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洋弓男子~INNER10!~  作者: 星いさご
16/18

第16章 ドロップアウト

ゴールデン・ウィーク明けの登校日は、なんだかそわそわと落ち着かない。 


 もうすっかり初夏の匂いを漂わせる空気を胸いっぱいに吸い込む。完全に花が散ってぐんぐんと勢いよく青葉を伸ばす桜並木の新緑が目に眩しい。

 うっかりと高校時代のリズムに戻ってしまった体を叱咤して、ナオトはようやく慣れ始めた通学ルートを改めてトレースする。いや、厳しい部活で朝から晩までしごかれていた高校時代のほうが、まだしも規則正しい生活だったろう。


 連休明けすぐの授業はよりにもよって1限目からだった。90分の講義時間は想像以上に長く、後半はもう集中力がもたずに尻をもじもじさせてしまうのが常だ。いつも隣に座っているリョウガなどは涼しい顔をしてノートにペンを走らせているが、その向こう隣のカズヤなどはナオト以上に退屈さを隠しもせず、足をぶらぶらさせたままスマホをいじったり落書きをしたりしていた。一応、教科書の下に隠しているのがせめてもの救いだろう。別段前のほうの席に座っているわけではないので、ぼそぼそと大きなホワイトボードに向かってしゃべる老教授からは全く見えていないだろうが。


 およそ一ヶ月にわたって行われていたリーグ戦が終わり、我が鳳城大学は今年も順当に王座決定戦への出場が決まっていた。ここから先はもう、完全に初心者の1回生の出番はなしだ。少人数の手伝い要員以外は試合についていくこともできず、先輩たちの雄姿を拝むよりも自分たちのスキルを本格的に上げていくべく特訓が始まる。来年は自分たちがリーグ戦の主力メンバーとなるのだ。先輩たちの戦いぶりを間近で見て、その実力の高さに慄いていただけの今年とは違い、いかにその実力に近付けるかというところが最大の課題になる。


 王座に出場できるメンバーはリーグ戦の8人ではなく4人だ。基本的には4回生を除いてリーグ戦の戦績を個別に見て、さらに今の調子を鑑みて主将のケイと副将のヒカルが決めているようだった。誰が出るかは聞いていない。ただ、メンバー選出がかなり難航したらしいことは、ここ2、3日のアオバの精神状態を見ていてなんとなくうかがえた。


 選手層が厚いことは大変結構だが、こういうときはリーダー泣かせだな、と人ごとのようにナオトは思った。


 「…だってよナオト。お前、明日バイトだろ、今日中に終わらせないと間に合わないぞ」

 「…え? 何が?」


 物思いに耽っていて意識が完全にあちらへ飛んでいた。

 隣からリョウガに肘でこづかれて、思わず間抜けた声が出る。気が付くと終了のベルが鳴り響いていて、講義は終わっていたらしい。


 「ったく、教授の話聞いてなかったのかよ。課題の提出、明後日までだってさ」

 「課題? 何の?」

 「なになにぃ~、まさかナオくん、話聞いてへんかったん?」


 急にざわざわと騒がしくなった広い講義室では、カズヤがちょっと大きな声を出したくらいでは誰も気にも留めない。あからさまにからかわれる流れに、思わずムッとした表情になる。


 「うるせぇな、ちょっと考え事してたんだよ。お前こそカズヤ、ずっとスマホいじってたじゃねぇか、見てたぞ」

 「スマホいじってたけど、遊んでたんちゃうで。ちゃーんと課題の資料集めの目途立てて、調べものしてただけやしぃ~」

 「カズヤ、お前はなんでもすぐスマホで調べて済ませようとするの、良くないと思うけどな。図書館行けよ」


 優等生のリョウガはさすがに手厳しい。えぇ~文明の利器は使ってナンボやんか!というカズヤの抵抗も正論で封じ込めて話題を変える。


 「そういや、今日だっけな、昼休みに主将から集合掛かってたのって」

 「あぁ、そうだな。2限目終わったらダッシュで部室行かねぇと。次の時間の講義室、クラブハウス棟から一番遠いんだよなぁ」

 「遅れたら連帯責任、やったっけ。一条主将って怒るんかな?」


 怖ぁ、とカズヤが大げさに身を震わせる。たぶんだが、主将の怒り方は恫喝系ではなく視線で射殺す系だと思う。そっちのほうが怒鳴られるより何倍も怖いのは確かだろう。副将のヒカルはもっと冷静に、冷ややかに…といったところか。いずれにせよ、普段怒らない人間を怒らせるのだけは避けなければ。たとえそれが、部活の上下関係でなくとも。 


 「んー、怒るっていうより冷静に『全員で腹筋300回』とか言い渡されそうだな」

 「「同感」」


 リョウガの最もな意見に二人そろって頷いた。ただでさえ連日の厳しい筋トレであちこちガタがきているのだ、これ以上のトレーニングは体にも毒だろう。


 「じゃ、昼休みに。絶対遅れんなよ」


 トントンとノートと教科書をまとめナオトが引き止める間もなく、カズヤと一緒に次の講義のためにそそくさと講義室を出ていった。1回生のうちはほとんど全員が同じカリキュラムで必修科目ばかりなのだが、ナオトとは二人とも学科が違うため選択科目はおのずと変わる。


 「…で、今の課題って何だったんだよ……」


 一番大事なところを聞きそびれて頭を抱える。仕方ない。昼休みに会ったときに聞くしかなさそうだ。周りの他の学生にでも聞くかとも思ったが、あいにくそこまで親しい間柄の友人がいるほど器用な性格でもない。今ばかりは自分の人見知りを自分で呪った。

 眉間にしわを寄せたまま無言で荷物を片付けると、愛用の黒いリュックサックを肩にかけ、退室する学生たちの波に乗ってそのまま講義室をあとにした。



**************



 「はい、というわけで、今日集まってもらったんは、君たち1回生にそろそろ自分の弓を買ってもらう時期になりました」


 11人の1回生とケイとヒカル。ぎゅうぎゅう詰めの部室の机には、アーチェリー用品のパンフレットがずらりと並べられていた。

 口火を切ったのはヒカル。うきうきと楽しそうにパンフレットをこちらへ広げてくる。1回生たちも興味津々でさっそくパンフレットをのぞき込んだ。うわぁ、かっこええなぁとはしゃいだ声をあげたのはもちろんカズヤだ。


 「とはいっても、いきなりパンフレットから選べと言われても困るだろう。だから今日はまず、俺たちからざっと説明する。そして今週末に、長野から技術指導兼ショップオーナーの桐原さんという方に来てもらう。練習を一人ひとり見てもらって、今の状態でベストな弓をアドバイスしてもらうことになっている」

 「あ、桐原さんってのは、ケイやアオバが高校時代によぉ世話になった人やねん。長野県のアーチェリー協会の理事長もやってはるねんて。毎年弓を買うときには鳳城大学うちに来てもらってるから、俺らはみんな世話になってるんやけどな」


 桐原、という人の名前は、アオバがときどき口にしていた。どうやらマコトも世話になっていたようだった。道具を買うのにわざわざショップのオーナーが出張してくるとは、随分と手厚いサービスだ。


 なんとなく手渡されたパンフレットをぱらぱらとめくると、初心者向けから上級者向けまで、パーツごとにずらりとメカニカルな商品が並んでいた。アーチェリーはパーツごとに組み立ててひとつの弓の形になる。それぞれのパーツだけ見せられても素人目には違いが全く分からない。そもそも、どのパーツが何のために必要なのかすら見当もつかない。ただ、そこに書かれているメーカー希望小売価格をチラリと見て、一瞬目が点になった。


 「え、これで5万? ずいぶんとまた、……」


 ナオトの頭の上のほうから、低い声がぽつりと聞こえた。元バレー部の新藤カネヒサだ。たいして大きな声ではなかったが、同じような感想を抱いた1回生たちが思わず沈黙した間合いで、それははっきりと部室に広がった。


 「まぁまぁ、待て待て。落ち着け。素人のお前らにいきなり高い弓買わそう思てるわけちゃうで。そのパンフはあくまで参考や。お前らは初心者やからな、ネットで中古を買うっていう手もあんねん」


 ざっと引いた1回生の空気を感じ、ヒカルが慌てて説明に入る。カバンの中から薄いタブレットを取り出し、ちゃかちゃかと操作し始めた。ほら、といって見せられた画面にはパンフレットと同じような商品が並んでいたが、すべてが「中古品」の文字がついている。価格もパンフレットのものよりもかなり安く、中には初心者向けのセットで弓から矢、ソフトケースまですべてが揃った破格のものも出品されていた。


 「どうや、これくらいやったら手ぇ届くやろ。というか、ぶっちゃけ初心者のうちは中古で全然ええと思うで。レベルが上がってきたらどうせ新品の性能の良いやつが欲しくなるもんやし、そんときまでにバイトでもして金貯めとったらええからな」


 ヒカルが得意げに胸を張る。失礼します、といってカズヤが恐る恐るタブレットの画面をスクロールしてサイトを眺めていた。中古品だけあって、色や形が選べるわけではなさそうだが、たしかに最初はこれで十分だろう。


 「先輩方も、最初は中古だったんですか?」


 それまでおとなしくパンフレットを眺めていたリョウガが問いかけた。リョウガは見た目や道具にこだわるタイプだ。自分のベースもバイトした金で”ちょっとイイモノ”を買ったり、ファッションにもいつも気を遣っている彼からしたら、”誰かのお古”には抵抗があるのだろう。


 「うーん、俺らは高校からやってたからな。最初は学校にある木製の練習用の弓をみんなで使いまわしてたんや。それからすっ飛ばしていきなり試合のために全部そろえたから、言うたら新品スタートやな」

 「部活として本格的にやることが前提だったから、中古を買うという選択肢がなかったとも言うが」


 ヒカルの後からケイも補足するように付け足した。やはり高校から始めるのと大学からとは心構えが違うのだろうか。当たり前のようにそう言われて、思わぬところで自分たちとの溝を実感させられてしまう。部活としてやる以上、レベルアップを目指すのは当たり前で、道具を使ったスポーツである以上、ある程度の性能のものを使うことで技術の底上げができるのも当たり前だ。もちろん、その道具の性能に見合うだけの実力があってこそなのだろうが、鳳城大学の洋弓部のレベルを見ればいつまでも中古でいい、というわけにはいかないだろう。普段から練習の合間にせっせと弓を手入れしている先輩たちの姿をよく見かける。どれだけ自分のコンディションが良くても、道具との相性が悪ければそれ以上上手くはならないのだ。


 「……じゃあ、いずれ新品を買うんだったら、今買ったほうがのちのち良いってことですか?」


 1回生みんなが抱いただろう疑問を、ナオトが代弁した。ナオトもテニスをやっていた頃は、ラケットにはこだわりがあったのだ。それこそグリップテープから振動止め、シューズ、ガットに至るまで、強くなりたいと思えば思うほど道具へのこだわりは加速していった。


 ヒカルとケイが顔を見合わせる。こちらを振り向いてニヤリとしたヒカルが言った。


 「はっきり言えば、そうやな。ただ、今買った弓が半年後のお前に合うかどうかまでは、誰も補償はできへんけど。そのあたりはお前の努力次第やからな」

 「ここは俺たちが無理強いするようなことじゃない。お前たちが自分の懐事情と、どこまでアーチェリーをやり込むかという覚悟を考えて決めればいい。どっちにしろ、今週末に桐原さんが来られたときに、それぞれじっくり見てもらいながら相談すればいいことだからな」


 覚悟、という言葉をケイから突き付けられて、1回生たちはたじろいだ。懐事情はともかく、覚悟まではなんとも言えない。ケイの曇りのない真っ直ぐな眼差しを向けられて、思わず視線が泳いだのは一人や二人ではなかったはずだ。そんな様子を知ってか知らずか、よっしゃ、とヒカルが明るい口調で言って立ち上がり、おもむろに紙を配り始めた。それぞれのパーツらしきものの名前が表になっていて、その横の空欄にメーカー名や商品名を書くようになっている。どうやらこのリストに載っている道具をすべて購入しなければならないらしい。ハンドルやリム、矢筒クィーバー、レスト、サイト(照準器)、アルミ矢、アームガード、チェストガード、タブ……A4用紙一面にずらりと並んだ文字を眺めて気が遠くなる。


 「ま、ええわ、とりあえず最低限必要なものはこの紙に書いておいたから、自分らでパンフレット回し見ながら見当つけといてな。一応俺らのおすすめは印つけてあるから参考にしたらええわ。中古なら中古でもええから、目星つけて予算立てといたほうがええんちゃうかな。それからマコト―――」


 はい、と奥から固い声が聞こえた。それまで存在を消していたのだろうか、初めてみんなの視線が小柄なマコトに集中した。パンフレットのひとつに顔をうずめてブツブツ独り言をつぶやいていたのは彼だったようだ。


 「お前もこいつらにアドバイスしたってや。1回生ではお前しか経験者おらんのやし、面倒みたってな」

 「……はい」


 いかにも渋々、といった態で頷く。ナオトからすればマコトはまだまだ遠い存在で、全然打ち解けようとしない難しい奴、という印象が拭えないでいた。なんだろう、一緒にやる仲間だという意識がないのか。それとも、実力に差がありすぎて自分と同列には見なせない、ということなんだろうか。よほどプライドがあるのかもしれないが、たかがスポーツの、それもたったひとつの競技の実力だけで人を測るのは少々やりすぎではないのか。

 またパンフレットを盾にして自分の世界に入ってしまったマコトをチラリと見る。つまんねぇやつ、と心の中で吐き捨てると、肩をすくめて苦笑しているヒカルが目に入った。


 「ほんじゃまー、今日はこれで解散! 今週中にそのパンフ、しっかり見てその紙のリスト埋めるんやで。なんかわからんことあったら、練習後でも俺らに聞いてくれたらいいから。自分の相棒になる弓やからな、納得いくものを選ぶように」

 「小物類は俺たちのおすすめのものにしておけば間違いない。初心者向けならばあまり選ぶほど種類もないしな。弓本体は色やフォルムなんかも色々あるから、自分の好みのものを選ぶと愛着もわくだろう。アルミ矢の長さと重さは、今週末桐原さんに見てもらって決めるから、羽根の色だけ選んでおけばいい」


 いくつかを簡単にケイが補足すると、その場はお開きとなった。マコトを除く10人で1冊ずつはパンフレットがないため何人かで共有する。カズヤとリョウガ、ナオトは3人で1冊を借りて部室を後にする。


 「……じゃあ明日の昼休みにこれ見ながら選ぼうぜ。とりあえず終わらせねーとな」

 「わかった、2限目が終わったらいつものカフェテリアでな」

 「オッケー! 昼飯食いながら決めよかぁ」


 とりあえずお前が持ってろとリョウガに言われ、ナオトは分厚いパンフレットをリュックサックに丁寧にしまい込んだ。明日忘れないようにしないと。


 「それにしても、ずいぶん高こつくんやなぁ、アーチェリーって。俺、ちょっと考え直そうかと思ったもん」


 カズヤの正直な発言に、リョウガとナオトも思わず頷いた。あの場で言わなかっただけ彼は賢いかもしれない。


 「で、考え直そうと思った、って過去形なのかよ」

 「ん? 過去形って?」

 「だからぁ、考え直すって、部活を続けることをって意味だろ。今はどう思ってるんだよ」

 「あぁ、まぁ今は辞めようとは思ってへんけど。あのリスト埋めて合計金額出したらどう思うかはわからんけどなぁ」


 そうぼやくカズヤはあくまで自分の気持ちに正直だ。ナオトだって合計金額の大きさ次第で躊躇しないとは言い切れないが、はっきり口に出すのははばかられた。


 高校時代もみっちり部活に打ち込んでバイトもしていなかったナオトは、親の小遣いを切り詰めるだけでは足りず何度となくラケット代を親に前借りしていた。もちろん貯金はゼロだ。大学生になってから始めたばかりのバイトでは、どこまで弓代を賄えるか怪しいし、かといって今さら親に借りるという選択肢はなかった。


 「リョウガはどうなんだよ。新品買うのか」

 「俺は買うなら新品がいいさ。中古なんて、もしかしたらすんごい傷とかついてるかも知れないだろ。せっかく買っても買い直すはめになるくらいなら、最初から新品を買ったほうが合理的だし納得できる」


 思った通りの答えが返ってきた。リョウガに至っては、高校時代にバンドでコツコツ稼いだ資金が潤沢にある。その心配は全くしていないようだ。それを聞いてカズヤがため息交じりに頭の後ろで手を組んで空を仰ぐ。


 「他のみんなはどうするんかなぁ。新品買うやろか」

 「今日の感じだとなんとも言えないだろうな。まぁ、今週末までには決めてくるんじゃないか」


 淡々と返すリョウガはもはや他人には興味がないようだ。腕時計を確認すると、次の講義があるからと言い捨ててさっさと歩き出してしまった。リョウガは1回生のうちにできるだけ授業を詰め込んで単位を取ってしまうつもりだそうだ。4回生では教職を取りたいらしく、早くも計画的に講義を取っていた。相変わらず優等生らしい手本のような大学生だな、と感心する。


 「で、ナオくんはこの後どうするん? 講義ある?」

 「俺はねぇよ。この次だ。お前はどうすんだよ」

 「俺もないねん。ちょっとカフェ行ってパンフ見ぃへん?」

 「別にいいけど」


 カズヤと二人きりになるのは初めてで、思わずそっけない態度を取ってしまったが本人は全く気にしていないようだ。よっしゃ!じゃあ行こか!と言って元気よくカフェテリアに向かって歩き出す。


 「それから、ナオくんは午前中の講義の課題、何やったか知りたいんやろ? 教えたるからそっちも片付けよか」

 「……あ、あぁ、悪ぃな」


 くるりと振り向いて満面の笑みで放たれた一言に絶句する。ちっと舌打ちをしつつ、図星に決まり悪くなってぽりぽりと頭を掻いて小さな声で答えた。少しばかりふてくされたような声色になったのは許してほしい。


 「えぇねん、友達やんかぁ。こんなとこで足引っ張ったりするようないけずとちゃうで、助け合おうや!」


 ばしばしと背中を叩かれてたたらを踏んだナオトに構いもせず、ずんずんと先に歩いていった。


 「……なんだかな、もうちょっとリアクション普通にできねぇのかよ」


 関西人だからしゃあねぇか。


 そんなことを思いながら、無意識に笑みを浮かべてナオトはカズヤの後を追った。


****************



「ってなわけで、俺らはちょっとついていけねーわ」


 昼下がりの部室。

 その場にいる人数分には全然足りない折り畳み椅子のひとつに、マコトが行儀悪く片足であぐらをかいて座っていた。


 今のセリフはマコトのものではない。全部で11人いる、鳳城大学洋弓部1回生のうちの一人が発したものだ。

 マコト以外が彼を囲むように立ったまま、ある者は憮然とした表情で、またある者はハラハラした表情で、そしてまたある者は重い空気に耐えるかのようにじっと唇を噛んでいた。

 真ん中にいるマコトはこれから射ちに行くつもりなのか、練習着のラフな格好だ。腰に上着を巻き付け、履き古したスニーカー、足首まで捲ったジャージから日焼けの境目が覗いている。足元には彼がいつも持ち歩いている有名なスポーツブランドのバッグが置いてあった。


 昨日の練習時に、ちょっとしたトラブルがあったのだ。


 練習日にあたっているはずの1回生4人が、全員連絡なしに休んだらしい。その日、監督役だったタクローが不審に思ってそのうちの一人に電話をしたが、つながらないままだったそうだ。

 入部して1ヶ月が過ぎ、無断で練習を休めばどういう罰則があるかはよくわかっているはずだ。すぐにマコトに連絡が行き、どういうことか調べろとタクローからきつく言われたらしい。折しも今日は、マコトが弓の選び方について1回生全員にレクチャーするとのことで集まる予定だったため、昨日のトラブルについては早々に共有された。


 マコトは普段の可愛らしい顔立ちからは想像もできないような剣呑な目つきで、さっきの発言をした部員を睨んでいた。椅子に座っての姿勢のため、自然と上目遣いになってしまっているのはご愛敬だが、そんなことを突っ込める雰囲気ではない。ナオトはごくりと生唾を飲み込んで他の9人と同じようになりゆきを見守った。マコトの視線の先にいる部員は、たしか倉田という名前だったか。学部も練習日も違うため、まだあまり話したことがない。新藤カネヒサと同じくらい背が高くてひょろりとした体型だが、大学デビューなのか頭を金髪に染めている。すかしたような発言が鼻に突く奴だなとは思っていたが、案の定か。穏やかでないマコトの雰囲気を鼻で笑うと肩をすくめた。


 「はっ、そんな顔されたって無理なものは無理だって。だいたい、大学生にもなってなんで部活でカリカリ絞られなきゃなんねーんだよ。いまどき体育会系なんて流行んないぜ」

 「だからって、無断欠席はないだろ。部則だって知ってるはずだ。一言連絡くらい入れろよ」

 「あーあー、そういうのが無理なんだって。わかんないかなー」

 「わかってねーのはお前だろ!」


 ドン、と拳を机に叩きつけたマコトを、まぁまぁ、といってカズヤがなだめる。激高しかかったマコトをみて、おぉこわ、と大袈裟に身を縮こまらせた倉田は、両隣にいた部員に目配せした。おそらく昨日倉田と一緒に無断欠席した部員たちだろう。金魚のフンのようにいつもくっついている奴ら、という以外もはや名前も思い出せない。


 「えー、倉田クン、やっけ、それで君はどうしたいん?昨日はたまたま練習行く気がなくなっただけなんかな?」


 険悪なムードを吹き飛ばすように、軽い調子でカズヤが訊ねた。突然割って入ったカズヤに視線を移すと、鷹揚に腕を組みながら倉田が答える。


 「ま、ここらが潮時かなってな。今日だってこれから弓買うんだろ。たかが大学生活の暇つぶしに何万も出せねぇからな。バイト代が全部吹っ飛んじまうぜ」


 その言葉に思わず皆が絶句する。真剣にアーチェリーをやるつもりのナオトでも、一番悩んでいるところだ。大学一年生の懐具合などしれている。ことに地方から出てきて一人暮らしをしている連中ならなおさらだろう。


 「潮時って…ま、まぁ、気持ちはわからんでもないけど…中古にすればそないに高くはならんて先輩たちもいうてたやん。なんとかなるってぇー」

 「そういう問題じゃねぇ。なんとかしてまで買って、続けるほど価値のあるもんには俺には思えないって話だ。別に、アーチェリーで全国大会出場を目指してるわけでもねぇしな。先輩たちはすげぇと思うが、俺はそこまでついていけねーんだよ」

「……じゃあお前、辞めんのかよ」


 それまで黙って二人のやりとりを聞いていたマコトが、ゆらりと椅子から立ち上がる。その拳が固く握られているのを見て、またカズヤが肩を軽く押さえた。


 ———辞める。まだ入部して1ヶ月あまりしか経っていないのに。


 ナオトだって正直なところ先輩たちのレベルについていけるとは思っていない。ついていきたいとは思うが、どこまで可能なのかは全く未知数だ。この中で本気で先輩たちについていけるのは、マコトだけだろう。そして、本気で部に貢献したいと思っているのも。


 今年入部した1回生は、半数以上が高校生までに体育会系の部活を経験していない奴だった。倉田もその一人だ。彼らからすれば厳しい上下関係や、「伝統だから」という理由で意味の分からない部則を守らねばならないことなど理解できないのだろう。アーチェリーというスポーツがマイナーなこともあり、過去の先輩たちの輝かしい戦歴の重みを知らずにサークル気分で入ってきた奴もいるらしい。そんな奴からすれば、さっきの藤倉の発言は大いに賛同できるものだったに違いない。華の大学生活を楽しみたいなら、もっとほかに自由のきく楽しいことがあるはずだ。


 「そうだな、弓買う前じゃないと辞める意味ないからな。藤宮、お前一条先輩に言っといてくれよ。俺とこいつら三人も辞めるって」

 「は?! そんなこと、自分で言えよ。辞めるときくらいきちんとしていくのが礼儀だろうが」

 「はー、もうそういうのがめんどくせぇんだってば。適当にやっといてくれよ」

 「ふざけんな! ガキじゃあるまいし、自分の始末くらい自分でつけろ!」


 くしゃりと金髪をかきむしって、倉田は心底めんどくさそうに顔をゆがめた。あまりの言い草にマコトの怒りに火が付いた。ただでさえカズヤに止められてイライラしていたところに、バッチリと油を注いだらしい。その場の緊張が一気に高まる。


 「あのぅ」


 遠慮がちなか細い声がその場に投げ込まれた。さっきまでとは明らかに違う空気に、マコトが一瞬ひるんで黙り込む。丸メガネをかけた、色白の小柄な部員だ。明らかにスポーツに縁がなかったらしく、練習のときもランニングで周回遅れだったり、筋トレではその細腕で顔を真っ赤にして腕立て伏せをしていたのをナオトは覚えていた。性格も積極的ではなく、今ももじもじとしていて目立たない存在だったが、リーグ戦での雑用のこなしぶりや練習に取り組む彼の一生懸命さは本物だと感じていたのだ。


 「なんだよ。お前も辞めたいのかよ。名前なんだっけ、佐藤だっけ?」

 「い、いえ、諏訪ジュンペイです。あの、辞めたいわけじゃなくって、その、」


 マコトの不機嫌にびくついてはいるものの、勢いに負けまいと必死で言い募る。


 「と、とりあえず、今は当初の予定通り弓の選び方を藤宮くんにレクチャーしてもらいませんか? 明後日にはレンジに業者の方も来るそうですし、そのときになって僕たちが何もわかっていないのは失礼なんじゃないかと…」

 「じゃなんだよ、こいつらの話はこれで終わりでいいってことかよ」

 「い、いえ、そうじゃなくって、倉田くんたちの話は今はこれでおしまいにしましょう。いずれにせよ、一条主将たちのいる前でもう一度しなければならないでしょう? 僕たちだけで彼らをジャッジすることはできませんよ」


 もっともな意見だった。ジュンペイの発言でマコトもクールダウンしたらしい。もう一度椅子に座り直し、サラサラの髪を右手でさっと直すと両ひざに両肘をついてあごを乗せた。何かを考えるように閉じた両目のまつげの影が頬に落ちる。その仕草が顔立ちと相まってちょっと女っぽくて、不覚にもドキっとしたのは気のせいだろうか。


 「……まぁそうだな。もう時間も時間だし、仕方ないか。おい倉田」

 「なんだよ、まだ何かあんのか」


 深いため息をついて諦めたようにこぼすと、開いた目を再び倉田のほうへ向ける。さっきよりはまなざしが少し柔らかくなっていた。


 「お前らが辞めたいっていうなら誰も止められない。部活自体が厳しいのなんのってことより、金の話を持ち出されちゃ、いくら先輩でも無理強いはできないからな。だけど、逃げるな」

 「はぁ? 逃げるって何のことだよ?」

 「最後に先輩たちにちゃんと辞めますって自分で言え。お前、大学生にもなってけじめのひとつもつけらんないようじゃ、この先一生そのままだぜ」

 「っ!」


 もうマコトは怒ってはいなかった。諭すように、静かな声で放たれた最後の一言は、その場の全員の胸に深く突き刺さる。倉田と残りの3人は、苦い顔をしたり俯いたり、居心地悪そうに身じろぎした。


 「ったく、最後の最後までめんどくせぇっての。いちいち偉そうに指図すんな」


 話はこれで終わりとばかりに、じゃあな、と言って4人は部室から出ていった。

 すし詰めだった部屋から人が減ったというのに、空気は一層重くなったようだった。リョウガがさりげなく窓を開ける。マコトはダメだありゃ、と呟いて首を振った。


 「さーてと、もう時間もないし、ちゃっちゃと進めよか! マコトくん、俺聞きたいことあんねん!」


 こういうときに口火を切るのはカズヤの役割になりつつあった。彼の能天気な明るさが今は救いだ。ただ、1ヶ月余の付き合いで、カズヤの能天気がすべて素ではないこともナオトとリョウガにはわかってきた。今のは完全に気遣いだろう。

 カズヤほどには切り替えがうまくできないまま仏頂面のマコトに構わず、カズヤがマコトの隣に折り畳み椅子を持ってきて座る。ナオくんパンフ貸して、と言うと、自分のチェックリストを広げてマコトにてきぱきと見せはじめた。他の部員たちも椅子を探してはマコトのまわりに移動し、真剣に話を聞いている。


 ———ついに脱落者が出たか。


 11人から7人へ。先輩たちの士気が下がるのは間違いない。ここからさらに人数が減るのはどうあっても避けたい。自分のような運動オンチでも、一生懸命頑張ればなんとかなるのではないか。ジュンペイはひとり、そう考えた。楽しそうにあれこれとマコトに質問しているカズヤに、真剣に聞き入るナオトやリョウガ。カネヒサは背の高さを活かしてカズヤの上から覗きこんでいる。


 くすり、と笑みをもらしたのはジュンペイだった。。7人になっても自分たちはきっとうまくやっていける。いや、7人になってしまったからこそ、少し距離が近づけたのではないだろうか。

 小さい頃から体が弱く、運動らしい運動をしてこなかったジュンペイは、初めての部活にワクワクしていた。野球やサッカーなど、走り回る競技は無理でもアーチェリーならできるかもしれない、そう思って入部したのだ。実際は鳳城大学の洋弓部は大変な強豪校で、それを知った時には怯んだが、初心者歓迎の文字に魅かれて入部を決めた。ジュンペイにとっては厳しい上下関係も部則も、共に過ごす仲間たちも何もかもが新鮮で、部活に行くのが楽しくて仕方がなかった。ほとんど筋肉のついていない体に筋トレやランニングはきついが、できなかったことが少しずつできるようになることは、何にも代えがたく嬉しいことだった。先輩たちも練習には厳しいが、それ以外のときは気さくで朗らかなタイプが多く、先輩だからといって理不尽なことを言う人はひとりもいない。ことに、幹部の3回生たちは指導者としても人としても尊敬できる人たちばかりで、たった1年か2年しか歳が変わらないのに、とひどく驚いたのだった。


 せっかくできたこの居場所を、楽しいところにしたい。

 みんなで一緒にアーチェリーを頑張りたい。


 「おーい、ジュンペイだっけ、そんなところに突っ立ってないでここ座れよ」


 ナオトが空いている椅子をぽんぽんと叩いて促した。ありがとう、といって少しはにかんだジュンペイは、嬉しそうにナオトの隣に座った。


(続く)

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