境界上の二律背反4
亡くなられた。
つまり、死んだ?
あの、ゴーストが?
しかし、俺の思考と感情はそこで終わりだった。あまりにも意外で突拍子もなく、驚きが俺のなかに生まれた。
だけど、それだけだ。
何か思うところがあるのでもなく、死の哀しみが広がるわけでもなく、ただ形式的に悼むポーズを取るだけ。
仮にも、俺をここへと導いてくれた人物であるにも関わらず。
それは仮想現実と現実社会との二律世界が生む、死意識の剥離が原因にも思えない。また、上流階級の間では主流となっている寿命長期化による、社会的な死概念の薄れが原因にも思えない。
こんなものなのだろうか。
俺は突然、自分自身の道徳とやらを疑い始めた。しかし、一方でそのことから目を背けようと、目の前のティアフィールに意識を向ける俺もいる。
俺は乾いた喉を潤そうとして、何も飲む物がないことに気が付く。ペットボトルなどという容器は、どうもこの空間には無さそうだ。後でティアフィールに、どうすればいいか聞いておかなくてはなるまい。
「……ですから礼様は、修馬様ではなく一騎様の養子として迎えられたこととなっています」
「里親制度って、こういうものなのか? 結構大雑把……ではないけど突然というか、いきなりというか。もう少し場数を踏んでから、やっとのことで成立するものだと思っていたけど」
「本来はそうなのでしょう。……しかし、私にも詳しいことは分かりませんが、何やら相当に焦っておられるようで」
「焦ってる……? 何に? それは修馬さんが、それとも───」
「蒼井家全体が、です。ただ、私のような一使用人にもわかる程、ホールディングス含め各様個人的にも何かに憑かれたように忙しく見えました。そしてそれは、今もです」
そこまで喋って、ティアフィールははたと何かに気が付いたように表情を驚きと焦りのそれに変える。何かと訝しんでいると、突然彼女の頭が下げられた。
「も、申し訳ありません! お飲み物も出さずに席についてしまって、今すぐにお出しいたします!」
「いや、あ、ありがとう。別にそんな気を使わなくても大丈夫だよ」
「本当に申し訳ありませんでした」
そう言うと、ティアフィールはまさに早業という奴で、一瞬でティーセットをテーブルに並べた。……その棚に紅茶があるのか。
俺は今まで飲んだことのない上品な香りのそれに感動しながら、会話を再開する。
「俺は、これからどうなるんだ? 普通に、過ごせるんだよな……?」
「普通に、とは今までどおりの生活という意味でしょうか」
「そうだ」
「それは……、全く変わらないと言うのは無理でしょう。少なからず、蒼井の次期当主候補として振舞わなくてはならない盤面がありますから」
一瞬、ティアフィールが遠い目をする。
「それは、学校生活にも影響は出る程のものなのか?」
「わかりません。しかし、私がなるべくそうならないよう尽力致します」
「……ありがとう」
「礼には及びません。私は礼様の使用人ですので」
「……俺にとっては、一人の女の子にしか見えないんだけどな」
そう言うと、ティアフィールはどんな表情を浮かべるでもなく、結局顔を伏せてしまった。表現するならば、それは驚きと怒りと哀しみ。
今まで規律に縛られている様に決して逸らさなかった顔を、こうして俯かせている。今この時、どんな表情を浮かべているのかは銀の髪に隠れて分からない。
地雷、だったのだろうか。
俺は内心焦りながら、ティアフィールの様子を伺う。正直、俺は彼女の機嫌を損ねることが怖かった。形式的にでも忠誠と言う形で助けてくれるのは、彼女だけだ。この屋敷のどのメイドも、親戚も、もっと言えば一時的に世話になった執事でさえ。
俺は信頼を置くことが出来なかった。瞳の色と深さが違うのだ。そこにあるのは、滾る欲望か諦めか猜疑のみ。獣のような人間か、無機物のような人間しかいなかった。
どちらかといえば、ティアフィールも他の使用人と同じく、造形だけよくできた意思のない人形にも感じる。
しかし、何かが、彼女は違った。
それが何なのかだけはわからない。ただ、その美しさと忠誠を何かと勘違いしているだけというのも大いに有り得る。
ただ、こんな世界を一度も見たことがなかった俺にとって、ティアフィールもまた一つの異色に見えた。言わば、同類意識。勝手気ままに、一方的とも言える思考で決めつけているだけだが、それでも俺はティアフィールが離れることに恐怖と不安を覚える。
「私のことは、決して貴方と同じ立場にあると考えないでください。それがここでの生活で必要な、最初の適応です。なぜならほとんどの格差が、競争力という名に変わってしまうのですから」
分かっているのだ。つい数日前と同じように飛色達と接する事が出来ない事くらい。
それくらい、この世界は異常だ。
感覚的にしか分からない。具体的に何が異常かと問われれば明快な応えは返せないだろう。しかし、人間の醸し出す異常さとはそういうものだ。雰囲気とは、そういうものだろう。
だから、俺は傲慢にも彼女を失うことを恐れる。自分と同じわけでもないのに、そこと違うという共通項だけで仲間意識を芽生えさせる。
どんなに言い訳を羅列したって結果は同じ。要するに、俺は自分の事しか考えていないのだ。
「…………そろそろ、お休みのお時間です。私はこれで失礼させて頂きます」
「あ、あぁ……」
「明日は6時半にこちらへ伺います。朝食は6時45分からとなっております。そして屋敷を7時15分に離れ、20分登校となります。……明日から忙しくなられるのでごゆっくりお休み下さい」
さっきとは打って変わった機械的な音声。無表情に戻った彼女は、本当に綺麗な人形のようだった。
俺は半ば呆然としながら、彼女が扉から出ていくのを見送るだけ。
パタン、と静かに部屋が閉じられた。
お休みの時間と言っても、まだ随分と早い。もしかするとこの世界ではそうでもないのかもしれないが、素人目でも猜疑心を抱くほどにティアフィールの行動は不自然だった。まだティアフィールが来て十分と経っていない。
俺は深々とソファーに座り込み、長い息を吐いた。
「……寝るか」
明日も早いのだ。幸い起床時間はいつもと大して変らない。
俺は緩慢な動作で用意されていた寝間着に着替えると、例のベッドへと倒れ込んだ。そのまた泥のように眠るかといえばそうではない。脳裏に浮かぶのは、今日起こった一連の出来事と施設の皆のことだ。
「……皆、心配してんだろうな」
そんなことを考えていたら、意識は知らずに散っていた。