第14章 王者の風格とマインドコントロール
「さぁ、一本決めてくぞ!」
「「「っしゃあっっっ!!!」」」
鳳城大学の主将、一条ケイは、その涼やかな顔立ちに似合う凛とした声でコールを叫んだ。
それに呼応する部員たちは、まるでリーダーの遠吠えに応える狼の群れだ。
シューティングラインにずらりと並んでギラギラと闘志をむき出しにし、各々の自慢の爪(弓)を手に腹から絞り出すような声で気合いを入れ直す。
リーグ戦最終戦、東都体育大学との対戦。
初夏の生暖かい風が吹き荒れる中、各校8名の選手たちと応援組の選手たちが、緊張した面持ちで50メートル先に張られた的を見つめている。
次のエンドは、50メートルラウンドの最終エンド。6射×6回のうち最後の回、鳳城大学の先攻だった。
それまでの30射の合計点数は、1エンド終わるごとに行われる矢取りと点取りで、お互い同じ的を使っている選手の記録をチェックし合うので、否が応でも筒抜けだ。それがまたプレッシャーとなるか、はたまた負けん気を引き出すかは選手のメンタルの強さ次第だ。今の段階で、東都体育大は鳳城大のスコアをわずかに上回っているということが、なんとなく選手たちの雰囲気で伝わっていた。
ここまでくれば、両校の勝敗の半分は決まったようなものだ。そもそも、大学アーチェリー界で最も強いと言われる東都体育大と、毎年王座決定戦のベスト8までは食い込んでくる鳳城大の実力では、50メートル・30メートルラウンドでほとんど点差は開かない。30メートルラウンドなんて、10点かインナー10(X)かの差になるだろう。1射でも大きくミスをすれば、その差はもう取り返しのつかないものになる。
勝負は実質、この50メートルラウンドで決まってくる。
ケイは、自分の前に並ぶ7名の選手たちを観察していた。
ケイのすぐ前にはヒカル、その前に立つアキラの様子がおかしいことに、試合が始まってすぐに気付いた。
明らかに顔色が悪い。双子の片割れのツバサと比べて慎重なタイプではある。が、慎重というよりも、ともすれば暴走しそうな心を必死で押さえつけているような危うさがある。グリップが汗ですべるのか、掌をユニフォームの裾で何度も拭う仕草からして、極度の緊張状態にあるのだろう。ふーっと大きく息を何度もついている。
(……まずいな)
行射中のため声をかけるわけにもいかず、はらはらしながら見守っていたそのときだった。
「あっ」と短い叫び声がアキラの口からあがり、ガシュ、と濁った音を立てて、制御を失った矢が的の中心を外れて飛んでいく。
アキラを挟むようにして立っているヒカルとツバサがはっと反応するのがわかった。アキラの顔がみるみるうちに引き攣り、ぎゅ、と唇をかみしめる。
一人の心の乱れがさざ波のように周囲の人間にも伝わり、またそれが全体の士気へと影響を及ぼしてしまう。個人種目であるはずのアーチェリーでも、団体戦となるとやはりそうなのだろう。自分の真隣で射っているのだ、パーソナルスペースがかろうじて確保できるような距離では、お互いが発する空気感が少なからず混ざり合い、影響し合うのは致し方ないだろう。主将である自分までも、彼の様子を見てはらはらしているのがその証拠だ。
双子の片割れのツバサと比べて、いつも比較的落ち着いている性格のアキラをここまで動揺させたのは何なのか。弓を組み立てているときは、とくに変わった様子はなかったはずだ。
————試合が始まるまでのわずかな時間に一体何があったのか。
心配する気持ちをいったん切り替えて、ケイは自分の体と弓に意識を集中した。
さいわい、リーグ戦は8名の選手のうち上位6名分のスコアの合計で競う。アキラの調子が悪いのならば、周りが全力でカバーすればいい。そして自分がすべきことは、主将として手本を見せるべく、最高のスコアを出すこと。
昨年痛めた右ひじは、医者の診立てによると完治しているとのことだった。しかし、リハビリ中だった頃に庇ってしまう癖が染みついていて枷になり、リーグ戦も初戦から3試合は出ていない。
……だが、ここでひよるわけにはいかなかった。
自分たち3回生も、リーグ戦は今回が実質最後だ。このまま負けるわけにはいかない。
顔面蒼白で歯を食いしばって自分と戦っているアキラのためにも。
本当の意味で、ケガを乗り越えるためにも。
ケイはしなやかな動きで弓を引き絞ると、的の中心に狙いを定め(エイミングし)て、左右の背筋を背骨の中心へ寄せていく。
周りの音が聞こえなくなり、グリップを握った左手で、すぐそばにあるレストの上を、ドローイングに合わせてするするとカーボンの矢がすべる微かな感触を感じる。背筋が軋む限界まで引ききり、クリッカーが矢の先端から外れるカチリ、という振動を合図に右手に引っ掛けた[[rb:弦 > ストリング]]を離す。支えを失った弓は、左手とグリップに絡めたボウスリングにぶら下がってくるりと下に半円を描いて落ちる。
まっすぐ放たれた矢が狙い通りにX(インナー10)に吸い込まれるまで、ケイはそのままの姿勢を崩さなかった。
「ナイスショット!」
背後から、会場に響き渡る大きな声援が聞こえた。
応援に来てくれていた、4回生の那須ソウイチロウだ。後輩のファインプレーにテンションを上げているらしい。いつもより少し声色が踊っていた。もう一人の4回生である細川ユウキは、残念ながら就活がいよいよ佳境に入っていてここ2週連続で試合を見には来ていない。
ケイは最後の1本を射ち終えると、弓を持ってシューティングラインから離れる。後ろを振り向いたときに応援席を見やり、褐色の肌に真っ白な歯をのぞかせてニヤリと笑うソウイチロウに向かって、軽くほほ笑んで頭を下げた。
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「ケイは、今日は調子いいみたいだね。もう肘の心配もなさそうだ」
「そうですね。おかげさまで、なんとか勘も戻ってきたみたいです」
50メートルラウンドが終了してわずかな休憩時間に入ると、マヤがさっと寄ってきてケイに耳打ちする。
周りを心配させないための配慮だ。ケイとは一番遠いところで射っていたはずなのに、無意識に右肘を曲げ伸ばししたりしていることには気づかれていたらしい。こういうところが、この人が人たらしと言われる理由だろう。ケイも大ごとにされるのを嫌う性格だということを、よくわかっているのだ。柔らかい笑顔につられて思わず頬がゆるむ。手に持っていたタオルで汗をぬぐうふりをして顔を隠した。尊敬している先輩に気に掛けてもらえるのはやはり嬉しい。だけど、その緩んだ顔を見られるのは、主将として少し恥ずかしい。
するとマヤは、今度は急に真面目な顔をしてからすぐに視線をそらし、何気ないふうを装ってすばやく呟いた。
「……気付いてると思うけど、アキラが、今一つノってない」
「ええ、みたいですね。何が原因なのかわかりませんが」
「たぶん、彼、だよ」
そう言ってマヤはくるりとケイの正面にまわりこみ、自分の体の前に隠して右手の親指で後ろを差した。東都体育大の選手たちが集まっているエリアだ。声には出さず、唇の動きで「み・や・け・く・ん」と伝えてくる。三宅スバル、東都体育大の主将。たしか、アキラやツバサと同じ高校出身だったはずだ。
ケイも視線だけ巡らせて、スバルとアキラをさっと確認する。
「え、どうして」
思わず敬語も忘れてこぼれたセリフは、自分でも実に間の抜けた響きだと思った。スバルはケイも大会で何度も顔を合わせているし、個人戦では何度も対戦している。彼の人柄の良さも、よく知っているつもりだ。今も、ざっと見て30人弱はいるだろう東都体育大の部員たちを集めて話をしていた。まるで軍隊のようにきちっと整列してスバルの話を真剣な顔で聞く彼らを見れば、スバルが主将として部員たちに信頼されているのが伝わってくる。
「さぁね。たぶんだけど、彼に何か言われたとか、そういうことじゃないと思うよ。彼は試合に勝つために相手を陥れようとか、心理的に揺さぶろうとかするタイプじゃないからね。」
「まぁ、そうですね」
それにはケイも同意だ。ケイの知っているスバルは、スポーツマンシップを絵にかいたような男だ。ドラマや漫画でよくあるような、相手の道具に細工をしたり、何か動揺させるような言葉を吐いたりするとは思えない。自分に健全な自信があるのだろう。かといって、アキラはアキラで、そんな彼に対して引け目を感じているとか、そんなそぶりを見せたことはこれまでなかったはずだった。試合で顔を合わせれば、片割れと一緒に三人で盛り上がり、高校時代の仲の良さがうかがえるような、そんな付き合いだったのではないのか。
相変わらず青い顔をしているアキラに、ツバサがからかうように声をかけていた。
「アキラぁ~、またクリチョン(クリッカーが切れる前に弦を離してしまうこと)したでしょ! スゴイとこ刺さったの、ばっちり見てたよ~」
「っせぇな、お前のせいだぞ! お前のクリッカー、音でけぇんだよ」
「えぇ~、クリッカーの音に大きいも小さいもないっしょ! ってゆーかアキラ、さっきからなにイライラしてるわけ?」
それには答えず、ばしばしと肩を叩くツバサの手を乱暴に振り払う。いつになく不機嫌な兄の態度に、さすがのツバサもムッとして顔をしかめた。
「……トイレ行ってくる」
もはや苛立ちを隠そうともせずその場を立ち上がり、腰から矢筒をかちゃりと外すとひとり離れて歩いていく。それまでのやりとりをさりげなく見守っていた全員が、足早に遠ざかっていくアキラの背に心配そうな視線を投げた。まだユニフォームもなく練習着のジャージを着て雑用に走り回っていた1回生などは、日頃負の感情をあらわにしないアキラのぴりぴりした空気にすっかり飲まれて固まっている。
完全にチーム全体がぎくしゃくとしていた。ただでさえ、強豪校である東都体育大との対戦は、出場している8人の選手以外にも、朝から息の詰まるような緊張をもたらしているのだ。このままでは、後半の30メートルラウンドの士気にかかわる。ケイは焦った。こんなときこそ主将の自分が流れを変えなくては。
「ツバサ。お前、からかいすぎ。兄弟だからって、もう少しデリカシー持てよ」
「えぇ~、俺が悪いの? 俺別に何もしてないし! アキラが勝手に一人で怒ってるだけじゃん!」
腕組みしたまま二人の様子を見ていたタクローが、ぷんすかと頬を膨らませたツバサの頭を軽くこづく。ツバサの甘えたような声色に、気まずい雰囲気が少し霧散した。今日はタクローは応援組だ。同じく応援組の2回生、矢上シンイチと一緒にスコープを覗いては、選手8人のスコアの計算をしていた。身長の差はあれど、ガタイの良い二人が鳳城大のユニフォームに身を包み、腕組みしながら応援席に仁王立ちしている風景はなかなか威嚇効果大だった。もちろん二人とも、アキラの様子がおかしいことは試合開始早々に気付いていた。
「とにかく、何があったか知らねえけど、あのアキラがここまで乱れるってそうそうないぜ。これ以上あいつ刺激しないようにおとなしく自分に集中しとけよ。お前だって50メートルのスコア、別に良くなかったろ」
「……はーいはい。ったく、タクローはなんでそんなに厳しいんだよぉ」
「まぁまぁ、ツバサも悪気はないんやろうし、アキラもきっと大丈夫やろ。あそこで3点射ったんは痛いけど、30メートルできっちり挽回してくるて」
鼻白んだツバサが気まずそうに頭を掻いて、最後にべぇっと舌を出してヒカルの背に隠れる。
こういうときのコントロールは、タクローが一番うまい。そうして、叱られたツバサのフォローをするのが決まってヒカルだった。少し離れたところで一部始終を聞いていたケイとマヤは、相変わらずのツバサの態度に苦笑しながらも感心していた。
「……良くなかったって、ツバサ先輩、何点だったんスか」
「おぉマコト、お前は何点だったんだよ。先に見せなよ」
「いいっすよ、じゃあせぇのでスコアシート出しあいましょうよ」
「いいよぉ! せぇの、」
まんまと騙されてスコアシートを出したのは、マコトだけだった。
「あっ! 先輩ずるいっすよ! 見せてくださいよ~」
じゃれ合いながら騒ぐマコトとツバサに、アオバとシンイチ、ソウイチロウが加わってワイワイとくだけていく。その様子をレンも珍しく柔らかい笑みを浮かべながら眺めていた。固まっていた1回生たちも、ほっとしたような表情でまた雑用に戻っていった。
「……杞憂だったね、我らが後輩はこの程度で飲まれるような奴らじゃないね」
くすり、と人好きのするアルカイックスマイルを浮かべてマヤが笑った。風にあおられてサラサラの髪が優しくマヤの顔の周りを舞う。ついでに隣に立つケイの眉間を、人差し指でちょん、とつつく。眉間のしわ、取れたね、と言われてはじめて、自分が険しい顔をしていたことに気付いた。やはりこの人にはかなわない。
ありがとうございます、と頭を下げ、時計に視線を走らせる。そろそろ時間だ。
「そろそろ30メートル始まるぞ。一度集合!」
主将の号令に、その場がぴりりと締まる。はい!と返事をして部員全員がケイの周りに円陣を作った。いつの間にか戻ってきたアキラも、一歩下がってはいるがちゃんとヒカルの隣にいた。いつもは当たり前のようにツバサの隣にいるのだが、さすがにあんなやりとりをした後で気まずいのだろう。
「50メートルラウンドが終わった時点で、鳳城大が負けていることは気付いていると思う。だが、勝負はここからだ。今さら言うことでもないと思うが、30メートルはとにかくメンタルの強さがカギだ。何があろうと、自分に勝つ、その気持ちで一射一射を自分のベストな射にすることだけを考えよう」
「「「はいっ!」」」
一人一人の目を見ながら真剣なまなざしで語るケイの言葉に、全員が大きく返事をした。最後にもう一度アキラのほうを見たが、アキラはケイを睨むように強い視線で見返してきた。大きな二重の瞳がこちらを射抜く。もう大丈夫だろう。ケイが円陣の中心に差し出した手に、皆が自分の手を重ねてくる。大の男たちが寄り添いあいひしめき合い、ちょっとむさくるしいくらいになってしまい、誰からともなくクスクスと笑いが漏れた。
「いいか、泣いても笑っても、リーグ戦は今日が最後だ。皆、悔いのないように戦って来い」
応!と力強い声が晴れ渡った五月の空に響く。
残り36射、たった36射で勝負が決まる。
————泣いても笑っても最後、か。なら、やるしかない。
アキラは自分に言い聞かせた。スバルのほうをちらりと見る。自信に満ちたような、すっと通った鼻筋と、いつも上がったままの口角。形の良い眉はキリリとしていて、まっすぐ的を見つめる瞳には、常に的の真ん中に矢が吸い込まれていくイメージをしているのだろう。背筋を伸ばして腕を組み、自分たちの立ち番を待っているスバルは、自分たちの勝利を一ミリも疑っていない顔をしているように見えた。
だが、このまま負けたら、アキラは一生自分を許せないだろう。
いま、は一度しかないのだから。
大丈夫だ、俺はやれる。
大きく息を吸い込んで、アキラは他の7人のサムライたちとともに真っ白なシューティングラインを跨いだ。




