プロローグ
───人間は他者との関係によって自己を認識する。
例えば、目の前に分かれ道があったとして。
一本は、綺麗に舗装された道路があって、その先は美しい花園へと続いている。しかし、一つだけ制約が設けられている。それは、これからずっと仮面を着けて生きて行かねばならないと言うこと。
もう片方は、断崖絶壁に造られたボロボロの道で、その先にはまた違った美しい花園が待っている。ただ、道にはしっかりとした救命設備が整っている上、ありのままの自分で居る事が出来る。
この二つの分かれ道。
悲壮に暮れ、絶望し、夢を見て、そして再び涙した。
その先で、俺は立ち止ることを許されないまま、分かれ道の一本に踏み出してしまった。
それがどちらの道だったのか分かっているはずなのに、見ていないふり、気が付かないふりをして自分の決断を誤魔化している。
結局、自分の事しか考えていない。
だからあの時、言ったんだ。
───俺には君を救えない。
プロローグ
四月四日。
桜が風に煽られて、その花びらが空へと舞い上がる季節となった。
どこの地域でも、不安と期待を器用に混ぜた表情を浮かべる学生が、電車やバス、そして新校舎へと続く道に溢れかえっていることに違いない。
ここ、ミラシェスタ学院でも同様なことが言えなくもないだろう。
しかし、それは一般高校に比べ圧倒的に少ない事例であるだろうし、何よりも心に収まりきらずに顔にまで出る感情は不安がほとんどのはずである。
もっとも、そんなに感情を表現することが得意な生徒も少ないだろうが。
入学式は、一端ホームルームで全生徒が集合してから講堂へ移動して執り行われることとなっている。全寮制であるミラシェスタでは、登校時間が重複する場合が高い筈で、現に俺の前後には数人の男女が廊下を静かに歩いているところだ。
しかし、あくまでそれだけ。
早速集団を作って談笑の輪を作る女子生徒の姿も、校内を連れだってうろつく男子生徒の姿も一切見ない。廊下を歩く全ての学生が、同じ方向に向かって足を動かしている。
「もう、既に異常だな」
「この廊下ですか? 確かに、最新の複合現実技術が至る所に見受けられますが。ホロ・グラフィックの装飾と案内がここまでリアルだと、かえって気になりませんね。しかし、蒼井の屋敷に使われていた技術とそう大差ないものでは?」
感嘆を籠めて呟いた言葉に、斜め背後から返ってくる声があった。
振り返れば、そこには背筋が震えるほどに整った造形をした少女がいる。余りにも人形めいた美しさは、ここが仮想世界であるかと疑う程である。しかし、その僅かに緩んだ頬と無理に感情の起伏を押し隠そうとする無表情が、彼女が俺と同じ人間であることを示している。
彼女の名前は、ティアフィール・フェドロフ。
流れる髪の色は、星屑を散りばめたような白銀。それを丁寧に結い上げた姿は、出会ってから半年ほどたった今でも胸を高鳴らせる。
彼女は、俺の専属侍女にして今は良き友人である。
「いや、MR技術も確かにもの凄いとは思うけど……。そうじゃなくて生徒の方だよ」
「生徒、ですか……?」
「普通、もっと騒いでごちゃごちゃしてるもんだろ」
「そうなのですか? 私はその手の一般常識に疎いので良く分かりませんが」
そう言って、ティアフィールは首を僅かに回して、新たな発見をしたかのように周囲を観察する。
「皆さま、緊張していられるようですね」
「そりゃそうだろ。俺だって緊張してる。いくら日蔭者に過ごしやすい環境だ、だなんて囁かれていても結局は社会不適合者の破棄溜めだろ」
「礼様、消されますよ」
「冗談にしては笑えないよ、ティアフィール。じゃあ、破棄溜めじゃなくてリサイクル施設だ。ちなみに製造する製品は、漏れなく法律違反」
「むしろ、ミラシェスタが法なのでは? つまり、全ては合法です」
「実際そうだろうから怖いなー。……って言うか、いい加減様付けは止してくれ」
すっと俺達を追い越して行った一人の生徒が、ちらりと一瞬こちらを盗み見てきた。
「何度目のやり取りですか。私は常々繰り返し申し上げている通り、自分の主、ましてや蒼井家当主とあろうお方を敬称無しにお呼びすることなど───」
俺は足を止めると、左足を軸足に振り向く。そこに、突然の停止にティアフィールがあわてて立ち止り、寸での所で俺に衝突することを免れた。
丁度、俺の胸元にティアフィールの銀髪が来る形となる。
俺はそのままの体勢で少し腰を折ると、極力小さな声で巨大な拘束力を持つであろう言葉を発する。
「ティアフィール、約束忘れたのかな?」
「う………………。それをまさか今使うのですか……?」
「ああ、そうだ」
「………」
「おいおい、睨むなよ。良いじゃないかそれ位。むしろこんなもので『なんでも言うことを聞く』約束を消化するって言ってるんだから、感謝はせずともラッキー位には思ってくれよ」
後から流れてくる生徒たちの視線が集まるが、そんなものは気にしない。別に敵意や侮蔑が籠っている訳でもないので、好奇心の類の視線など痛くも痒くもない。
むしろ、ティアフィールの視線が痛い。とてつもなく痛い。
綺麗な顔立ちをしているだけあって、睨まれるとそれは本当に全身が強張る程に怖いのだ。
……っていうか、本当にそろそろ止めてくれ。真面目に怖い。え、敬称略ってそんな地雷だった?
「……本当に、その『お願い』でよろしいのですか?」
「ああ」
「本当の、本当にですか?」
「……ああ」
「むぅ……。分かりました。ええ、分かりました。では様付けは止めましょう。礼さん。これでいいのですね?」
「お、おう。それで頼む」
「では、先を急ぎましょうか。集合時刻が迫っています」
「……何怒ってんの?」
「怒ってなどいませんよ?」
ティアフィールは笑顔で小首を傾げてそんなことを言った。
心臓に悪いと言うかなんというか、とにかく怖いので俺は言われるがままに再度歩き始める。
ホロ・グラフィックの落ち着いた淡い光に彩られた廊下を進む。そうしていくつもの扉を通り過ぎたところで、ようやく目的の扉が見えてきた。
「あれですね」
「1年G組。他18人はどんな人間かな」
「一般人ではないことは確かですね。文民も一体何人いることでしょう」
「それは普通に居るだろ。って言うか、ミラシェスタにいる時点で文民ではなくなった気もするんだけどね」
「それこそ世間一般的には文民の扱いですよ」
そうして、俺たちは『1年G組』の文字がホロで浮かぶ扉まで3歩というところまで来る。
「……本当に、いいんですね」
「なんだよ、今更」
すると、今度はティアフィールの気配が背後で止まる。俺も立ち止まり振り返ると、そこには先程と似ているようでまったく違った表情をしているティアフィールがいた。
同じ様に見える無表情。しかし、そこには躊躇と猜疑と、そして確固たる決意が見て取れる。
「今更ではありません。何度でも問いかけます、あの扉を潜るまでは。今なら、まだ間に合いますから」
「間に合わないとは思うけどね。……まぁ、仮にまだミラシェスタから離れられることが出来たとしても、俺の気持ちは変わらないよ。俺はここに入学する」
「……何度でも問いかけましょう。あなたの全てを偽れば、普通の幸せを手に入れることができます。そして、それはやがて偽りから本物に変わります。アイデンティティは周囲の環境によって形成される───いつもあなたが繰り返す言葉です。高校と言う新たな環境に飛び込む以上、それはどちらの道に進んだとしてもアイデンティティが変化することを意味します。だから───」
「いつになく饒舌だな、ティアフィール」
「───っ」
俺は頬が緩むのを止めようとせずに、ティアフィールの透き通った瞳を見た。口調が昔のそれに戻っていることにも気が付かずに。
「饒舌にもなります。今ここに、分岐点があるのですから」
「言ってるだろ、答えは変わらない。確に親戚共の圧力に怯えてレールを進んではいるが……その中でも最善を選んだつもりだ。悔いは無い」
「……本当に、よろしいのですか?」
つい数刻前と似たやり取り。しかしそれも、似て非なるものだ。
話は終わりだ、という意味で俺は扉までの距離をゼロにした。後ろからティアフィールの気配が再び近づいてくる。
扉は音もなく横へスライドし、その存在を空間と空間との隔たりから通路へと変える。一風変わった教室の景色が視界に広がった。
いくつかの好奇の視線が向けられる。しかし、それ以外は顔を上げようともしない者ばかり。
「……仕方ありませんね。ならば規約通り、あなたが幸せを見るその時まで付き従わせて頂きます」
「あくまでその主張を通すつもりか。ホントに頑固だな。……じゃあ、ティアフィールが幸せを見る時まで仕えてもらおうかな」
「難しいことを仰いますね」
「頑張ってくれ」
そう言って、俺たちは境界線を踏み越えた。
よろしくお願いします!