームをまとめるとか、引っ張っていくとか、そういうことは基本的に向いていないのだ。今日だって、一応タクローに言われたから口火を切ったものの、感情的になりすぎてカズヤやジュンペイに仲裁される始末だ。正直、他人の面倒をみるのは煩わしいし、練習に集中したいのに、こんなくだらないことに巻き込まれて腹立たしいことこの上ない。
はぁ、ともう一度ため息をついて体を起こす。顔を上げた先に、歴代の部員たちがもらったトロフィーや賞状が華々しく目に飛び込んできた。その中に、先日終わったリーグ戦の2位入賞の賞状もあり、マコトは思わずじっと見つめた。
このままトラブルが続いて士気が下がれば、来年の2部リーグ脱落は確実だろう。トラブルがなくたって、今年の1回生の状態を見れば選手層の薄さが足枷になることは決まりきっている。屈辱的な連敗を重ねる悪夢のようなリーグ戦がありありと目に浮かび、マコトはうんざりして顔をしかめた。
「失礼しまーす、っと、なんだマコトかよ」
「! アオバ先輩……」
明るい声が響き、バタリと乱暴に部室のドアが開く。練習着姿のアオバだ。左肩にいつもの黒い重そうなバッグをかけている。メッシュをいれた前髪が少し湿っているのは、自主練で汗をかいたからだろうか。思わず気が緩み、マコトはくしゃりと顔をゆがめた。
「へ? 何お前、泣いてんの?」
「っ、泣いてません~!」
「はぁ?! 泣いてんじゃんかよ! 離せ、気色悪ぃ!」
思わずというべきか、当たり前というべきか、兄貴分であるアオバにすがりついたマコトの頭を、アオバは遠慮なく引っぱたいた。いて、とたいして痛くなさそうに頭を押さえて唇を尖らせる。アオバは肩にかけたバッグを机にどさりと下ろして手近な椅子に腰を下ろした。
「で、なんだよ。なんかあったのか? 早くも単位落としそうだとか?」
「なんすかそれ。そんなんじゃないっすよ」
「じゃ、女にフラれたのか? あ、お前の場合フラれるよりフるほうか」
「……違います」
完全にからかい口調のアオバにムッとして声のトーンが下がる。そんなマコトにおかまいなしに、アオバはけらけらとひとしきり笑ってから、急にその笑いを引っ込めた。
「タクロー先輩に聞いたぜ。新人4人、こないだ練習すっぽかしたらしいな」
「……まぁ、そうらしい、です」
当日はアオバも練習日ではなかったはずだが、このぶんだと話はすでに全員が知っているのだろう。自分のことでもないのに、思わずマコトは視線を逸らしてうつむいた。アオバはふんと鼻を鳴らし、長い脚を組んで椅子にもたれかかる。
「まぁ、毎年何人かはやらかすらしいぜ。俺らの代だってあったからな。というか、最初にやったのはレンだけど」
「え、的場先輩が? 練習サボったりしたことあったんスか」
わからなくもないけど、というのは心の中に留めておいてマコトは身を乗り出した。レンは一見自由気ままに振る舞っているようにみえても、部則をはみ出すようなことまではしていなかったはずだ。ちら、とマコトを見やってアオバが続ける。
「あいつは今でも部則違反ギリギリのことしやがるからな。去年の今頃はそりゃもう手に負えないくらい好き勝手しやがって、俺らも何度連帯責任で怒られたか。それも、主将だった二ノ宮先輩じゃなく那須先輩に、だぜ」
マジで怖ぇのなんの、と当時を思い出してアオバが身震いする。たしかに、あの温厚なマヤが怒るところは想像ができないが、ガタイが良く一見どこかのヤンキーにしか見えないソウイチロウが怒ったら、たいていの後輩は震えあがるだろう。
「や、わかりますけど…でも、那須先輩って普段あんまり俺らに説教してこないじゃないっすか」
「当たり前だろ、4回生になって幹部引退したんだから。そういう役目は一条主将や橘副将に譲ったから出張ってこないだけで、お前ら1回生のことだって本当はどう思ってるかわかんねぇぞ」
やや呆れた口調でアオバが言う。言われてみればそうだ。いつまでも引退した人間があれこれ口を出していたら、後任の顔を潰すことになりかねない。だから4回生がもし1回生に言いたいことがあったとすれば、まず現役幹部の3回生にだけ言うだろう。直接指導だの説教だのをするのは、現役幹部の役目であり、その役目を飛び越えないこともまた、引退した4回生の役目なのだ。それをマヤやソウイチロウ、ユウキはよくわかっている。
「で? そいつら4人はなんて言ってんだ? どうせくだらん言い訳だろうけどさ」
「……って、言ってました」
「あ? なんだって?」
あまりの気まずさに俯いて蚊の鳴くような声になる。アオバが首をかしげて片方の眉を跳ね上げた。
「だから、……4人とも部活辞めるって言ってました」
「はぁ?! マジで? っていうか急すぎるだろ! しかも4人いっぺんに? なんなんだよ!」
「それはこっちが言いたいっスよ」
ガタン、と派手に音を立ててアオバが立ち上がった。安いパイプ椅子はアオバの勢いに負けてそのまま後ろにひっくり返る。瞬時に沸騰したアオバを横目で見やり、マコトはお手上げのポーズをとった。
「……大学生になってまで、厳しい規則の部活でガツガツやるのが馬鹿らしいんだそうっスよ」
「なんだそれ、サークルじゃなくて部活に入った時点でそんぐらいわかんだろ。っていうかそいつら、高校の頃だって部活やってたんじゃねーのか」
「高校の部活っていってもピンキリっすよ。俺らんとこは野球部とかサッカー部並みに厳しかったと思いますけどね。ゆるい文化部とか帰宅部だったやつは、そういうの知らずにきてるってことですよ」
「ふーん…ま、お前の言いたいことはわかるけどな。俺らの代だって、辞めた連中はそんなやつばっかだったしな」
アーチェリーと聞いて、どこかの行楽地のレジャー程度のイメージを持って入部してくる者は少なくない。そもそも競技としてのアーチェリーの認知度が低いのだから、仕方がないといえばそうだが、“体育会洋弓部”と銘打っている以上、その意味をある程度はくみ取ってほしいとも思う。もっとも、そんな小難しいことばかり言っていては入部希望者の数も望めないのだろうが。結果として、毎年推薦枠を除いた新入部員獲得に頭を悩ませているのだから世話はない。
「そういえば、アオバ先輩の代って、新入部員何人いたんですか」
「新入部員? そうだな、去年までに辞めたやつが5人だから、最初は全部で9人だったな」
「え、今って4人っすよね。アオバ先輩、的場先輩、矢上先輩に筒井先輩。ってことは半分以上辞めてるってことっスか」
「そうなるな。俺とレン以外にもう一人アーチェリー経験者がいたんだけどな。そいつも『せっかく大学生になったんだから遊びたい』っていう理由で早々に辞めてったぜ」
思い出したくもない、といった顔でアオバが吐き捨てる。結果的に今の2回生は4人、しかもそのうちシンイチとテルヨシは初心者だ。
「……なんか、理由が薄っぺらいっスね」
マコトが信じられないと言いたげに眉をしかめた。よっぽど高校時代にアーチェリーをやりきった、ということだろうか。自分はたった3年間で満足するほどのレベルには到底及ばず、今でも貪欲にレベルアップを目指しているというのに。
「あー、でもわからなくもねぇけどな。大学生って学生最後の4年間だしな。バイトして、彼女作って、海外旅行して、って遊び倒せるのは今だけだ。それを考えたら誰も強制はできねぇよ」
「はぁ、そんなもんっスか」
「お前はまだわかんねーかもな。どっちかっつーと高校生気分のほうが抜けてねーだろ」
少し不服そうに唇を尖らせたマコトの頭を、ニヤニヤしながら軽く小突く。せっせと就活をする4回生を見ていて、アオバはなんとなくわかったのだ。社会人まであと1年しかない彼らは、アーチェリーがいくら上手くても、それは就職にはまったく関係がない。外見とは裏腹になんでもソツなくこなし、早々に内定をいくつももらったソウイチロウ。文章を書くのが苦手でエントリーシートでことごとく落とされてはぼやいていたユウキ。人当たりの良さはピカイチなのに、マイペースで何を考えているのか、本腰を入れて就活に取り組む気配がないマヤ。昨年まで、押しも押されぬ全国クラスのアーチャーとしての顔しか見せなかった彼らが、社会に出ていくために少しずつアーチェリーから離れていく姿に、永遠にも感じられた学生時代というモラトリアムの終わりを否が応でも突き付けられた。だからこそ、“遊びたい”という理由で部活を辞めることに、根性がないなどとは言えなくなってしまったのだ。
「で、そいつらはいつ辞めるって言ってんだ? もう一条主将には話したのか?」
「いえ、まだっス。俺もさっき聞いたんで」
「あっそー。でも本当に辞めるんだったら、早く言ったほうがいいぜ。つーか、今週末だろ、桐原さん来るの。弓買う前に辞めるなら、桐原さんに人数変更だって連絡しとかねーと」
「そう、ですよね……」
今週の土曜日は、長野でアーチェリーショップを営む桐原が射場に来るのだ。新入部員の弓を選ぶためにわざわざ来てもらうのだから、人数が変わるなら早々に連絡しておかなければいけない。桐原には何と思われるだろうか。こちらも先輩たちとは違った意味で気まずい相手だった。マコトはますますうんざりし、深いため息をついて頭を抱えた。
「……アオバ先輩」
「……なんだよ」
マコトの力ない呼びかけにつられて、アオバもつい声のトーンが低くなる。
「どうしたら、いいっスかね」
「なにが」
「……その、初心者にモチベーションを持たせるのって。これ以上辞める奴が出ないって保証はないっスもん」
「まぁな」
「先輩たちになんて言おう……4人いっぺんとか、情けなさすぎて泣けてきますよ」
「別に、そこはお前が悩むこっちゃねーだろ。お前はただ事実だけを報告すればいいんじゃねーの」
「……それはそうですけど」
辞める辞めないという話は本人たちが直接ケイやヒカルにすればいい。そこでひと悶着あったとしても、それはマコトの責任ではない。それよりも、“初心者にモチベーションを持たせるにはどうすればいいか”というほうが大事だ。今週末に弓を買ってしまえば、もう簡単に辞めるとは言いださないだろうが、二度目の難関の夏合宿が3か月後に控えている。昨年、アオバでさえも音を上げた、体育会系バリバリの厳しい合宿で心を折られて辞める者も、毎年一定数いるのだ。
「まーなんだ、そこまで考えるのは幹部の仕事だからな。新入部員に一番身近なお前が考えるのも大事だけど、辞めるやつが出るっていうのはある程度は幹部の責任だぜ。別に一条主将たちを責めるわけじゃねーけど、新入部員の教育は幹部がメインでするもんだ。部を引っ張っていくってのは簡単じゃねーってことよ」
すぱっと割り切ってしまえるところがアオバのすごいところでもある。なんだかんだと面倒見よく後輩に接しているが、自分の立ち位置を踏み越えることはない。2回生である彼は、あくまで3回生の指示に従って後輩を教育したり、指導したりしているだけだ。もちろん、プライベートな時間は別で、アオバやシンイチは積極的に後輩に絡んで交流を深めようとしているようだ。
じゃ、俺はそろそろ行くぜ、といってアオバが椅子から立ち上がった。自分のロッカーにつかつかと歩み寄り、中から教科書を2、3冊取り出して小脇に抱える。ちらりと見えたその中は意外と綺麗に整頓されていた。
「え、アオバ先輩、何しに来たんスか」
「あ? 次の授業の教科書取りに来たんだよ。そしたらお前が半べそかいてっから、余計な時間食っちゃったんだろ」
「だから、半べそかいてませんってば!」
あははは、と笑いながらひらひらと手を振って、そのまま部室から出ていくアオバを見送って、マコトはもう一度ため息をついた。今度はさっきよりも軽く。そして一瞬の逡巡の後、ジャージのポケットからスマホを取り出すと、さらさらと操作をして1通メールを送る。送る相手はもちろんタクローだ。ごく短く、簡単に顛末を報告すると、勢いよく立ち上がって足元のバッグを手に取った。次の授業が空いているのでレンジで射つつもりだったのだ。 そろそろ本格的に始まる今年の国体選手の選抜試合に備えて練習をしておきたい。本当ならばそちらに注力したかったのに、面倒なことに巻き込まれて時間を取られてしまった。
少し立て付けの悪い部室の扉を注意深く閉めると、鍵をかけてその場を後にする。頭を練習に切り替えたいのに、倉田やアオバに言われたことがぐるぐるとめぐり、マコトを余計苛立たせた。1階の自動販売機で缶コーラを買うと、ぷしゅ、とプルタブを開けてちびちびと飲みながら歩いていく。
クラブハウス棟の薄暗い廊下をずんずん歩いていくと、構内の中心にそびえたつ15階建てのタワー棟の周りに、人だかりができていた。普段なら気にも留めずに通り過ぎるところだが、その中に見知った顔があるのに気付き、思わず歩く速度を落として凝視してしまう。
男ばかり、7、8人だろうか。どうやら2グループにわかれて言い合いをしているようだ。一番中心で激しく言い争っている二人のうち、こちらに背を向けているのが大月ナオトだった。さっきまで部室で弓の部品についてレクチャーしていたのだから、間違えるはずはない。相対しているのは倉田だ。金髪に黒々としたままの眉毛がちぐはぐで、目立つことこのうえない。ここからでは距離があるので、声は聴こえるが何を言っているかはわからない。ただ、その様子から察するにナオトが倉田に言いたいことがあったらしい。ヒートアップするナオトを、カズヤとリョウガの二人がなだめ、その少し後ろでジュンペイがおろおろと心配そうに見守っていた。
マコトは彼らの視界に入らないように注意深く近づき、咲き乱れる花壇と植え込みの陰に隠れながら少しずつ近づいた。別にあいつらが気になるわけじゃない、レンジに行くにはここを通らないといけないから仕方ないんだと言い訳をしながら。
「……だからって、それはねーだろ! ただ経験者だってだけで、マコトだって新入部員なんだ。別にお前の尻拭いさせられる筋合いはないだろうが!」
ナオトの怒声に自分の名前が入っていて、思わず左手に持っていた缶コーラを取り落とした。綺麗に敷き詰められた石畳の上に落ちると、ほとんど中身を飲んでしまった缶は乾いた金属音を立てて転がり、その音に気付いたナオトが振り返った。
一瞬、マコトとナオトはびっくりしたようにお互いを見つめ合い、それから気まずそうにさっと視線を逸らしたのはマコトのほうだった。落ちた缶を拾うとそそくさとその場を離れる。その一部始終を8人全員が見ていたはずだが、誰もマコトを追いかけては来なかった。
————なんだったんだ、今の。
ばくばくと鳴る心臓を自覚しながら、マコトは今日一番のパニックに陥っていた。ナオトが“マコト”と自分に面と向かって呼びかけたことはない。もちろん、逆もそうだ。そこまで親しい仲ではない。というより、こっちが今まで一方的に避けてきた。それに、ナオトが倉田に向かって怒っていた意味。少ししか聞こえなかったが、あれは聞き間違いでなければたぶん、自分を庇っていたんだろう。
————なんで俺があいつに庇われなきゃなんねーんだ。
なんとも言えない感情が渦巻いて、それを振りほどこうと必死になる。だが、思考は意思とは別の方向へ走り出していた。
大月ナオト。超高校級の元テニス部員で、アーチェリーは初心者。やる気だけはあるが、なぜあれだけ打ち込んでいたテニスからアーチェリーにくら替えしたのか、マコトには理解できなくて、ずっと穿った目でしか見られなかった奴。同じ学部の羽室カズヤ、壬生リョウガといつもつるんでいる、自分に自信があるタイプ。マコトが尊敬する先輩たちに対しても、物おじせずに自分の意見をはっきり言うところがなんとなく気に喰わなくて、話しかけられてもそっけない返事しかしなかった。何の僻みも裏表もなくまっすぐに向けてくる強い視線が気まずくて、ろくに目を合わせることもしなかった。
はっと気づくと、もう射場の前まで来ていた。
誰もいない、静かな陽だまりと鳥の声だけが響いていた。緑の防矢ネットがゆるく風に揺れている。レンジの中は伸び始めた雑草が香ばしい匂いをさせていて、名前もわからない小さな花がいくつも咲いていた。
マコトはバッグをどさりと置くと、そのままコンクリートの地面に仰向けに寝転がって目をつぶる。
背中に熱せられた地面の温かさを感じながら、ゆるゆると気持ちがほどけていくのを感じていた。
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きれいな五月晴れとなった土曜日、鳳城大学体育会洋弓部は一人の客人を招いていた。
桐原トオル。
長野でアーチェリーショップを営む、50代半ばのダンディな紳士だ。
ケイやアオバ、マコトの出身校である長野上條東高校アーチェリー部の特別顧問をも務めていて、彼らの育ての親と言っても過言ではない。彼らにとっては大恩人であり、ときにはアーチェリー以外のことも相談できるメンター的な存在だった。
桐原は愛車である四輪駆動のモスグリーンの大きなジープに弓具のサンプルをたくさん積み込み、長野からはるばる運転して来たのだ。
ずらりと整列した1回生の前でケイによって紹介された桐原は、センターにピシッとプレスの入った黒いスラックスに黒いジャケット、ワインレッドのポロシャツはボタンを二つ開けて、さらにティアドロップのサングラスという格好で、どこかの組長かと思わせる雰囲気を漂わせていた。鼻の下に小さく蓄えられたヒゲが迫力を二割増しにしている。
「おはようございます。桐原といいます。今日は一条クンの頼みで君たちの買う弓具を見繕うことになっていると聞いています。よろしく」
低いがよく通る声で簡潔に挨拶をすると、カチコチに緊張した1回生たちは口々によろしくお願いします、と言って頭を下げた。
ケイ、ヒカル以外の3回生と2回生、それにマコトは通常通りの練習メニューをこなし、1回生はケイとヒカルの誘導でてきぱきと桐原に射型を見てもらい、体格や筋力に応じて必要な矢の長さや重さ、弓の重さなどをチェックしていく。事前に桐原に渡しておいためいめいの購入リストを見ながら、これはこっちのほうがいい、あれならもう少し安くできるなどとアドバイスしつつ、ひとりひとりの買うべきものを決めていった。途中、昼休憩をはさんで夕方になる前には、1回生6人全員の弓のめどが立ってしまった。マコトは午前中だけの練習のはずだが、自分がレクチャ―した手前責任を感じているらしく、午後はケイやヒカルたちと一緒に弓具選びに付き合っていた。
午前と午後で入れ代わり立ち代わり2、3回生が練習に来ては、1回生が弓を選ぶのを興味津々で眺めたり、ツバサとタクローは昼休みに桐原をつかまえて射型のチェックをしてもらったりと、いつになく賑やかな土曜日となった。
「さて、では今日の練習はここまでだ。1回生は各自決めた購入リストに沿って、このまま桐原さんに注文する。2週間後には届くそうだから、それまでに入金の準備をしておくこと」
ふたたび整列した1回生に向かって、ケイが凛とした声で指示を出した。朝から今まで雲一つない日差しのもと屋外にいたので、その場の全員がうっすら日焼けしていた。
「これから買う弓は、自分らの相棒になるんやからな。名前付けて、丁寧にメンテナンスして、大事に使うんやで」
ヒカルが付け足すと、1回生たちはどこか首をかしげながらも、はい、と殊勝に返事をする。にこにこと笑みを浮かべるヒカルの隣で、ケイが小さくため息をつき、タクローがにやりとしたのを、ナオトは見逃さなかった。
ナオトとカズヤは初心者用の簡単なセット品になったものを中古で、リョウガは新品で購入することにした。新品とはいえ初心者向けのものは比較的低価格で手に入るのだ。弓のボディの色は、ナオトがブルー、カズヤがレッド、リョウガはグリーンを選んだ。それに合わせて矢羽根の色やアクセサリーの色もできる限り統一して揃えると、実物が届くのが待ち遠しくなる。
「自分の弓具を持つと、上達も早くなる。たくさん使って慣れて、レベルアップすれば、アーチェリーはもっともっと楽しくなる。矢は消耗品だから初めのうちはどんどん壊れてしまうけど、恐れずにチャレンジしてほしい」
最後に桐原がきっちりしめて、その場はお開きとなった。
「桐原さん、今日は本当にありがとうございました」
三々五々部員が引き上げていき、ケイ、ヒカル、アオバ、マコトだけになったレンジで、片付けをしていた桐原にケイが深々と頭を下げた。
「そんな改まらなくていい。なかなかやる気のある新入部員たちじゃないか。将来が楽しみだな」
こっちは売り上げをあげさせてもらってるんだ、と片付けの手は止めないまま、ケイのほうを振り向いて桐原が笑う。サングラスのはしから目尻に人の良さそうなしわが浮かんだ。他にも何かいいたげなケイの様子を察して、体ごとそちらを向く。
「4人辞めたんだってな。まぁ、それはお前さんの責任じゃない。あまり気にするな」
「……ですが、この先も同じようなことが続くと、部の存続自体が危うくなります。なんとかして初心者の入部を増やして、育てなくてはいけません」
「……」
ケイの言っていることは正しい。アーチェリーの競技人口が増えていかないという悩みは、なにも鳳城大学に限った話ではない。社会人からでも始められる、とはいうものの、テニスやバレーボールなどと違って、ある程度以上のレベルになるまでの入口が狭すぎるからだ。区営や市営の射場では、初心者向けの体験レッスンや試射会などが定期的に開催されているところも多いが、いざ本格的に始めようとすると、道具を揃えるのに一苦労で尻込みしてしまう。もちろん、金銭的な問題もあるが、初心者が自分一人ではなかなか選べない、メンテナンスができないというのが大きな要因だろう。そうこうしているうちに面倒くさくなり、続けていく意思がなくなってしまうのだ。学生のうちは、それこそ鳳城大学のように経験者と初心者のレベルに違いがありすぎて、ついていけない、と脱落してしまうパターンが多い。
「倉田たち、一条先輩にちゃんと辞めるって報告したんスか」
アオバと一緒に桐原の手伝いをしていたマコトが口を挟む。一昨日のあの騒動以降、マコトは彼らに会っていない。タクロー経由で報告はしたものの、最終的に彼らがどうしたのかは知らなかった。
「いや、まだ正式には聞いていない。昨日と今日の練習を休むということと、週明けに話があるので部室に来てくれとは言われたな」
「はぁ?! あいつら、主将を部室に呼び出したんスか? どーゆー神経してんだよっ」
またもやマコトに火が付き、目を怒らせて吐き捨てる。
「いや、冷静に考えて部室しかゆっくり話できへんやろ。そこはしゃーないわ」
ヒカルになだめられて、不服そうに黙り込むマコトの肩をアオバが軽く叩いた。
「しかしな、もし金銭的な問題で続けられないと思ったのなら、他人がとやかく言える問題ではないな。それよりも、残ってくれた6人のレベルアップをどうするかのほうが大事だぞ。来年以降のリーグ戦では間違いなく戦力にしなくちゃいかんわけだしな」
黙って聞いていた桐原が、右手であごをさすりながら呟いた。途中からジャケットを脱ぎ、ポロシャツ姿であらわになった両腕はこんがりと焼けて程よく筋肉がつき、まだまだ現役で競技ができるのではないかと思わせる。
「戦力ねぇ……どこまで期待できますかね」
「期待じゃなくて、やるしかねーだろ。あいつらのやる気があるうちにガンガン練習させてレベル上げて、スポ魂に火をつけるまでだっ」
ああいうやつらは試合で勝てねーとムキになるからな、とアオバが悪い顔をしてニヤリと笑う。たしかに、大月、壬生、羽室、新藤は高校時代も部活で鍛え上げられているらしく、これまでの練習で弱音を吐くということがなかった。スポーツで勝負の世界を知っているやつのほうが、そのままの勢いで上達が見込める可能性が高いだろう。
「スポ魂て……アオバ先輩、ボキャブラリーが古いっスよ」
「うるせーな、じゃあなんて言えばいいんだよ」
「なんかもっと他にあるでしょ、モチベーションとか負け犬魂とか」
「……負け犬魂はちょっとちゃうやろ」
ヒカルの突っ込みにもめげずにぎゃあぎゃあとやりあう二人を見て、ケイと桐原が苦笑する。
「ま、お前さんたちくらい元気があれば大丈夫だろう。上に立つやつが暗い顔してたら、下はついてこないぞ。スポーツは楽しむ、これが基本だ。あまり戦力戦力と発破かけすぎても潰してしまうし、ぎゃくにゆるすぎると目標がなくなってただのお遊びになるからな。何事も加減が大事ってことだ」
「…そうですね」
「ケイ、お前の弱点は生真面目すぎるところだ。それを橘くんがうまくフォローしてくれている。彼の明るさは部の雰囲気を作るうえで大切だぞ。他のメンバーもそうだ。お前が足りていないところを皆が補ってくれるから、あまり一人で思い詰めるなよ」
いつの間にか、皆が桐原の言葉を真剣な顔で聞いていた。だいぶ傾きはじめた太陽が紅い光で周囲を照らす。少し肌寒くなってきて、マコトは腰に巻いていたジャージを肩から羽織った。
「よし、じゃあそろそろ行くか。これからいつものところ、予約してあるんだろ。早く行かないとキャンセルされるかもしれないぞ」
「え、いつものとこってどこっスか? 俺、何も聞かされてないんすけど」
「お前は黙ってついてくればいいんだよ、この後別に予定ないんだろ?」
「はぁ、別にないっスけど。って、いてて、アオバ先輩痛いっス!」
アオバがマコトの肩に腕を回してぐいぐいと締め付ける。早く着替えろとヒカルに急かされて、ふたりで慌てて更衣室兼倉庫の中で私服に着替える。マコトはお気に入りの黄色いパーカーにTシャツ、ダメージデニムというありふれた大学生のスタイルで、アオバは洒落たデザインのピンク色のサマーニットにこげ茶のスキニーだ。マコトがうらやむ長い脚がいっそう長く見える。ケイとヒカルはほとんど汗をかいていないので、練習着のまま行くらしい。
「マコト、これから行く店の焼き鳥は絶品やで。お前が生まれてから一度も食べたことのないような、めっちゃ旨い焼き鳥やから、楽しみにしときや」
「え、焼き鳥なんスか? 俺、焼き鳥超好きっス! やった!」
「ただし、お前はノンアルコールやで。お前だけ未成年やさかいな」
「わかってますって。来週県大会控えてるんで、そういうのまずいっしょ」
「試合を控えていなくてもダメなものはダメだ」
「はぁーい」
わいわいと学生らしく騒ぎながらレンジを後にする。桐原は今夜都内で一泊して明日長野へ帰るそうだ。きっと、二軒目はアオバがバイトをしている“バー・ルパン”で飲むのだろう。
「ま、今日は無事に新入部員を迎えたということでの乾杯だな。しっかり育ててくれよ。俺も協力するからな」
「ありがとうございます。また今年も夏合宿、よろしくお願いします」
どんどん先へ歩いていく3人の後ろから、桐原とケイがゆるゆると語りながらついていく。長く伸びた影法師が5つ、レンジから遠く離れて去っていった。




