第10章 ライン上の武者震い
その戦いは、マコトを除くナオトたち初心者の1回生が洋弓部に入部する前から始まっていた。
『…の天気は春の嵐になるでしょう』
3月の最終週の火曜日。
1LDKの部屋には大きすぎる40インチのテレビから聞こえてきたのは、お天気キャスターの無情な声だった。
今週日曜から始まる関東リーグ戦に向けて、タクローの部屋に3回生のみんなが集まって”決起会”をしているのだ。正確にはまだ2回生だが、金曜日の4月1日の入学式を境に学年がひとつ上がる。
「っマジかよ! 雨ならともかく嵐って……どんだけー」
「風どんくらい強いのかね、初日ってのがテンション下がるわー」
アキラががっくりと机に突っ伏し、ツバサは手に持っていたチューハイの缶をぐいっと呷った。
料理上手なヒカルが今日もシェフとして活躍していて、小さなテーブルの真ん中に置かれたホットプレートで得意のお好み焼きを焼くのに忙しい。ケイは壁にぴったりと張り付いて膝を折り曲げて座り小さくなりながら取り分けられたお好み焼きにかぶりつき、部屋の主であるタクローは、みんなで食べ散らかしたテーブルの上をせっせと片付けていた。
「なんかよ、毎年リーグ戦のときって必ず1回は大雨だよな。やっぱ雨男いるんじゃねーの」
「あぁ、そらいるやろ、なんたってウチの主将は正真正銘の雨男やからな」
「……おい、誰が雨男だって?」
タクローがわざとらしく全員を見渡してニヤリと笑ったところに、ヒカルが当たり前だというようにかぶせる。ヒカルの右手に握られたコテを顔の前に突き出され、雨男呼ばわりされたケイは面白くなさそうにじろりと二人をねめつける。手にしている焼酎のロックがまた妙な迫力を醸し出していた。これで顔色も変えず、全く酔っていないのだから恐ろしい。
仕方がないのだ。
リーグ戦は毎年4月の初週からゴールデンウィーク過ぎまでの間に毎週行われる。ただでさえ春の嵐という天候の不安定な時期なのだ、お花見も危ういというときに屋外でスポーツをするならば、それなりの覚悟が必要だった。この時期はケイが雨男であろうとなかろうと、一度は雨の中の試合を誰もが体験する羽目になる。
アーチェリーは、サッカーや野球と同じで、雨が降ったくらいでは試合は中止にならない。
それどころか雨が降ったり風が吹いているときにどう対処できるか、といったところが競われるようなところがある。雨によって矢が失速したり、風で大きく流されたりするときに、どのような微調整をして的を狙うか……それはある程度経験がないと難しい。天候が荒れているときには、的の前とシューティングラインでは風向きが逆だった、なんてこともある。
それでも、試合前に行われる公開練習や、たった1度の試射でその日の会場の具合を読み、いつもと同じスコアを出せるのが上級者だ。
だだっ広いグラウンドで選手全員が金属やカーボン製の弓や矢を使っているので、雷が鳴りだしたらさすがに即撤収となる。それまでは一度始めた試合はよほどの悪天候でない限り、中止になることはない。なかなかタフな競技だ。
「…で、ケイ、今週末のメンバーは決まったのか? 初戦だし、俺ら3回生全員は出さねぇんだろ」
「まー、今回は相手があの青海学院だろ、去年2部リーグから上がってきたばっかの。順当にいけば俺らの勝ちは見えてるからな」
天気予報の衝撃から少しだけ立ち直ったアキラが聞いた。
リーグ戦は各大学対抗のチーム戦だ。8人ずつが50メートルと30メートルを各6射×6回射ち、その合計点の上位6名の点数を合算して勝敗を決める。つまり、それぞれの距離で360点満点を6人分で、合計4320点満点で競うのだ。選手登録は毎回の試合ごとに行われるので、対戦する大学の実力をみてメンバーを組んで臨むのが定石だった。
関東学生アーチェリー連盟、通称関東学連に所属している大学は全部で24校。1部から4部まで、それぞれ6校が所属している。毎年この時期に行われるリーグ戦では、各部で熾烈な戦いが繰り広げられ、所属リーグの入れ替えがあるのだ。鳳城大学はここ5年、1部リーグを死守しているが、1部リーグの6校の実力はほぼ拮抗しておりいつ2部へ降格となってもおかしくない。
タクローの言う通り、初戦の鳳城大学の対戦校は昨年のリーグ戦で2部から1部に上がってきた神奈川の青海学院大学だ。正直にいって鳳城大学こちらのほうがはるかに実力は上だ。
「そうだな……実はまだ悩んでいるんだ」
「えぇっ、もうあと今日入れて5日しかねぇぞ、どうすんだよ?! まさか、全く白紙ってわけじゃないよな?」
「いや、さすがに主力4人は考えてあるさ。だけど、残りの4人がな。どうしても決めきれないんだ」
珍しく本気で悩んでいるらしいケイの答えに、突っ込んだツバサがため息をつく。こっちはしっかり目元が赤いし、呼気が熱い。かなり酔っているようだ。
「まぁ、今年はマコトがおるからな。あいつも頑張ってるし、入れてやりたいんやけど。4回生が全員、出たいって言うてんねん」
「4回生全員って、まさかマヤさんも? でもあの人、まだ就活終わってないんじゃ……うぅっく」
困ったように鼻の頭をかいたヒカルの発言に、ツバサが驚きついでに盛大なしゃっくりをした。それを見てタクローが吐くなよ!と渋い顔をし、ケイがさりげなくツバサの前に水の入ったグラスを置く。これ以上酔わせると後が面倒だ。
4月といえば、4回生はそろそろ就職活動が佳境に入ってくる頃だ。
早々に内々定を3つももらったという那須ソウイチロウ。
悉くエントリーシートで落とされて、つい先日も射場レンジでぼやいていた細川ユウキ。
そしてひとり、就活しているそぶりも見せずのんびりとマイペースを貫き、周囲をやきもきさせている二ノ宮マヤ。
鳳城大学洋弓部の4回生はもともと7人いたのだが、この3人以外は幹部を3回生に譲ると早々に引退した。アーチェリーは大学まで、そして残りは卒論と就活に専念する、というのが理由だった。いまだ現役で引退する気がさらさらない3人は、アーチェリーの実力はほぼ拮抗しているものの、性格や状況は三者三様であった。
「まぁ……マヤさんらしいよな……っていうか、今の状況で試合出たいとか言われて、お前が断れないよな」
「……断る理由が何かあるのか」
「あ、別に出てほしくないって言ってるわけじゃねぇよ? マヤさんが出てくれれば初戦突破は確実だし」
マヤはアキラとツバサの出身校、神奈川七海ヶ浜高校の先輩でもある。昨年までの鳳城大の主将であり、双子だけでなく3回生の誰もが尊敬している先輩だ。実力も申し分ないし、なんといっても男女関係なく惹きつけるその兄貴肌の人柄と穏やかなアルカイックスマイルに、他校の後輩でさえ篭絡されているほどだ。4回生にとっては最後のリーグ戦、華々しく全力で戦ってもらいたいという気持ちもある。
だが、今年もただでさえ部員が多いのだ。1回生は今のところマコトだけだが、2回生は入江アオバ、的場レン、矢上シンイチ、筒井テルヨシの4人、3回生は一条ケイ、橘ヒカル、結城アキラ&ツバサ、星野タクローの5人。これだけですでに定員オーバーの10名だ。そこへ4回生の3人が加われば、血気盛んな選手たちは、試合に出る、出ないで火花を散らすのは確実だ。特に2回生のアオバとレンあたりは普段からむき出しにしているライバル心をさらに燃え上がらせるだろう。それが良い起爆剤となれば問題ないが、あの二人の場合どちらに転ぶかわからないのが頭の痛いところだ。
「その主力4人ってのは誰にしたんだよ。まさか毎回その4人ってのは固定にすんの?」
ツバサがグラスの水をぐびぐびと流し込みながらケイを見た。本人はまだそれが水だとは気付いていないようだが、あれが酒だったらこの飲みっぷりは危険だった。思わずタクローがニヤリとしかけ、ヒカルに目配せされて慌てて咳払いで誤魔化す。
「いや、まずは初戦だけ考えたんだ。リーグ戦も始まってみないとそれぞれの調子がわからないからな」
「えぇーと、とりあえず俺らの中だけの話やで。メンバー発表は明後日の練習の時にするから、それまで他言無用で頼むわ」
どこやったかな、とヒカルは床に投げ出されたバッグを引き寄せごそごそと中を探る。すっかりしわくちゃになった一枚のレポート用紙を取り出し、広げて読み上げた。
「今考えてるんは……アキラ、アオバ、レン、俺がとりあえず初戦の主力の4人な。残り4人をタクロー、シンイチ、ツバサ、テル、マコト、マヤさん、那須先輩、細川先輩の誰にしようか迷ってんねん」
「ケイは? 主将は出ないのかよ」
「初戦はケイは温存や。それよりも気楽に伸び伸びやれるメンツにしたほうがええかなって」
ふーん、とタクローが何か言いたそうにケイを見た。内心どきりとするが、ケイは黙ったままポーカーフェイスでその視線をやり過ごす。
「アオバとレン、両方一緒に出すのかよ」
「んー、それが一番迷いどころやねんな。でもバラバラにしたらそれはそれで揉めそうで面倒やん」
「でもさ、逆に試合中に揉めたりしねぇ? 俺、それが一番心配だわ」
「はぁ…あいつら、いい加減仲良くできないのかね」
双子のもっともな指摘に、全員が頭を抱える。アキラとツバサは一緒だろうが別々だろうが全く問題ない。だが、アキラのほうが本番に強いタイプなので、昨年もアキラのほうを初戦にまわす作戦にしていて、これが大当たりだったのだ。
アオバもレンも、それぞれに実力があることは認める。だが、二人が揃うと恐ろしく手を焼かされるのも事実だ。まるで猫のように唸り合い、けん制し合うさまは、上級生はともかく下級生からすれば心臓に悪い光景だ。試合中にそんな空気を醸し出されれば士気にかかわる。団体戦の場合、その場の雰囲気は試合結果を大きく左右する一因だ。
「や、でもあいつらも今年から先輩だろ。そんなことでいちいちいがみ合ってていい状況じゃないぜ。そこんとこ、自分らで考えろって意味でも二人いっぺんに出したほうがいいんじゃね」
手にしていたグラスをぐっと一気にあおり、少しだけ目元を紅くしたタクローが反論した。
「さすがタクロー、きっびしぃ~」
タクローは幹部の中でも一番”体育会系”気質で、躾けの厳しさはダントツだった。やんちゃだったアオバやレンを、ときには叱り飛ばし、ときには無言のひと睨みで調教した手腕は舌を巻いた。さすがに、高校まで強豪サッカー部で部長を務めていただけのことはある。今の洋弓部よりはるかに人数の多い思春期の男子たちを、固い結束でまとめ上げていたのだから。
「まぁ、当たり前っちゃ当たり前やな。そろそろ団体競技やっちゅうことを自覚してもらわんと。とくにレン」
これには全員が目を丸くしてヒカルを見た。高校からの後輩であるレンを、ヒカルは可愛がり過ぎているのではないかと皆が薄々思っていたからだ。甘やかす、というほどではないが、事あるごとに自由に振る舞うレンを特段咎めもせずに放置している節があった。それでも新年度からは副将という立場上、全体に目を配り、すでに部員の長所短所をきちんと把握していたようだ。
「お~、俺もそれは常々思ってたぜ。あいつ、ちょっと自由すぎるからな。まぁ束縛すりゃいいってもんでもねぇけど」
「大学生にもなって、いちいち口煩く言うつもりはあれへんけど、部活に所属してる以上はある程度統制とって行動してもらわんと。あのままやと社会人になってから困るのあいつやしな」
「まー、レンのことだし、なんだかんだ周りを言いくるめて上手に世渡りしていきそうだけどな!」
タクローが焼きあがったお好み焼きにマヨネーズとソースをかけながらヒカルに同意する。マヨネーズ多めで!と叫ぶのはすっかり出来上がったツバサだ。そんな片割れの様子に、あと1時間もしないうちにタクローのベッドに沈むのは確実だ、とアキラは内心申し訳なく思う。双子といってもなんだかんだ兄と弟では気質が違うものなのだ。
「……じゃあ主力4人はこれでええかな。残りは……」
「あとはぶっちゃけ誰でもいいんじゃない? いっそのことくじ引きで決めちゃえば?」
ツバサの適当な発言にタクローが尻をひっぱたきながら、この日一番のナイスアシストを決めた。
「なら、残りはマコトとマヤさんにしろよ。マヤさんがいたら二人は揉めないだろうし、新入りのマコトの手前もあったらいいとこ見せようと思うんじゃねぇの。あとは4回生の二人にまずは花持たせとけばいいさ。初戦は落とせねぇんだし、逆に力の入ってない先輩たちに出てもらったほうがいいぜ」
「ほぉー、それええ考えやわ! そうしよ! な、ケイ、ええと思わへんか?」
タクローの見事な采配に、全員が賛成した。さすが高校時代に40人を超える部員を束ねていた奴の言うことは違う。4回生であるマヤに緩衝材になってもらおうというのはいささか気まずいが、それが一番丸く収まりそうな布陣だ。一人だけ1回生のマコトも仲の良いアオバと一緒であれば初戦とはいえやりやすいだろうし、あとはアキラとヒカルがうまく試合の流れを引っ張っていけるだろう。
「そうだな、初戦はそのメンバーでいくか。よかった、今日決まらなかったらどうしようかと思っていたところだ」
ケイの表情が目に見えて明るくなり、全員が今度は別の意味で目を丸くしてケイを見た。普段感情の起伏に乏しいこの男が笑うと、誰もが釘付けになってしまう。責任感が強く、なんでも自分一人で抱え込みがちなケイが、部活のこととはいえ悩みを自分たちに吐き出してくれたことに、くすぐったいような、きまり悪いような気分にさせられてしまうのだ。
「よかったよかったー! じゃ、仕切り直して飲も飲も!」
完全にろれつの怪しくなっているツバサが手に持っているグラスを高々と掲げる。それ中身水なんだよな、とは誰も指摘しなかったが、一応合わせてグラスや缶を鳴らしてやるのが彼らの優しいところだ。
——それから間もなく、可愛らしい寝息を立て始めたツバサをタクローが諦めたようにベッドに運んでやり、それを合図に決起会は三々五々お開きとなったのだった。
関東学生アーチェリー連盟、リーグ戦の開幕は5日後に迫っている。
鳳城大学は1部リーグを死守できるのか。
本当の春の嵐が吹き荒れようとしていた。
*
こんなときに限って天気予報はよく当たる。
リーグ戦の初戦、朝から雨が降っており射場はしっとりと濡れていた。
早朝6時半。鳳城大学洋弓部の部員たちはすでに全員が勢ぞろいしている。
マコトと2回生はそれよりさらに30分早く集まっていて、選手たちのボウケースや救急箱、部旗、工具箱といったものを車に積み込んでいた。
試合会場は、対戦校である青海学院大学のグラウンドだ。ここから車で1時間ほどのところにある。荷物があるのでレンタカーを2台借り、さらに実家通学の部員2人がそれぞれ車を出して、みんなで乗り合わせて会場へ向かう。
今はまだ小雨だが、一日中晴れそうにないどんよりとした空の下、部員たちは円陣を組んで集合した。
おはようございます、と皆で挨拶をしてから主将のケイが口を開く。
「今日はリーグ戦初戦だ。生憎の天気だが、選手はいつもの実力が出せるよう頑張って欲しい。初戦が肝心だ。残りのメンバーも来週は自分が出るかもしれないと思って気持ちをひとつにして応援しよう」
初戦が肝心、というケイの言葉に全員の顔に緊張が走る。
はい!と皆普段以上に大きな声で返事をすると、主将の解散、の一声でそれぞれ車に分乗する。
アキラとツバサ、マコトの3人は、アオバの運転する車に乗ることになった。双子は仲良く後部座席に、助手席にはマコトが座っていた。
「マコト、早いとこ免許取れよな。先輩の俺にいつまでも運転させるんじゃねぇよ、頼むぜ」
すみません、ときまり悪そうに小さくなる後輩を見て、アオバが苦笑しながらアクセルを踏み込んだ。残念ながらマコトはまだ免許を取っていなかったのだ。夏に短期合宿でまとめてとろうという算段だったのだが、部活が忙しくなるようなのでそれは叶いそうにない。近場の教習所に通うか、とパンフレットを生協でもらってきたばかりだった。
4人の男子学生を乗せた車はゆっくりと射場を出ていく。アオバの後から次々と、4台の車が数珠つなぎに会場へと向かっていった。




