元・主人公
今日も、特に何もなかった。
妙な人から話しかけられることもなく、もちろん超自然現象も起きない、まったく普通の日だった。
「僕はどこにでもいる高校生だ。」
放課後の帰り道でそう呟いても、異を唱える人はもう誰もいない。
ちょっと前までならそんなことを言ったらすごい勢いで突っ込まれていたことだろう。
そう、ちょっと前。
ついこの間までは週一ペースで現実的非現実的問わずさまざまな種類のイベントが僕の身に起きてはすべてがつながりあって残酷な真実とか切ない真相とかが明らかになりつつ大団円を迎えるという現象が起きまくっていたのに、ここ最近その類のことはすっかりご無沙汰だ。
それが寂しいなんてことは、もちろんない。なぜ自分にばかりトラブルが降りかかってくるんだと本気で悩んだことだってある。
ただ、怖い。
中学生のころは、世の中の厄介ごとがすべて僕を目がけてやってくるかのように感じられるほど混沌としていた。思い出したくもない。朝方誰かの靴だけが塀の上を闊歩していたのはどういうことなのか整理する間もなく先輩から体育館裏に呼び出されその肩に邪悪な感じの黒い球体が鎮座しているのに気づき誰もいなかったはずの教室から教科書がどこかに消え帰りがけ街灯の下に青白い透けてる男女を見かけやっとのことで帰り着くと角が生え人の言葉を話すウサギがどこからか部屋に落ちてきて元の世界に戻りたいですと涙ながらに訴えられるというようなひどい日も珍しくなかった。せめて一つずつにしろや、と訴えたくなったけど誰に訴えればいいのか、そもそも訴えてどうにかなる問題なのかと絶望したものだ。
だからこそ、この平穏な日々が怖い。
嵐の前が静かなのと同じで、いつかとんでもないことが起きるのではないかという気がしてならない。
でもそれより嫌なのは、僕が気づけなくなっただけであんな事態が解決されないままくすぶっているかもしれないことだ。
目的を果たして歩みを止めた靴の穏やかさ、黒丸を取り除いた後の憑き物が落ちすっきりとした顔。教科書を見つけ渡したときの、あるいは心残りがなくなり消えていった恋人たちの、お礼。不死の薬はあげられないですけどあなたが天寿はまっとうできるよう月から見守ってますよと言ったウサギ。どれも覚えている。
誰にも気づかれず問題が放置されて何かや誰かがつらい思いをしているなら、多少は我慢するから厄介ごとに気づかせてもらえないだろうか。
「……あんなこと願ったくせに、こんな勝手なこと言っちゃってさ。」
高校に入る前のことを思い出しながら、家へと角を曲がると、何もないところから唐突に女子が出現した。
いや、「何もないところ」ではない。正確に言えばそこには穴っぽく見える「何か」があった。この女子はそれから出てきたみたいだ。そしてなぜかあちこちすり傷があって薄汚れている。うちの学校の制服じゃないから、他校の人か。学年は同じみたいだけど。というか、まず「うちの学校」どころか「うちの世界」かどうかを怪しまないといけないかもしれない。
もちろん「何か」はただの目の錯覚で傷はこの女子のやんちゃという可能性はある。
だけど、もしかすればこれが「嵐」かもしれなかった。そっちの方がよっぽどありえそうに、僕には思えた。
「傷、大丈夫ですか?」
常備している救急セットを取り出しながら言うと、彼女は少しほっとしたように返事をした。
「ありがと。いやー、この歳で転ぶとか恥ずかしいね。」
とってつけたような言い訳だった。いつぞやのウサギよろしく異世界とかからやってきた人だろうか。また強引に続ける。
「転んだとき頭打っちゃったから聞くんだけど今っていつ? んで、ここってどこ?」
違う時代からやってきた可能性も出てきた。西暦と日付、地名と念のため詳しい町名も教えると小さくガッツポーズをするのが見えた。もしやこの人は異邦人ではなく、なにか事故で異世界に行ってなんとか戻ってきたとか、そういう人だろうか。
「どちらから戻ってこられたんですか?」
何気ない風に尋ねてみると、一瞬びっくりしたような顔をして、それから僕にとっては衝撃的なことを嬉しそうに言った。
「その慣れた感じ、アナタもこういうことよくあるの?」
アナタも。
も?
「本当にそんな人いたんだ。さっき知り合いの哺乳類からアタシみたいなトラブルホイホイは他にもいるって聞きはしたんだけど、まさかこんなところで会うとは思いもよらなかったよ。」
その見知らぬ女子はニコニコしながら言う。そして僕はあることに気付いてしまった。
「アタシがトラブル体質になったのはつい最近だから慣れないことばっかりで大変ってそいつに相談したら、自分の知っているとある人はずっと前から厄介ごとに遭遇しまくってるから頼りになるかもしれないって。」
「……そう、なんですか。」
それはたぶん僕のことです、とは言えなかった。やっと厄介ごとから解放されたのにまた首を突っ込むのが嫌だったからじゃない。
彼女が無意識に目で追っている僕の後ろにあるはずの何かが僕には全く感じられないという事実が一体何を意味するのかを考えるのに必死だったからだ。そして彼女は言った。
「あんなのが後ろにいるのに平然としてるし、やっぱ慣れってすごいんだね。こないだも遭遇したんだけど、あれって普通の人にも存在してることが伝わっちゃうぐらいやばい奴なのに。」
思わず振り向くが、そこには何もなかった。それらしい雰囲気さえ感じない。
「あの、申し訳ないんですけど、人違いだと思います。トラブル体質とか、ほんと心当たりなくて。後ろがどうとかっていうのも、ちょっと。」
やっとのことでそれだけ言うと、彼女は意表を突かれたような顔をして、気恥ずかしそうに、少しさびしそうに言った。
「……あー、さっき話したやつ、芝居の設定なんです。そんな感じのトラブル体質な主人公が難題を解決していく、みたいな。」
やはり無理やりな言い訳だった。言い訳下手、というのはトラブルホイホイな主人公にとってだいぶ致命的ではないだろうか。
「うん、すいませんねー変な話しちゃって。では。」
彼女は立ち上がり僕の横を通って何もない場所を見つめた。「やばい奴」との戦いのようなものが、きっと今から展開されるのだろう。僕には関わることもできない何かが。
「『つい最近』って、いつからなんですか? その主人公さんがそうなったのは。」
さっき聞いていてひっかかったことについて尋ねてみた。たぶん答えてはくれないだろうと思ったが、意外とすんなり答えてくれた。
「高校に入ったぐらいから。」
一気に頭が冷えた。自分が高校に入る前にしたことを思い出す。
もしも僕が考えた通りのことが起きたのなら、絶対に確かめないといけないことがある。
「主人公は自分のその状況をどう思っているんでしょうね。」
なんとか落ち着いた声を出そうとしたが、実際はうわずっていたかもしれない。
けど僕の声色なんか気にもせずその女子は振り向いて勝気に笑った。
「めっちゃ楽しんでるでしょ。大変だけど、大変なのってやっぱり面白いし。」
そして「やばい奴」がいるらしい方向にじりじり近寄っていく。さすがにもう話をするのはダメそうだ。
僕はその場をさっさと離れることにした。経験上、まわりに人がいると何事もやりにくくなる。一般人ならなおさら面倒くさい。
家へと急ぎながら、中学生と高校生の間の春休みに誰にともなく願ったことを思い出した。
―僕は平和に生きたいです もう妙なことはいりません―
叶うとは思っていなかった。ただ、切実ではあった。こんなことがずっと続いたら、きっと遠くないうちに耐えられなくなってしまう。そのとき自分が何をするか分からなかった。
そして見事にその願いは叶った。トラブル体質はあの女子にうつるという形で。だから僕は彼女がどう感じているか確かめないといけなかった。もしそれで苦しんでいるなら、僕のせいだ。
「でも……『めっちゃ楽しい』か。」
そんな感想、持ったことがなかった。最終的に誰かを助けられたらそれは嬉しいけど、過程が楽しい、みたいなことは思わなかった。トラブルが楽しいなんて不謹慎だという意識があったのかもしれない。
何はともあれ僕は逃げだし、トラブルを引き寄せる体質を霊感とかとともに押し付けた。いや、トラブル体質なんてネガティブな表現より、あの勝気な表情にはこの言い方がきっと似合う。
「主人公体質」
資格を失った僕は、僕からは見えない場所にいるだろう新たな主役へ一礼した。