第12章 一斉射撃
12.一斉射撃
「……アオバ先輩」
「なんだよ」
「俺、トイレ行ってきます」
「は?! お前、さっき行ったばっかりじゃねえか」
「はい」
「何、まさか緊張してんのか」
「……みたいっす」
柄にもなく青い顔をした後輩を、アオバはまじまじと覗きこんだ。
珍しい。非常に珍しい光景だ。
アオバの知っているマコトは、どんな試合だろうが始まる直前まで同級生たちとふざけあっていて、集中しろと監督に毎度怒られていたような奴だった。
それがどうだろう。借りてきた猫、というのはこのことかと思うくらいおとなしく、先程まで神妙な顔つきでそわそわと弓の調整などしていたのだ。
「え? これただのリーグ戦だぜ? 8人出てもスコア上位6人の合計で競うんだからな。別にお前いなくったっていいんだぜ?」
「ちょ、やめてくださいよ、そんなん言われたら余計ヘコむんスけど」
「ったく、早く行って来いよ、もうすぐ公開練習始まるぞ」
「……なになに、マコトお前、緊張してんの? 意外にチキンなんだねぇ~」
「……ツバサ先輩には言われたくないッス」
「あ! てめぇ! 先輩に向かって暴言!」
本番に強いのがアキラ、という理由で初戦を外されたツバサのからかいを受け流せないレベルの緊張っぷりだ。余裕のない顔で、だがしっかりと暴言を吐いてから、矢筒を腰から外すとトイレに向かって駆け足で去っていく。その後姿を見送って、アオバはため息をついた。
後輩の緊張をほぐしてやるのも先輩の役目だ。今日の対戦相手は青海学院大学。昨年のリーグ戦で2部から1部に上がってきた、いわば鳳城大学よりも格下の相手だ。だからこそ絶対に負けられないともいうが、逆に言えば青海学院以外の対戦相手はほぼ互角か格上なのだ。ここで緊張していたら2戦目、3戦目など話にならない。
だが、マコトが緊張するのも無理もない、とも思うのだ。
今日はあいにく天気予報が大当たりで、春の嵐と呼ぶにふさわしい荒れ模様である。雨の勢いは時折弱まるものの、風が強く、しかも風向きはぐちゃぐちゃで、到底よめるものではない。
試合会場である青海学院大学のアーチェリー場は、シューティングラインには屋根があるのだが、そこから的までは吹きさらしだ。強風のせいで、試合中も容赦なく屋根の下まで雨が吹き込んでくる。まだ肌寒いこの時期、濡れたまま風に吹かれて一日中外にいたら間違いなく風邪を引きそうだ。
今日出場するメンバーは8人。副将の橘ヒカルを筆頭に、3回生の結城アキラ、2回生の入江アオバ、的場レン、1回生の藤宮マコト、そして4回生の二ノ宮マヤ、那須ソウイチロウ、細川ユウキだ。
温存されていて出番のない主将の一条ケイが、みんなの準備が整った頃を見計らって集合をかけた。
鳳城大学のユニフォームは、長袖の白地に両脇と襟にワインレッドのラインが入ったデザインだ。背中に描かれた鳳凰の校章と流れるような筆記体の”HOJO UNIVERCITY”が、一層迫力を増している。
「今日はリーグ戦初戦だ。あいにくの天候だが、この程度で腕が鈍るメンバーではないと思っている。今さら言うまでもないことだが、全力で勝ちにいってもらいたい」
「「「はいっ!!!」」」
試合に出るメンバーも出ないメンバーも、揃って力強い返事をした。13人の目は戦いを控えて、ギラギラとした光を放っている。その場の温度が上がるかと思われるほど、アドレナリンが発散されているのがわかった。
「4回生の先輩方は、あまり点数を気にせず好きなようにやっていただければと思います。先輩方の実力に対して私が言えるようなことはありませんから」
「……おいおい、そんなに俺らに気ィ遣わんでええんやで。こっちはわがまま言って出させてもらってんだからよ」
ケイの気遣いを一笑に付したのは、那須ソウイチロウだった。ヒカルと同じ神戸甲南高校出身のエースだ。185センチの長身に、浅黒い肌、左耳にはゴールドのリングピアスが2つぶら下がっている。スポーツ選手が派手なアクセサリーをすることはあまり感心されないが、本人によればこれはゲン担ぎと威嚇の両方の目的だそうだ。試合のときはいつも帽子をかぶるので今は隠れて見えない髪は、就活中だというのに明るいブラウンだった。
腕を組んで鷹揚に笑ったソウイチロウの両隣で、マヤとユウキもうんうんと頷きながらほほ笑んでいる。
「そうだよケイ、早々に引退した他の4回生と違って僕らは君たち後輩の出番を奪ってしまったんだ。ケイ、今は君が主将なんだから、僕たちは君の指示に従うよ」
男にしては少し高い柔らかな声でそう言うと、マヤはにこやかにケイの肩を叩く。彼の発する穏やかな雰囲気に、高ぶりすぎて殺気立っていたアオバやレンも落ち着いていく。さすが、人たらしと呼ばれた元主将だ。
「んじゃまぁ、そういうことで。逆にみんなも俺らのことは気にしないでね。身内に緊張して萎縮されたら困っちゃうからさ」
ね、マコトくん!と、ユウキが歌うようにおどけた調子でウインクをし、その場を畳んだ。三人の中で一番小柄なユウキは、色白で大きな瞳のベビーフェイスがマコトの雰囲気によく似ていて、二人が並ぶとちょっとしたアイドルのようだった。
三人とも性格はバラバラだが、うまくバランスが取れていてお互いを認め合っているのがよくわかる。彼らがその場をほぐしてくれたおかげで、マコトの緊張も少しはほぐれたようだった。
「……はぁーん、一条ケイ、お前、今日試合出ねぇの」
聞き慣れない声が円陣の中へ投げ込まれる。
振り向くと、青海学院の青いユニフォームを着た男が三人、こちらを見ているのに気付く。その中でも背の高い男が髪をかき上げながら、ケイに剣呑な視線を投げていた。ケイがきっちりとジャージを着こみ、チェストガードもアームガードも付けていないのを見て選手じゃないとわかったのだろう。ケイは落ち着いたそぶりでそいつに向き合う。
「……久米」
「なんだよ、知り合いだろ? それとも何だ、俺が青海学院ここにいるってこと忘れてたのか?」
「いや別に……忘れていたわけではない」
「ふん、まぁいいや。で、お前らなに? 今日は楽勝だと思って来てるわけ? 主将温存しといても十分俺らに勝てるって」
「なんだと?!」
久米と呼ばれた男のセリフにさっそく挑発されたアオバが低く唸って一歩前にでる。すかさず、両脇からヒカルとアキラが肩を押さえて首を振った。
「はっ、お前んとこの部員は年長者に対するしつけがなっていないようだな。アーチェリーは紳士淑女のスポーツだぜ?君はたしか入江アオバくんだっけ、試合前に暴力沙汰はやめたまえよ」
アオバは高校の頃から有名な選手だったため、顔は知られているようだった。ちっ、と舌打ちしてアオバは大人しくなった。もちろん、本気で殴り掛かるつもりはなかったが、うっかり勢いで手が出ないという自信はない。久米の後ろに腰ぎんちゃくのように控えている二人は、これみよがしにアオバを見てクスクスと笑った。
一方的なやりとりの間、3回生以下は固唾を飲んで見守り、4回生の3人は飄々とした様子でケイの采配に任せている。一瞬静まり返ったその場に、地面を叩く雨音が大きく響く。
「まぁまぁ、久米くん言うたっけ、別にケイが今日出ないのは温存ってわけやないで。青海学院そちらさんの実力は去年の入れ替え戦で十分見せてもろたからな。こりゃ負けられへんってことで最強のオーダー組んでるに決まってるやん」
ケイの隣に並んだヒカルがひらひらと手を振って笑みを浮かべた。別に嘘は言っていない。なにせマヤ・ソウイチロウ・ユウキがいるのだ。これが最強の布陣でなくて何だというのか。
久米はヒカルのほうにちらりと視線を走らせると、ふんと鼻で笑う。
「あぁそうかい、一条抜きでの最強のオーダーね。なに、1年もいるみてーだな。こりゃ楽しみだわ、こっちにも期待のルーキーが二人いるからな」
腰ぎんちゃくの二人のことか。たしかに昨年までは見ない顔だ。実力が測れないという意味では油断ならない。1年、と言われてマコトが一瞬びくりとするが、すぐにその目は二人のルーキーを真っ向から睨みつけて威嚇している。好戦的な奴が多いのは必ずしも悪いことではない。
「そろそろ時間だ、こんなところで油売ってないで準備したらどうだ。心配するな、手抜きせず全力で叩き潰しにいくつもりだから覚悟しろ」
静かに成り行きを見守っていたタクローが、ゆらりと歩み寄りながらマコトをさりげなく自分の背にかばう。トレードマークの赤は、今日はスニーカーで差し色にしている。
「おー怖い怖い、闘志はじゅうぶんってわけね。ま、こっちもそう簡単に勝たせるわけにはいかないんでね」
じゃ、お互いフェアにやろうぜ、と言い捨てて、久米はルーキー二人を連れて自分たちの待機場所へと引き上げていった。
「じゃあ、俺たちも準備しようか。気持ち切り替えて集中集中!」
重くなってしまった空気を吹き飛ばすかのように、マヤが笑顔でぱんぱんと両手を叩く。
マヤたち4回生はユニフォームの上に大きなパーカーをはおっており、残念ながら久米は彼らを出場選手だとは思わなかったようだ。まさか、アオバよりもはるかに有名な彼らの顔を知らないわけがない。おおかた、応援に来ているだけだと勘違いしたのだろう。ソウイチロウとユウキが黙っていたのも、久米の勘違いに気が付いていたからだった。
「……ねぇ、アオバ先輩、あれ誰っすか?」
自分と同じ1回生の二人に刺激され、すっかり戦闘態勢に入ったマコトが、いまだ怒りの収まらないアオバにひそひそと尋ねた。
「あぁ? あいつ、青海学院3年の久米タツオミだよ」
「へー。なんか一条主将にやたら突っかかってましたけど、なんかあったんスか?」
「さぁな、詳しくは知らねーけど、一条主将からケンカ売るわけねぇからな。どうせ負け犬の遠吠えってとこだろうよ」
ふぅん、と気のない返事をして、マコトはくるりと背を向けてみんなから離れると、おもむろに肩のストレッチをし始める。その背中は、さっきまで緊張して何度もトイレに駆け込んでいたのとはまるで別人のようだった。
午前9時。
両校の選手は横一列に並んで向かい合うと、審判の合図に合わせて一斉に礼を交わす。
選手の中にマヤたち4回生の姿を認めると、久米の顔色が目に見えて変わった。
今更慌てたところでどうしようもない。鳳城大学の選手たちは澄ました顔で礼儀正しく前を見つめていた。
リーグ戦第1戦の始まりだ。
*
50メートル先に、8枚の的がずらりと横に並んでいる。
今日取り付けたばかりの穴の開いていない真新しい的紙は、どんよりと雨に煙る景色の中で白くくっきりと浮かび上がっていた。入れ子のように重なった丸の一番中心は、まるで花芯が誘うように黄色く輝いている。
ピピー、と鋭く笛が鳴り響き、8人の選手がシューティングラインを跨ぐ。もう一度笛が鳴ると、行射ぎょうしゃ開始だ。2分間で3本の矢を射ち、打ち終わったらシューティングラインから離れ後ろへ下がる。8人全員が打ち終わると、次の8人が交代し射つ。これを2回繰り返して計6本の矢を射ったら、全員が弓を置いて的前へ行き点数を確認してスコアシートに記入する。不正がないように、それぞれ相手のスコアシートに点数を記入するのだ。
青海学院大学が先攻で、まずは2分3射の試射が始まる。鮮やかなスカイ・ブルーのユニフォームが横一列に並び、選手たちが手にした弓がキラリと冷たく光る様は圧巻だ。
鳳城大学のメンバーたちは、対戦相手の選手が次々と的に向かって矢を放つのを見つめながら、各々自分の弓にボウスリングを巻き付けてスタンバイしていた。雨は相変わらず止む気配はなく、少しでも体を動かしていないと寒さで冷えてきてしまう。
青海学院の選手たちの放った矢は、いずれも的の中心からやや左下に集中していた。的前の風向きで左に流されているということだ。だが、狂ったように吹き荒れる風はいつ向きを変えるかわからない。雨のせいで矢が下に落ちやすいことも考慮しなければならない。
残り30秒を示す笛を待たずに、青海学院は全員が3射を射ち終えて戻ってきた。次は鳳城大学の試射だ。
アオバは大きく深呼吸をすると、首を左右にコキコキと鳴らし的を睨み据えて集中する。
笛が鳴った。
同時に8人のレギュラーが足音高くシューティングラインに向かう。
立ち順は左から、ヒカル、アキラ、レン、アオバ、マコト、ユウキ、ソウイチロウ、マヤだ。
アオバはレンの静かな気配を背中に、マコトの緊張を目の前に感じながら、50メートル先の的に集中する。慣れない射場と雨でいつもより遠く感じる的に狙いを定め、落ち着かせるように弦をバン、バンとはじく。風向きを考えて照準器サイトをわずかに左にずらしておく。ハンドルを握り直して弓の先端を足先に乗せたと同時に、二度目の笛が鳴った。行射開始だ。
右手で矢筒からすばやく矢を1本抜き取り、レストに乗せて矢尻をノッキングポイントにぱちんとはめる。クリッカープレートを持ち上げて矢先を挟む。ハンドルを握った左手を軽く持ち上げると、右手の人差し指と中指の間で矢尻を挟むようにして弦に3本の指を掛ける。息を吸いながらあご下まで滑らかにストリングを引き、同時に照準器サイトピンの中心を的の中心に合わせていく。キリキリと引き絞られたリムが限界までしなったとき、カチリとクリッカーが鳴り、直後に右手をリリースして矢を放った。
バシュ、と鋭い音を立てて刺さった先は左下、8時の方向の8点。思ったより風に流されたようだ。ちっ、と心の中で舌打ちをすると、サイトをさらに調整する。ふと右隣の的を見ると、マコトも同じような場所に一射目が刺さっていた。
二射目は見事に10点。Xからはわずかに外れているものの、ほとんどど真ん中を射抜いていた。気持ちがずいぶんと軽くなり、体のほうも本格的にエンジンが掛かってきた。よし、今日はいける。アオバは確信した。
試射を終えて的前へ矢取りに向かう。アオバと同じ的を使うのは、青海学院の2回生、前野トモフミだった。何度か関東大会でも顔を合わせているので覚えてはいるが、取り立てて強い選手ではない、という印象だ。矢の刺さっている場所にさくさくとボールペンでチェックを入れると、アオバを待たずに自分の矢を抜いてシューティングラインに戻っていく。愛想はないが、静かな相手と組むほうがいちいち集中を邪魔されなくてやりやすい。
「アキラ~、調子はどう? いい感じ?」
シューティングラインまで戻ると、ツバサが片割れに話しかけてきた。手元には折り畳み式のスタンドのついたスコープを2つ用意しており、応援組で交互にのぞきこんでは矢の行方をチェックしているようだ。
「おー、まずまずだな。思ったよりも的前の風が強いから、それだけ気を付ければいけるだろ」
「さっすがぁ! だいぶ雨もおさまってきたし、このまま新記録でも出しちゃえよ」
腕組みをして皆を見守るケイの隣で楽しげにはしゃいでいる。湿気でぴょんぴょんと跳ねた髪がツバサを幼く見せていた。
「……はー、簡単に言ってくれるぜ」
「まぁでも、この風の中で新記録出せたら大したもんやで。チャレンジする価値はあるんとちゃう?」
せっかくやから勝負しよか、とヒカルが持ちかける。プレッシャーに強い二人には却っていい刺激になるだろう。
「アオバ先輩、どうすか? 俺、だいぶ落ち着いてきたみたいっす」
「そうか、よかったな。期待してるぜ」
「でも、同的の奴、新入部員なんすけど、ちょっと性格悪そうなんですよね」
「あぁ? さっき久米に連れられて来てた二人組の片割れか? でも別にそんなに上手くはねーだろ」
「そうっすね、実力は俺のほうが上でしょうね。ですけど、なんかいちいちしゃべり方がむかつくんです」
「はっ、そんなもん気にする必要ねーだろ。どうせ矢取りのときしか喋んないんだしよ。それより集中しろ、集中」
さりげなく自分のほうが上だと主張しながらも、大学での初めての公式戦で妙な力が入っているのだろう。周りの空気に注意力が散漫になりがちなのは、マコトの弱いところだ。
「いよいよ試合開始や。みんな、いつもどおり、落ち着いていこうな」
リーダーのヒカルの言葉に、選手たちが再度気持ちをひとつにする。
ピピー、と笛が鳴り、シューティングラインに入る。
「さぁ一本集中してこーぜ!」
「「っしゃあ!」」
ヒカルのコールに、他の7人が応える。割れんばかりの掛け声は、ぞくりとするような闘志をのせて会場いっぱいに響き渡った。
*
試合は順調に進んでいた。
50メートルの6射×6回のうち、半分以上が過ぎた頃。
それは唐突に起こった。
マコトの調子がおかしい。さっきから10点に矢が乗ってこないのだ。
アオバは前で射っている後輩のリズムが、普段より遅くなっていることに気付いた。
マコトの射ち型は、あまり狙い定め(エイミング)を重視していない。それよりもテンポよく射つことで、毎回一定の正しい射型を保ち確実に点数を取っていくスタイルだ。
それが今は1秒以上遅くなっている。明らかに狙いこみ過ぎているのだ。弓を引いている時間が長くなれば、それだけ体力も消耗する。悪循環だ。自分でもわかっているのだろう、しきりに肩を回すマコトの眉間にはくっきり皺が刻まれていた。
今、声をかけるべきだろうか。アオバは躊躇した。声をかけることで余計動揺させてしまう恐れもあるからだ。
それに、自分もギリギリの集中力で一射一射をこなしており、正直に言えば余裕はなかった。むちゃくちゃに吹き荒れる風はいっこうに止む気配がなく、射つたびに照準器の微調整をしなくてはならない。吹きさらしですぐに体が冷えていくことも集中力を保つのを困難にさせていた。
「……マコトくんなぁ、ちょっと狙い過ぎとちゃうかなぁ。この風やし、もっと思い切って射ちや」
矢取りを終えてシューティングラインまで歩いていると、どこか緊張感のない声が耳に届いた。レンがすっとマコトの傍に寄り、柔らかな笑顔を浮かべぽんぽんと肩を叩いて耳打ちしていた。
呆気にとられて見つめるアオバの視線の先で、マコトは自分のスコアシートからはっと顔を上げ、それからふにゃりと笑った。
「そ、そうですね、ちょっと体が固まってました。すみません的場先輩、ありがとうございます!」
「えぇて、こんだけ寒かったら体動かんしなぁ。ほな、期待してんで、頑張ってや」
「はい! ありがとうございます!」
満面の笑みで元気よく返事をする後輩にひらりと片手を振って踵を返す。フードから少しのぞいた明るいグレーの髪が視界から遠ざかっていく。キャラじゃないだろ、と思いながらも何だか少し悔しくて、アオバは焦りを忘れていた。
それからしっかり挽回したマコトはさすがだった。高校時代から伊達に鍛えられていたわけではない。
しかし、他の選手もこの強風にはかなり悩まされたようだった。50メートルラウンドの36射を射ち終えた段階で、変わらず好調だったのはマヤとソウイチロウの二人だけ。あとの6人は軒並み点数を落としてしまっていた。
「……なかなか厳しいな」
スコープをのぞき、せっせと点数を集計していたシンイチの報告を受けて、ケイがぼそりとつぶやく。
選手たちは30メートルラウンドが始まるまでのわずかな時間、水分補給をしたり、濡れたTシャツを着替えたりしていた。その表情は一様に硬い。それだけ、今日のコンディションが想定以上に悪いということだろう。
マコトが寒さで震えながらアオバにしがみつくのを見て、ツバサが自分の着ていたパーカーを肩にかけてやる。
「大丈夫だよ。僕らがこれだけ苦戦しているんだ、相手だって同じだよ。萎縮することはないさ」
弦を張り替えていたマヤが笑いながら声を掛けた。相変わらず緊張などみじんもみせずに淡々と作業を続ける。
「そうだぜ、気力で負けてんなよな。お前らが普段やってた練習ってそんなもんじゃねぇだろ。自信持てよ」
「最悪、自分の同的の相手にみんなが勝っていれば、おのずと勝ちは見えてくるんだし。リラックスして、いつも通りの射型で射てばいいさ」
ソウイチロウとマヤに大丈夫、と言われると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。円陣を組み、気持ちを切り替えた8人は、30メートルラウンド開始の合図とともに解散した。
*
―――青海学院大学の選手たちは動揺を隠せなかった。
まさか4回生が3人も出てくるとは。それも、ナショナルチーム常連の二ノ宮マヤと、マヤに次いで昨年の鳳城大学の2番手、3番手である那須ソウイチロウ、細川ユウキだ。おとなしく就活でもしていればいいのに。
主将の久米は完全に当てが外れ、ぎりぎりと歯噛みした。一条ケイが出ない理由はこれか。おおかた、4回生に花を持たせたというところだろう。
主将の苛立ちは他の選手に伝わり、萎縮させる。このままではまずい。50メートルは風の影響で相手もあまり調子が良くないようだが、それはこちらも同じだ。30メートルで少しでも崩れれば、負けは確実だ。
「お前ら、10点以外は射つなよ。8点以下なんか射ってみろ、許さねぇからな」
10点以外は点数じゃないと思え、という無茶な檄を飛ばし、隅で小さくなっているルーキー2人をじろりと睨んだ。
「スポーツ推薦で入ったお前らがこの程度か。少なくともあっちの一年には負けるなよ」
主将に名指しで怒られ、ますます小さくなってこくこくと頷く。
どいつもこいつも使えねぇな。
久米は口の中で吐き捨てると、一人になるためにその場を離れた。
雨は小降りになっていた。
30メートルではほとんどの矢が9点と10点に集中し、あっという間に的紙の真ん中はボロボロになっていく。
この距離では集中力が勝負だ。途切れたほうが負け。相手の矢が10点やXに吸い込まれるのを見て動揺したり、時折勢いよく吹き付ける風に弓を持っていかれたり、そんなアクシデントに浮き沈みする心をどれだけ平静に保てるか。
1部リーグにいる以上、16人の選手の実力はほぼ互角。
試合を制するのは、己の精神を制する者のみ。
―――30メートル最後の一射を見事X、インナー10におさめると、アオバはふっと詰めていた息を吐き出した。
結果は、鳳城大学が3680点、対する青海学院大学が3667点。
30メートルラウンドでの鳳城大学側の集中力が冴えわたり、激戦を制したのだ。
鳳城大学はリーグ戦第1戦を無事に白星で飾った。




