episode1―(1) 「召喚」
それは唐突な出来事だった。
視界を塗り潰す強烈な光と共に、腹の下が掬われるような浮遊感に襲われたのだ。
その日は、いつも通りの一日になるはずだった。
いつも通りに起床してみれば、いつも通りに悪友たちがリビングにいて、いつも通りに言い争って、いつも通りに登校して――代わり映えはないけれど、かけがえのない毎日が続いていくのだと思っていた。
「おい……どこだよ、ここ」
悪友の一人である古郡雪人が困惑を隠せないまま呟く。
鋭いツリ目をさらに尖らせ、威嚇するように周囲を見渡している。
ついさっきまで俺たちは学校の教室で授業を受けていたはずだ。わずかに一瞬だけ自由を奪われたかと思えば、ここにいたのだ。
全体的に硬質な部屋作り。きらびやかな内装は、ぱっと見ただけでどういった人種のために成されたのか嫌でも理解させられた。背後には数人がかりでやっと動かせそうなほど巨大な扉があり、その始まりからは真紅の絨毯が一直線に伸びている。
さらに俺たちの両脇には騎士甲冑がずらりと並んでいた。
腰にある剣は……おそらく、本物。
雪人のように困惑するだけで、冷静にいられるだけマシな方だろう。ほかのクラスメートは腰を抜かして座り込んだり、わめき散らしたりしている。
「……わからないけど、なんかヤバイかも」
かくいう俺もマシな方か。一歩間違えば八つ裂きにされかねない状況下で、異様な状況を把握しようと務めているのだから。
残念なことに、わかったのはヤバイの一言に尽きた。
「ゆ、ゆーくん、ひーちゃん、どう、なってるの……?」
俺たちの制服をぎゅっと握り、少女は震える声音で問いかけてくる。
もう一人の悪友、初瀬実里。長い黒髪を二つお下げに結い、自信なさげに体を縮こませる様子は小動物を彷彿とさせる。その勲章と皮肉るべきか、せっかくの美人を伸ばした前髪で台無しにする残念美人だ。
実里は悪友というよりストッパーが正しいかもしれない。昔馴染みの付き合いだが、もっぱら引き留めるのは実里の役目だ。
「さぁな。いきなりこんな場所にいんだ。ひつじの言う通り、ヤバイのは間違いねぇだろうよ」
「ばか。もう少し言葉選べよ」
「あ? この状況で下手に虚勢張る方が悪手だろ。俺の足見てみろよ、めちゃめちゃブルってる」
雪人は持ち前の三白眼で周囲を威嚇する。
甲冑に身を包み、剣まで腰の下げているのに、連中は肩を大きく揺らして身動いでいた。
なんだ? 雪人のひと睨みに怯えたのか? ……まさか。
見るからに非力そうな男女が三十人やそこらいても、刃物の一本でもちらつかせれば十分に押さえ込める程度でしかない。尻込みしないで歯向かえば何人かは道ずれにもできるだろうが、わざわざ行動するバカはいない。若干一名ほど無謀に噛みついていく悪友がいるが、今回ばかりは俺もストッパー側に回らせてもらう。
思っていたより冷静だから心配はなさそうだが、どのタイミングで噛みついていくか俺にも予測できないのだ。実里が不安に押し潰されている以上、俺が雪人を止めなくてはならない。
しかし、雪人を見る彼らの目に怯えの色があるのは何故だろう。気のせいではあるまい。
「ひつじ、実里」
雪人が呼び掛けながら、実里を背中に隠し、正面を見据えた。
意識が思考の海から浮上してくる。
「前見てみろよ。親玉のご登場みてぇだ」
弾かれたように顔を上げれば、そこには呼吸さえ忘れてしまうような美しさの女性がいた。
プラチナブロンドの髪にサファイアの瞳。
見るものを虜にしてしまうような微笑み。
おそろしいまでに美しく均整のとれた細身の身体。
女神がいるのならば、きっと彼女のような存在のことを言うのだろう。
この場にいる全員が女神のような少女に目を奪われ、ほうと息をついている。浮世離れした存在感は、そこにあるだけで俺たちの心理を掌握せしめていた。
純白のドレスを揺らして前に出る。たったそれにも関わらず、洗礼された流麗な一歩は、どこかガラス細工のようだ。
美貌を欲しいままに掲げる少女が息を吸い込む。いったいどんな言葉が紡ぎ出されるのだろう。クラスメートの皆は揃ってそう思っているはずだ。
あの美しい艶のある唇に――女神のごとき少女に視線が集まる。
「よくいらしてくださいました勇者様方!」
「……は? 日本語かよ」
我に返った俺は雪人の脇腹をどつく。効果は抜群だった。
「え、ゆ、勇者……?」
全員が何が起こったのか理解が追いつかない表情をしているなか、そう疑問を口にしたのは黒神真だった。
クラスの中心的人物で社交的で明るく、運動も勉強も抜群の男だ。薄茶色の頭髪だが染めているわけではないらしく、それが柔和な顔立ちを際立てている。周りには先輩後輩、果てには教師まで問わず美人美少女がいて、好意を向けられているのに気づかない鈍感野郎だ。加えて自分の都合のいい言葉しか聞こえない、手に負えない脳内お花畑な奴だ。
俺と雪人はこいつが気に入らなかった。
少し前に俺たちの関係に決定的な亀裂を入れる出来事があったが、今はどうでもいい。
思わず雪人にツッコんでしまったけれど、彼女の口から出た言葉が気になった。
――よくいらしてくださいました勇者様方!
そう、勇者様方だ。
日常ではあまり耳にするフレーズではない。
ライトノベルなどの題材としてはよく目にしたことはある。
異世界から勇者の素質を持つ人間を召喚して、伝説の剣なりなんなりを譲渡して魔王を倒す旅をさせるのだ。道中で盗賊に襲われたり、拐われたお姫様を助け出したりと、様々な体験をして力をつけていく。
そして魔王を倒してハッピーエンド。めでたしめでたしである。
「はい! ようこそ我が国レクスキアに参られました!」
続く彼女の声に俺の思考が中断させられる。
横に立つ雪人の横顔には、険しい表情が浮かんでいた。
「私はミルフィス・オルン・ミスティスと申します。勇者様、無礼を承知でお願い申し上げます。どうかこの世界をお救いください!」
……わかってはいたけれど。
謎の光に包まれた。
気づけば見知らない場所にいた。
自分たちを勇者と称えて世界を救ってくれと絶世の美女が懇願してくる。
これだけヒントがあれば、俺だけでなくクラスメートの何人かは気づいているだろう。たぶんここに来た瞬間に気づいたのだっている。
この状況は、明らかに逸脱しながらも、俺たちの娯楽の一部に紛れ込んでいた。
俺たちは――異世界に引き摺り込まれたのだ。
「あの女、なにふざけたこと言ってんだ?」
常時運行に戻った雪人は片足に体重を預けて体を傾かせ、平然と言い放っていた。
「ばっ……雪人! お前少しは空気読めよ!」
俺が小声で怒鳴るも手遅れだった。
真を含めたクラスメートがこちらに敵意の視線を向けていた。
ミルフィスさんは申しわけなさそうな表情で困惑している。心なしか顔色が悪そうに見えた。
にしてもこれはヤバイ。
ただでさえ俺たちはアウェーなのに、異世界に来てまで敵を作ってたら命に関わる。なんとかこの空気を打破しようと頭を巡らせるが、こういうのは実里の担当だ。だが、ミルフィスさん以上に青ざめている実里に考えろと鞭を打つことは俺には無理だ。
一触即発の空気の真と雪人。
火種があれば爆発は避けられない。
どうにかしようと焦っていると、
「ミルフィスさん、でしたか」
雪人から視線をはずした真がミルフィスさんに語りかける。
「は、はい」
緊張した面持ちのミルフィスさん。
「話を聞かせてもらってもいいですか?」
「も、もちろんです! 皆様、どうぞこちらにいらしてください!」
……なんとか、なったか。
今回ばかりは真に感謝しなくてはなるまい。
雪人は絶対に引き下がらないだろうし、普段ならあいつも引いたりしないはずだ。
ここで争っても無益だと思ったのか、ミルフィスさんの体調の悪さに気づいたのか。おそらく後者の理由で引き下がったのだろう。
安心から思わず嘆息すると、途端に怒りがこみ上げてきた。
「このバカたれ! あっちが引いてくれなかったらどうするつもりだったんだよ!」
「あ? どうするって……どうすんだろうな?」
「わかってんのか!? ここには俺たちの居場所がないのに、唯一の仲間のあいつらに喧嘩売ったりしたら間違いなく取り返しのつかないことになるんだぞ!?」
ミルフィスさんは今のやり取りで確実に真に信頼感を寄せただろう。
いきなり異世界に呼び出してしまって申しわけなく思っているだろうし、何か言われることも予測していたはずだ。
だとしても言われたら嫌だろうし、それで庇われたら嬉しくもなる。
つまりだ。
ミルフィスさんを庇った真には信頼感を寄せたのに対し、雪人に対しては嫌悪感を抱いたということになる。嫌悪感は言い過ぎだとしても決していい感情は抱いていないだろう。
世界を救ってくれと言うくらいだ。勇者と対になる魔王を倒してほしいのだろう。
そうなれば召喚主であるミルフィスさんの信頼を損なうのは得策ではない。
おそらくここを拠点に力をつけることになるだろうし、少なくともこの世界で生きていけるほどの力をつけるまでは、彼女の庇護下にいれるか否かが鍵となる。
……もう手遅れかもだけど。
「……そうだな。悪かったよ。俺が軽率だった」
雪人はそう言って頭を下げた。
「ゆ、ゆーくん、ひーちゃん、早くしないと置いていかれちゃう、よ」
今まで黙っていた実里が俺たちの制服を引っ張り、扉の向こうに消えていくみんなを指さしている。
俺たちは慌てて後ろについていく。