Prologue (1)「赤い髪」
右腕が肩の根元から食い千切られた。血が噴水のように激しく噴き出し、顔を鮮血で鮮烈に染め上げていく。
不思議と痛みは感じなかった。想像を絶する――と言うと安っぽく聞こえるが、それだけの激痛に襲われるだけの欠損だろう。少なくとも食われたことを平然と認識し、思考することなんてできないはずだ。
おそらく痛烈すぎるそれに肉体が耐えきれないと判断し、神経から伝わる感覚を遮断したのだ。
片腕を失ったことでバランスを崩した俺は、不格好に尻餅をついた。
ごりごりと骨を砕き肉を租借する音が聞こえる。
顔を上げれば、俺の腕を飲み込む魔獣がさらなる餌を求め、口を開けたところだった。俺は文字通り血の気を引かせながら地面を転がって逃げる。それと同時に金属を打ち合わせたような甲高い音が響き渡った。
俺は血を撒き散らしながら体を反転させ、意識が遠退いていくのを気力を振り絞って繋ぎ止める。
しかし意識を繋ぎ止めてどうすればいいのだろう。俺に何ができるのだろう。
ここから脱出するにはあの魔獣を倒すしか方法はない。
喉を鳴らして威嚇するのは狼のような魔獣だ。けれど大きさは象ほどもある化物。大縄のように盛り上がった筋肉を誇る四肢。隙間から覗く凶悪な牙。下手な刃物より鋭利な爪。
勇者の力が欠片ほどでもあれば希望はあった。莫大な魔力を使って魔法を唱え爆発させたり、反則めいた剣撃で首を撥ねたりと、生き残るすべはあったはずなのだ。
「……あーあ」
――死にたくないなぁ。
魔獣は壁に凭れかかる俺を目掛けて巨体を跳躍させる。食べるんじゃなくて押し潰すのだろうか。人の腕を食しといて口に合わないからって残すんじゃねぇよ。どうせなら骨の髄まで、血の一滴まで味わえよクサレ狼。
が、そんな心配は無用だったらしく、俺の前に着地すると大口を開ける。
そして左足を噛み千切った。
「――――――――っっっ!!」
声にならない絶叫が口から紡がれる。
痛みはないが、いつの間にか食われた右腕とは違い左足は俺が見る前で噛みちぎられた。すでに感覚は麻痺して現実で痛みはないはずなのに、食われたという認識が幻痛となって刺激してくる。
気を失えればどれだけよかったか。
せめて一思いに殺してくれと思うが、やはり死にたくはない。
俺は護身用にと渡されていたナイフを腰のホルスターから抜き放ち、今まさに噛みつこうとする狼の眼球に狙いを絞り縦一閃に走らせる。こいつの扱いだけは教えてもらってんだよ。嘗めんなバーカ。
狼は予想外の反撃に驚いたらしく、苦悶の雄叫びを響かせている。
だが、それは狼の狂暴性を刺激するだけだったようで、残された眼に怒りの光を宿して咆哮した。
自分より格下に反撃されるのはどこの世界、どこの生物も同一のようで、さっきまで焦らすように噛みついていた狼が俺を丸飲みにしようと牙を突き立ててくる。
ある意味計算通りか。じわじわなぶり殺されるのなんてまっぴらごめんだ。
俺は目を閉じ、最後の瞬間の準備を整えようとした。
そのときだった。
鼓膜を破りかねない轟音と共に、部屋の一角が吹き飛ばされた。
「…………」
舞い上がった砂埃の向こうに誰かが佇んでいる。
もしかして、誰かが帰ってきてくれたのか?
いいや、と俺は否定する。取り残された俺を回収に割けるほどの戦力はいなかったはずだ。
けれど何者かはそこにいる。
いったい誰なんだ……?
「…………」
そんなことを考えていると、目の前にいた狼の体躯が横凪ぎに壁に叩きつけられた。
そして狼がいた場所には誰かが立っている。
しかし血を失いすぎたせいか意識は遠退き、視界がぼやけている。
色や形しかわからないが、その人物が俺を見ているのは確かだ。
「――――」
すると俺に顔を近づけ、何かを耳打ちしてくる。すでに聴覚までやられたらしく、何を言っているのかはわからない。
しかし鈴を転がしたような声は俺を安心させるには十分だった。
緊張の糸が切れたように意識が沈んでいく。
最後に見た光景は、赤色の髪が翻ったところだった。