境界上の二律背反2
「よ」
「礼帰ろーぜ」
「おー、帰るか」
窓際から二列目のその中間。周囲を思いっきり生徒に囲まれたこの席まで来るとは、コイツもなかなかやる。他のクラスというのは、どうにも居心地が悪いものだ。
視界に割り込んできたのは、中途半端に髪を伸ばした男子生徒。チャラチャラしたような印象を受けるが、中身も驚くほどそのまんまだ。
コイツの名前は、当座信司。去年まで飛色とを含め、この三人でよくつるんでいた。しかし、信司だけクラスが別となってしまい、以前のような頻度では会っていない。こうして、一緒に下校することも珍しくなってしまった。今日は予定に余裕があるようだが、最近は色々と忙しいようだ。
「あ、信司君だ。最近顔出さないと思ったら」
「俺も色々と忙しーんですよ」
「昼まで? お前、帰宅部エースだろうが」
「きっと、ETS系のスコアまだ足りてないんだよねー?」
「あー、お前英語苦手そうだもんな」
実際は、コイツが英語が苦手かどうかは知らない。ウチのペーパーテストでは個々の差なんてほとんど出ないし、かと言ってネイティブとしゃべる機会もない。
信司は軽薄そうな顔を歪めて、心外だとでも言うような表情をする。
「お、お前らなぁ……。言っておきますが、俺ペラペラよ? イタリーもジャーマンも、なんならテキサスもいけんだかんね?」
「確かにテキサスは言語が違うよね」
「いや、突っ込むのそこじゃねーだろ。信司、本当に喋れんのか? 割と本気で意外なんだが。どのくらいかというと、コイツは海馬かなんかが足りてないんじゃないかと疑っていた位」
「容赦ねーっすね」
飛色が帰りの支度をし出したのを横目に、俺も数少ない教科書とホログラフィック式の──つまり最新のラップトップを鞄に入れる。国が支給してくれたものだから飾り気はないが、歴とした大企業の製品なので動作は折り紙付きだ。
「俺は小さい頃、親に連れられて海外飛び回ってたんよ。はい、QED」
「礼君、やっぱり足りてないわ、この人の海馬」
「なにを持って証明って言ってんだよ……。いや解るけれども。解るけれども……」
「うーん、まぁ私達だって鬼じゃないよ? 信司君がマルチプラーなのは認めてあげる。……でも、信司君に対する認識は結局変わらないかなー」
「うぇー、変えようぜ、変えようぜー?」
「やっぱり、お前は残念脳ミソだ」
どうでもいい会話をしながら教室を出る。練習着を着た運動部の波を躱し、ようやく下駄箱へと辿りついた。
「今日はどうするよ? ラーメン? ラーメン行っちゃう?」
「おま、飛色が居るんだぞ? 俺らはもう慣れたかもしれないが、コイツは世間的には一応可愛い女の子で通ってるんだ」
「一応、って……。と言うか、女の子でもラーメンは食べるけど何か?」
ぎろり、と飛色に睨めつけられる。
え? 俺が悪いん?
「ほら見ろ礼! お前の負けだ……!」
「いやいやいや、何の勝負だよ。え、ていうか、本当にラーメンでいいのか飛色?」
「うん。久しぶりに食べてみたいし」
「ほらほらー、時代は常に移り変わるんだぜー。それで何食べる? 無難に豚骨? 通らしく醤油? それとも塩でも行きますか」
「んー、どれもいいなー」
意外だった……。
接点のある女子と言っても飛色ぐらいなものだからしようがないと言えばそれまでだが。今時の女子はラーメンにも行くのか。
そうと決まれば、信司程ではないにしろ俺のおすすめラーメン屋リストを展開しなければなるまい。
そんなことを考えながら靴を履き替えると、先に行っていた二人が玄関で立っているのに気が付いた。
どちらかというとそれは、立ち竦んでいた。
「おい、二人共どうしたんだ───」
二人の横に並ぼうと視線を外し、それが見えた。
立ち止まっていたのは二人だけではなかった。しかし、それは遠くにこちらの様子を伺う垣根であり、近くにはいない。全員が、そそくさと目の前にある空間を小走りに抜ける。
そこにあるのは、黒塗りの日本車数台と規則的に陣を組んだ黒スーツ。
どこかの異世界に、迷い込んだようだった。
「ね、ねぇ礼君……」
「なんぞ、これ」
「……取り敢えず、二人は下がっててくれ。多分、と言うか十中八九危害は加えられない、と思う。俺に用があるんだろう」
「は? なんでまた礼?」
「それは───」
そこで、俺はラーメン屋で伝えようと思っていた内容を手短に説明する。目線は、逸らさないままで。
説明を終えると、横で長い溜息を聞いた。
「……まじかよ」
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。また明日」
俺は何かを言いかけた飛色を遮るように、別れの言葉をかける。そして、足早に異様な空気に包まれている小広場へと向かった。一斉に視線が集まるのを感じる、が俺はそれを黙殺する。
すると、一人の代表格と思われる男が腰を折った。直後、列になっていた他のスーツも一斉に頭を下げる。
「礼様、お待ちしておりました」
「…………」
「ご同行、願えますね?」
「蒼井、さんの人達だよな?」
「はい、そうです」
俺は、半ばこれからのことについて諦めた。少なからず、俺の常識やら日常やらが今日変わることを。
……なんで、こんなことにまで来るんだよ。
「分かりました。宜しくお願いします」
「では、こちらへ」
一切の表情を変えない男は、慣れた手つきで、しかし至極丁重な動きで背後の車のドアを開けた。
俺は身を固くしながら革張りの座席に座り、一瞬昇降口へと視線を投げた。そこには何を考えているのか分からない表情をしている信司と、意外にも焦りを顔に滲ませている飛色の姿がある。
その光景を最後に、一礼と共にスモーク張りのドアが閉まった。