その引き金は1
第二話 その引き金は
「───さま、礼様」
宙を漂っていた意識が収束する。ゆっくりと覚醒の水面へと浮上し、俺は朝日を瞼の裏で感じた。
心地いい音の震え。全身を包むような甘い香り。そして、余りにも快適な布団に、俺は違和感を覚えた。
ここは、どこだ……?
霞掛かった意識に焦りが広がる。そして俺は瞼を恐る恐る持ち上げ、
「────」
そして、息を呑んだ。
「お早うございます、礼様」
「お、おはよう……ティアフィール」
目の前に、あのティアフィールの顔があった。ついさっきまでの声は彼女のものだろうか。相変わらずの綺麗な造形に、毎朝心臓が跳ねるのは既に日課となりつつある。
「本日は十分程起床時間を遅らさせて頂きました。勝手な所業、お許しください。……ただ、余りにもお疲れのようだったのでそう判断いたしました」
「あ、あぁ……。いや、ありがとう」
体を起こすが、すぐにもこの柔らかいベッドへと倒れ込みたい。ティアフィールのいる手前、二度寝など許されないだろうが。
この屋敷に来てから、5日が経った。
早くも学校では異例の車通学と言うことで話題になっているし、もっと言うと俺を校門で見送るティアフィールが主に男子生徒を狂わしている。銀髪の超絶美人少女。威力は絶大だろう。飛色は飛色でわざとらしく睨んでくるし、信司と言えば紹介しろだの踏まれたいだのと煩い。
少しいつもに比べて視線が痛くなっただけで、別段以前と変らない日常を俺は過ごしている。
ただ、俺の精神は日々磨耗し続けていた。
慣れない作法や習慣を必死に覚えて、同じ人間が放つとは思えない威圧の中で挨拶をこなしていく。いくつものパーティーへ出席し、いくつもの座談会へと顔を出した。
それらは全て蒼井の姓を貰い受けるための儀式のようだった。
俺は無駄に広いバスルームでシャワーを浴びて一通りの身支度を済ませると、朝食の並べられたテーブルへとかけた。
ティアフィールは当然のように斜め後ろに控えている。最初は執事の真似事かと思ったのだが、現実ではそうでもないらしい。どちらにしろ、安心して食べられないことに変わりはないのだが。
「……一応聞いておくけど、今日の予定は?」
「一応では困ります。ようやく私への指示に慣れてきたと思ったのですが。……予定は勿論ありますよ。と言っても、本日は一件だけです。懇談会を兼ねた立食式のパーティーです。場所は二階堂様本邸───」
俺は昨日リクエストした日本食を咀嚼しながら、頭の中で挨拶相手の情報を反復する。この数日で、このティアフィールが教えてくれる情報が如何に重要なのか身を持って思い知ったからだ。
……これが、俺の人生なのだろうか?
こんなことをやっていていいのかと思う。こんな生活に慣れてしまっていいのかと思う。
この5日間、同じ事を毎日自問していた。
この日常の変化は、余りにも大きすぎて突然過ぎる。
「ごちそうさまでした」
席を立つと、ティアフィールが慣れた手つきでカートへ食器を戻していく。それを見て、俺は毎度のことながら自分で済ませてしましたいと思う。
「……学校、行きますか」
「車の用意は出来ております」
俺は制服に腕を通して部屋を出た。
......................................................
「これはまた……」
「着きましたよ、礼様」
学校を終えて着替えた先、着いたのは巨大な屋敷だった。蒼井の家には及ばないが、十分に広い土地である。
二階堂家。
蒼井の対として並べられるこの一族は、勿論そこらの上流階級とは訳が違う。発端は焼き菓子屋だそうだが、今では全国区どころか世界規模で様々な分野でブランドを確立している。
ここ二日は、比較的──と言っても途轍もないブルジョワに変わりはないが──発言力の弱い家を回っていたからか、今日は一段と緊張する。
俺くらいの年齢だとこういったパーティーでは、どうも婚約者や帳を共にしている相手をエスコートするのが普通らしい。しかし、そんな番は居るわけもなくソロでの参上となっている。毎度のことながら恥ずかしい思いをするので、ティアフィールを連れていこうかと思ったのだが、どうやらそういうのはタブーらしい。他の家ならそれでも問題は無いらしいのだが、蒼井の場合は別らしい。確かに、エスコートする相手は確実に時期当主の正室となる人間。大きな波を引き起こすのは明らかである。そのことをティアフィール本人の口から聞いた時は、やけに納得したものだ。
だから今は、隣にティアフィールの姿は無い。
無振動設計の車が止まり、ドアがゆっくりと開かれる。
俺は僅かに息を一呼一吸させると、脳を普段の意識から蒼井家時期当主のそれへと変えた。これは最近身に付けた技術だ。イメージはスイッチ。感覚的には脳内思考を日本語から英語に切り替える時と似ている。似ているが、正確とは言えない。どちらかというと、仮面を被る感覚だろうか。
会場に入ると、一斉に視線が集まるのを感じた。微笑を携えて煌びやかなエントランスを進み、人の間を行く。
浴びせられる視線は、慣れたものだった。違いといえば、今日は少しその量と想いが強い位。
そこに、礼装に身を包んだ一人の中年男性がやって来た。健康的にわずかに焼けた肌。人の良さそうな笑み。そして、こちらの奥底まで見透かすような、鋭い眼光。
空調が効いているのにも関わらず、ゾクリと悪寒が背を走った。試すような──いや、見下すような瞳の色。俺は笑いそうになる膝に力を入れて、余裕の仮面をもう一枚被った。
「ようこそいらっしゃいました、礼様。この度は我々の夜食会へ足を運んでくださり、お礼申し上げます」
「今晩は、二階堂先生。このような会にお招き頂き、有難うございます」
二階堂正元代議士───今、与党内で最も発言力が強い人物であり、今回の会の主催者である。つい1週間前まではスクリーンの向こう側の光景だったのが、今こうして目の前に非現実的な世界が展開されている。
政治など、俺は全く分からない。この目の前の中年が、現代の日本経済に無くてはならない
存在であるという事位の認知度だ。
しかしそれでも、この代議士が放つ人間離れした存在感を目にすれば、とんでもない人物であるということは素人目にも良く分かる。
「会場はあちらとなっています」
俺は付き人を離すと、先生の後に続く。会場に入ると、そこにはさらに多くの人間で溢れていた。
やはりここは異世界。言葉以外のコミュニケーション手段によって、笑顔の裏で駆け引きを行う。人的ネットワークが無ければ息も吸えない場所なのだ。
やって来た最初の相対者三人に、握手を求める。
俺の戦いが、始まった。