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洋弓男子~INNER10!~  作者: 星いさご
13/18

第13章 腹が立つけど、認めざるを得ないもの


 夏の始まりの匂いがした。


 狭い部室の、開け放たれた窓から流れ込んできた爽やかな風は、暑い日差しに照らされたコンクリートの熱気をはらんでいて、早くも春から夏へ移ろう季節が感じられる。長袖のシャツ一枚の姿でも汗ばむくらいだ。 


 アオバは今日も部室にひとりこもって、レポートを書いていた。

 試合が続いているからとはいえ、うっかり単位を落として留年にでもなったら、部活そのものに支障が出てしまう。後輩であるマコトと肩を並べて授業に出席するなんて惨めなことにはなりたくない。自分と同じ法学部を選んだマコトに、少しだけ先輩としてプレッシャーをかけられているように感じる。


 リーグ戦も、今週末の第5戦を残して順調に消化されていた。

 第3戦の帝京都市大学にわずか30点余りの僅差で辛くも敗戦を喫した以外は、鳳城大学洋弓部は順調に白星をあげていた。第5戦の対東都体育大学戦が、ラスボスであり最後の砦だ。

“西の大阪飛鳥学院大、東の東都体育大”と言われる、いわば全国の大学のトップの実力を誇る猛者集団だ。世界学生大会への3年連続出場はもちろん、ナショナルチームのメンバーや、果てはオリンピック選手も輩出しているような、名実ともにアーチェリーの名門校だった。

対する鳳城大学こちらは4回生を含めて総力戦で挑んだとしても、簡単に勝てるなどとは思っていない。ひとりひとりのレベルがそもそも違う。部員全員がマヤかケイと同レベルだと考えていいだろう。まだ主将のケイからは第5戦の出場メンバーは発表されていないが、今回ばかりはだいたい予想がつくというものだ。

 アオバは目の前のレポート用紙に第5戦の8人の選抜メンバーと思われる名前をひとりずつ書いていく。このままいけば、仮に東都体育大に負けても王座決定戦への出場は確定している。1部リーグの上位5位までに入れば王座への切符は手にできるからだ。だが、試合である以上、勝たなければ意味がない。たとえどんなに強い相手でも。


 「…失礼しますぅ」


 集中していて近づいてくる足音には気付かなかった。突然ガチャリと扉が開く音がして、アオバは文字通り飛び上がった。衝撃で紺色の細身のペンケースがぽとりと落ちる。猫のようにびくつくアオバに驚いて目を丸くしているのは、シルバーのボウケースを引いているレンだった。着古したダメージデニムに黒いTシャツ、茶色の革ジャンという格好だから、今日はお気に入りのバイク、中古のヤマハVMAXで来たのだろう。あんなばかでかい、鉄の塊のようなバイクにどうやってボウケースを乗せたのだろうか。原チャリのほうが荷物を載せるところがあるぶん、まだ実用的だろうに。


 「ってぇ、なんだよお前、ノックしてから入れよな」


 飛び上がった拍子に机の裏にしたたかに膝を打ち付けたアオバが文句を言う。


 「はは、堪忍な。そないびっくりせんでもええやんか」


 思わず作り物ではない笑いが漏れて、ついでに落ちたペンケースを拾って渡してやる。突っかかられるのは相変わらずだが、今のは完全に照れ隠しだとわかったから別段嫌な気はしない。


 「……」

 「なんだよ、何しに来たんだよ」

 「あぁ、今週末の試合用に羽根張り替えようと思ってな。隣、座らしてもらうで」

 「好きにしろ」


 サビついた折り畳みのパイプ椅子を広げながら、アオバの手元に散らばったレポート用紙にちらりと視線を走らせる。キャラに似合わず几帳面な小さな字でびっしりと書かれたレポート用紙。そう、彼は基本的にとっても真面目な性格なのだ。なんでも要領よく済ませてしまい、面倒なところは学科の友人に見せてもらうか、単位そのものを諦めてしまう自分とは真逆の性格だ。そんな自分は他人にも興味がないので誰に対しても固執したり、腹を立てたりくよくよしたりすることがないのだが、アオバはどうも違うらしく、好き勝手に振る舞うレンに事あるごとにイライラさせられているらしい。入学してすぐの頃はいちいち突っかかってくるアオバを面倒くさく思っていたが、最近は受け流すことを覚えたため、表面上の諍いは避けることができている。学部が違うため、付き合いは部活に限定されるので、二人っきりになることはめったにない。だから今日のこの状況は非常に珍しいと言える。


 レンはボウケースを床に置くと、中から矢をごっそり取り出した。一度の試合で使う矢は、最低6本。もちろん、継矢をしたり、紛失したりすることを考えて、その倍の12本は矢筒クイーバーに入れている。ただ、普段ボウケースに入れてある本数は15本から20本だ。普段の練習でも3か月も使うと目には見えない歪みが生じてくるので、定期的に古いものと入れ替えながら使うためだ。

 レンの使っている矢は、矢本体シャフトが軽量なアルミコア&カーボン製のものだ。アーチェリーの矢は、アルミ製、アルミコア&カーボン製、オールカーボン製の大きく分けて3種類あり、カーボンのほうが軽く固く、アルミのほうが太く軟らかい。なので、初心者はまずアルミ矢から使いはじめ、レベルが上がるにつれてカーボン混じりの細く固いものが好まれる傾向にある。長距離の種目であれば軽く歪みの少ないカーボン矢のほうが的中率は格段に上がるからだ。ただし、それだけアーチャーのほうも技術が優れていなければ、所詮は宝の持ち腐れになってしまう。

 アーチェリーの矢は、アーチャー本人の体格や筋力、そして使っている弓に合わせて最もバランスの良いものを使う。そのため、長さや重さ、しなり具合(固さ)などが異なる多種類の素材や部品からひとつずつ合ったものを選び、部品を組み合わせるようにして”作る”のだ。だから、自分の矢が壊れたからといって他人に借りることはできない。

 矢本体シャフトを選んだら、自分にあった長さに切り、シャフトの固さや自分の弓の重さポンドに合った重さの矢先ポイントを選び、さらに羽根ヴェインを3枚貼り付け、ノック(ストリングにつがえるためのもの)を矢の後ろに着ければ完成だ。もちろん、最初から完成した状態で販売されているもののあるが、試合中に羽根が剥がれたり、ノックが割れたりすることが多いため、ほとんどのアーチャーは自分でメンテナンスをする。


 レンは取り出したカーボン製の矢を一つずつ手に取り、羽根が取れかかっているものや完全に取れてしまっているもの、継矢をしてノックが壊れたものをより分ける。色の白い指が優しくシャフトをすべり、ロシア人の母親譲りの灰色の瞳で熱心に矢をチェックしていく。

 細くしなやかな黒い矢に、鈍色を放つポイント。くるりとカーブしたフィルム製の羽根は白く輝いていて、どこへでも、なんでも射抜けそうなクールな美しさだ。あらゆるスポーツの中でも、道具そのものがこんなに芸術的で、繊細で、手が掛かるものはアーチェリー以外にはないだろう。弓と矢と自分が完全に一体になることで、アーチャーも道具も真価を発揮する。道具を使いこなす、というよりも、道具と自分の技術を一緒に育てていくような感覚がある。ヒカルが事あるごとに「自分の弓に名前を付けて可愛がれ」と言う意味もわからなくはない。

 

ノックが壊れたものはそのプラスチックの破片を残らず取り除き、新しいノックをしっかりとはめる。遠くからでも雨の日でも目立つように、色は蛍光グリーンとオレンジの2種類で、8本ずつ作る。それから部室の工具置き場にある重たい鉛色のフレッチャーセットを取り出す。これはシャフトに羽根をきちんと3等分に貼るためのツールだ。消毒用アルコールで羽根の貼り跡をきれいに拭った矢を1本ずつセットし、正確に鉛筆で線を引いていく。この線の上に羽根用の細い透明な両面テープを貼り、そこへ羽根を貼り付けるのだ。ズレるとまっすぐ飛ばなかったり、うまく貼りついていないとリリースをした衝撃で羽根が取れてミスになる。なかなかに神経の使う細かい作業だった。


 しばらくは、ペンが紙の上をすべるカリカリという音と、シャフトが触れ合う耳触りの良いささやかな金属音、それに二人の静かな息遣いだけがその場を満たしていた。最初に交わした会話のあとは、やはりというかいつも通りというか、お互いにまったく干渉しない。ただし、アオバのまとう雰囲気が、だんだんとピリピリしてきていることを肌で感じて、レンは作業を続けながら小さくくすりと笑った。


 「なんやアオバ、俺になんか言いたいことあるんやろ。遠慮せんと言うてや」

 「あ? 別にねーし。お前が誰と付き合おうが知ったこっちゃねーし」


 ……完全に言いたいことがある、という雰囲気が漏れ出ている。いや、もう言ってしまっている。

 昼間、カフェテリアでばったりアオバに会ったのだ。そのときに連れていた女のことを指しているのだろう。2週間くらい前からレンに付きまとっている女だったと思う。顔は残念ながらはっきりとは思い出せない。昼飯を食べようとふらりとカフェテリアに向かう途中に呼び止められ、いつもの愛想笑いで適当に返事をしていたら左腕に絡みつかれ、そのままの状態でアオバとすれ違ったのだ。こっちを見たアオバが一瞬顔を引き攣らせ、何か言いたそうにしていたが、すぐにふいとそっぽを向いて学部の仲間らしき数人と人込みに紛れてしまった。 


 「付き合うって? 俺べつに、今日のあの子を彼女にした覚えはあれへんけど」

 「はぁ?! だって、腕組んで歩いてたじゃねーか」


 言われてみればそう見えなくもないか。でもここはきちんと否定しておきたい。


 「あれは組んでたんやなくて、勝手に向こうからしがみついてきたんや。俺は何も言ってへんで」

 「なんだそりゃ。じゃあちょっと前まで付き合ってた女はどうしたよ。フラれたのか」

 「んー? 誰の話してんのや? 俺、今まで彼女おったことないねんけど」

 「?! お前、あんだけ周りにちょろちょろ女はべらかしといて、全員彼女じゃありませんってか?! んっとに嫌みなやつだな!」


 お前いつか刺されんぞ、と吐き捨てると、ため息をついてレポート用紙に向きなおる。眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。自分こそ、ホストアーチャーなどと呼ばれるような派手な格好をしておきながら、そういうところは意外と一途でお堅いらしい。現に今も、濃紺の麻素材のシャツを2つめのボタンまで外して、白いスキニーデニムの裾を少し折り返しているところは、一見爽やかだが、あざとい、とさえ思う。胸元に揺れるチョーカーと手首の革ひものブレスレットが、アオバの体を覆うしなやかな筋肉を強調している。ちらりと見える胸筋なんか、完全に目の毒だ。


 ちょろちょろ、か。珍しく目をむいてこっちに前のめりになったアオバに少しばかりたじろぎつつ、うーんと唸って天井をにらんだ。グレイアッシュの髪をかき上げつつ、背もたれに仰け反ると、パイプ椅子はぎしぎしと軋んだ。


 ”女をはべらかし”たつもりはないのだが、レンの容姿とクールな雰囲気に魅かれて近寄ってくる女は高校生の頃から大勢いた。勝手にあっちから寄ってくるのだ、かといって別段冷たくあしらう必要性も感じなかったので、されるがままになっていただけだ。彼女たちは実に様々な手練手管でレンの本命の座に納まろうとしていたが、そんなふうに自分に媚びるような態度を取られても却って逆効果だった。表面上はレンが優しく接するものだから、勘違いしている子もいるようだったが、どんな噂が流れようとレンはいっこうに気にしなかった。きっとアオバも、噂で聞いてレンに彼女がいると思っていたのだろう。はっきりと訂正したのは今日が初めてだ。


 「それよりアオバ。今日はお前練習日やったよなぁ? この後時間あるなら、部活始まるまで射たへん?」

 「…はぁ? なんでお前と練習しなきゃいけねーんだよ。それと話題の転換が急だ」

 「まぁええやん。暇なんやろ? ちょっと練習に付き合うてや」


 レンがアオバを練習に誘ったことは、これまで一度もない。アオバは真意を確かめるようにじっとこちらをにらみつけていたが、レンが飄々とした態度で見返したため、ふっと視線を外して低く「いいぜ」と答える。

 今週末の第5戦に向けて、心がそわそわと落ち着かないのは同じだった。まるで、ジェットコースターの一番上までをきりきりと昇り続けているかのような、来るとわかっている何かを迎え撃つ前のような、ちりちりとした緊張感がずっと体を支配していた。一番のライバルとお互いに認め合っている相手と手合わせすることで、少しでも発散できたらいい。

 じゃああと15分、といって急いでアオバはレポートの続きに取り掛かる。軽くうなずくと、レンは自分の矢の調整に戻った。1本1本掌の上にポイントを突き立て、羽根をふぅっと吹いて風車のように回し、曲がりがないかを確かめる。状態は万全だった。1本の狂い矢もない。レンは満足そうな笑みを浮かべ、すべての矢をボウケースに丁寧に収めた。


 きっかり15分後にアオバが荷物をまとめ、椅子から立ち上がって目で促す。レンもいじっていたスマホから顔を上げて立ち上がる。二人そろって部室を後にし、射場レンジへ向かった。


 「50、30Mの合計スコアで、勝ったほうが好きなもん奢る。どうだ」

 「ええよ、それでいこ。でもそれだけやと緊張感足りへんから、1週間奢る、でどや?」

 「~~~~っ、相変わらずえげつねーな、言うことが」

 「おおきに」

 「褒めてねぇし」


 射場レンジにつながる裏門の駐輪場に、レンのバイクが停めてあった。黒光りする大きな車体は、バイクに別段興味のないアオバの目から見ても格好いいものだった。中古とはいえ、よく手入れされているのだろう、シルバーに輝くフレームは磨きこまれ、レンの髪の色とよく似あっている。誰にも媚びない彼の性格を象徴しているかのような堂々としたフォルムは圧巻だった。


 「……で、これにどう乗れと」

 「ん? アオバ、今日はチャリあれへんの?」

 「昨日シンイチに貸したっきり。そういやまだ返してもらってねぇ」

 「一応、二人乗りやから大丈夫やで、メットも二つあるし。アオバは後ろでケース抱えて乗ってもらえば」

 「え、こんなもん持って乗れってか? むちゃくちゃだなお前は」

 「まぁ、ちょっとやってみてぇな。そんな距離あれへんし、1分もあれば着くやろ」


 大丈夫やって!と半ば強引に押し切られ、アオバはおっかなびっくり後ろのシートにおさまった。いくで、しっかり捕まってや、というが早いが、馬力に任せて加速したVMAXは、低く唸るようなエンジン音を響かせながらあっという間に走り去った。


**********



 今日のブービーは俺か。


 弓のグリップを握りこんだ掌は、びっしょりと冷たい汗をかいていた。

 拭いても拭いてもすぐに汗まみれになるくせに、口の中はカラカラに乾いていた。


 アキラは完全に飲まれていた。

 


 リーグ戦第5戦、東都体育大との対戦だ。

 天気は快晴、ただし強風。それでも雨がないだけ初戦と比べて格段にましだ。50メートルと30メートルの距離であれば、強風とはいえほとんど影響がないはずだ。体調も含めてコンディションはほぼ完璧。だからこそ、勝ちたい、勝たなければと思った。

 最初はほんの武者震いか、と思った。いつもの手順でストレッチを終え、弓を組み立て、一息つこうとトイレに向かった。

 そのとき、後ろから声を掛けてきた男がいる。東都体育大の3回生、主将を務める三宅スバルだ。


 「おう、アキラ! 久しぶりだな」

 「……スバル」


 深緑色のユニフォームに白いライン。背中には同じ白抜きで”東都体育大学”の行書体が踊る。大学生アーチャーなら誰もが畏怖するその符号。身長はアキラよりもやや低めだが、がっちりと鍛えられた筋肉に、彫りの深い顔立ちも相まって、圧倒的な王者のオーラを放っている。

 高校時代、アキラとツバサの双子と同じ神奈川七海ヶ丘高校のアーチェリー部で一緒に切磋琢磨した仲だった。その頃からアーチェリーのセンスは非常に良い男だったが、東都体育大のスパルタ練習で鍛えられた自信が、スバルをさらに大きく見せていた。


 「なんだよ、緊張してんのか? ま、東都体育大うちと当たるんだ、緊張ぐらいすっか」

 「あ、あぁ、まぁな、簡単に勝てる相手じゃないからさ」


 あははは、と大きな口を開けて笑う。人好きのする真っ直ぐな笑顔だった。アキラはぎこちない笑みを返した。こんなとき、ツバサなら屈託なく話せるだろう。自分は違う。高校の頃からスバルにはどうしても勝てなくて、負けるたびに悔しくて、染みついた苦手意識はふいに頭をもたげた。自分が相手より格下だ、と思った瞬間、体は思うように動かなくなる。

 まずい、と思った時にはもう遅かった。心臓が不規則に走り出す。


 「ま、お互い頑張ろうぜ。今日はツバサも出るんだろ、お前らツインズが出るからには負けられねーからな」


 豪放磊落。快活でポジティブ。スバルを評するに相応しい表現だ。バシバシとアキラの背中を叩くと、真っ白い歯をきらりと覗かせて、じゃあな!と言って深緑色のユニフォームが遠ざかっていく。

 わかっていたはずだった。昨年も、一昨年も同じようにスバルとはリーグ戦で対峙している。彼が主将になったことも聞いていたし、昨年のインカレインドアや、個人戦で優勝したのも目の前で見ている。なのに、なぜいまさら彼を意識するのだろうか。アキラはふうと息をつくと、拳で軽く胸を叩いて気合いを入れ直す。握った拳がかすかに震えていたのには、気付かないふりをした。


 試合は時間通りに始まった。

 今日の鳳城大学側のメンバーは、一条ケイ、橘ヒカル、結城アキラ、ツバサ、入江アオバ、的場レン、藤宮マコト、そして二ノ宮マヤだ。今までの4戦の結果を見て、最も勝てる布陣で挑んでいる。それでも、全員がパーフェクトなスコアを叩き出さねば勝てない相手だ。文字通り全力で行こう、とケイは言った。


 自分がパニックを起こしかけていることはすぐにわかった。クリッカーがいつものタイミングで切れないのだ。緊張すれば、筋肉が固く縮こまるので、いつものように体が伸びず引き尺が数ミリ足りなくなる。そんなことはよくあることで、それを乗り越えてきたはずだった。何度も深呼吸を繰り返し、落ち着け、と自分に言い聞かせる。2分3射の時間ぎりぎりまで使って、1射ずつをなんとか的に乗せていく。


 「あっ」


 後ろから聞こえてきたヒカルのクリッカーの音に反応して、あろうことか引きが足りないままストリングを放してしまった。羽根がくしゃりとつぶれた矢は大きく狙いを外れ、的の3点のエリアに斜めに刺さった。自分の前で射っていたツバサが、ひゅうっと息を飲むのがわかった。ヒカルの視線も痛いほど背中に感じる。ドクン、と大きく跳ね上がった心臓は容易に収まらず、どんどんと存在感を増していく。


 ……手にした弓との呼吸が合わせられない。

 全身に冷たい汗をかきながら、アキラは的を見つめていた。 


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