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スライムなダンジョンの閑話集  作者: 伊藤
竜騒動 後日談
14/18

ルクレティアの結婚話 「誇りある令嬢、情けない主人」 終編

「とゆーわけで。とりあえずここに捨ててくんで、あとは煮るなり焼くなりやっちゃってください。ええもう、ルクレティアさんのご自由にどうぞっす」


 全身が真っ黒いスケルが、同じく真っ黒いマギを突き出した。

 男は後ろ手に縄に縛られ、ぐったりとした様子でうつむいている。目の前の男を冷ややかに見おろしていたルクレティアが顔を上げた時には、すでにスケルはカーラとシィを連れてさっさといなくなってしまっていた。


 ルクレティアが顔をしかめる。


「……いったいどうしろと言うのですか」

「……とりあえず、ほどいてくれると嬉しいかもしれない」


 縄を打たれた男が世にも情けない声でささやいた。

 ルクレティアは大きく息を吐いて、


「お断りします」

「おい」

「なんですか、その汚れは。そんななりをした殿方になど触れたくもありません。匂いもひどいですわ。家を汚さないでください。ただでさえ小汚いというのに、汚さを汚れで覆ったところで見かけも中身もなにひとつ変わらないではありませんか」

「おい、おい。そのくらいにしとけ。泣くぞ。本当に泣くからな」

「ご勝手に。そうすれば少しはお顔の汚れがとれるのでは? ああ、床が汚れるのでやるなら外でやってくださいませ」


 辛らつな言葉を吐き、男の身体に附着した粘着質の汚れを気味悪げに見ていたルクレティアが、ふと何かを思いついて指先でそれに触れた。

 人差し指と中指でこすり、その匂いを確認する。驚きに目を見開いた。


「これは――歴青ではありませんか」 

「歴青? なんだそれ」

「塗装や、建材の接着に使われているものです。重く、粘りついた液状の。地下深くで作られるらしいということくらいしか知りませんが……。これをどちらで手に入れたのですか?」

「手に入れたっていうか、地下の掘削中にそういう場所にぶち当たったらしいな。変なガスも出てたみたいで、とりあえずは大慌てで塞いだみたいだが」


 男の説明に、ルクレティアは口元に手をあてて思案顔をつくる。

 ぬめった泥のようなものを全身にまんべんなく張りつかせたマギが首を傾げた。


「なんだ、なにか使えそうなのか」

「可能性は。あそこの地下にこんなものが眠っているとは思いませんでした。いずれにせよ、どういう成分か詳しく調べてみる必要はあるでしょうけれど」

「ああ、そうだな。――で、そろそろ縄をほどいてくれると嬉しいんだが」


 ルクレティアは嫌そうに顔をしかめ、渋々といった様子で男に手を伸ばした。

 黒くぬめった縄をつまんでほどきにかかる。粘着質の液体がこびりついて、ひどく解きにくくなっていた。


「ばっちいものを触る手つきはやめろ。なんか有用なのかもしれないんだろ」

「汚いものは汚いのですから、仕方ありません。……この汚れ、服についてしまったらとれないかもしれませんわよ」

「マジかよ。一張羅だぞ、これ」

「擦り切れるまで使い古されたローブのなにが一張羅ですか、馬鹿らしい。手拭きを持ってきますから、お待ちください。部屋に汚れを落とさないでくださいね」

「わかった」


 ルクレティアが大量に持ってきた布で全身の汚れをこそぎ落とし、着ていた服を総とっかえして、ようやく人心地ついた様子で男がほっと息をついた。


「えらい目にあった……」


 呆れ果てた眼差しでルクレティアが言う。


「いったい何をしているのですか、貴方がたは」

「知るかっ。俺が聞きたいわ、そんなもん」

「地下の歴青はともかく、それでご主人様はいったいなにをしにいらっしゃったのです」

「だから知らんって言ってるだろうが。スケルに聞けよ」

「とっくにいらっしゃいませんわよ。あら、シィさん。どうされました?」


 開け放たれた窓から、妖精と、その頭の上の小人がこっそり室内を覗き込んでいた。


「中にお入りになればよろしいのに」


 ルクレティアの言葉に首を振り、じっとマギを見つめる。


「どうした? 俺か?」

「……伝言、です」


 背中の羽をこすりあわせたような声で囁いた。


「なにもしないで帰ってきたら――御飯、抜きって。スケルさんが……」

「なんで俺はそんな罰ゲームみたいな扱いを受けてるんだ。シィ、なにか知ってるか?」


 問われたシィは困った表情になり、ちらりとルクレティアを見て、またふるふると頭を振った。


「……わかった。とりあえず、シィは先に帰ってていいぞ。あ、地下の噴出騒ぎには近づかないようにな。有毒ガスだったりするかもだから、蜥蜴人も魚人族も絶対に触れないように。封印処理はノーミデスに頼んで、シィとドラ子も近づくなよ。危ないからな」


 こくりと頷いたシィが去り際、小さな声で付け加えた。


「――頑張って、ください」


 七色の鱗粉を光らせながら空を飛んでいく後ろ姿を見送って、マギが呟いた。


「なにを頑張れってんだ……」


 ルクレティアを振り返って、


「なあ、俺はいったいなにを頑張ればいいんだよっ」

「知りませんわよ」


 ルクレティアは不機嫌に答えた。


 去り際のシィの様子から、彼女は目の前の状況についてあらかたのことを把握していたが、だからこそ自分で口にするのも馬鹿馬鹿しかった。


「勝手になさってください。私は仕事がありますから、付き合っていられません」


 さっさと机に戻って仕事にとりかかる。

 筆をとって数字の計算を始めるルクレティアの前に影ができた。顔をあげると、渋い顔をした男が手のひらを彼女に突き出している。


「何の真似です」

「……とりあえず、手伝うことから頑張ろうかと」


 そういうことではないだろう、とルクレティアは言いかけた口を閉じた。言ってしまえば、まるで自分がそういうことではないことを期待しているようでひどく不愉快に思えた。


「ご主人様には、読み書きがおできになりましたかしら」

「馬鹿にすんな。アカデミーにいたんだぞ、一応」

「そうですか。では、こちらをお願いします」


 男の能力には大いに疑問があったが、やりとりを続けて時間を浪費することが一番の無駄だろうと、ルクレティアはまとまった紙の束を男に押し付けた。

 仕事の結果がずさんだったなら、結果ごと捨ててしまえばいい。始めから成果に期待していなければ、それで無駄になるのは男の時間だけだ。


「この一月の間、メジハにあるお店で消費されたものの売れ方と、仕入れです。わからないところがあれば聞いてください」

「帳簿か? なんでお前がこんなものやってるんだ。それぞれでやらせればいいだろ」


 呆れたように言って、紙面に目を通したマギが顔をしかめた。


「……これ、やけに項目がややこしくないか?」


 帳簿というのは金銭のやりとりのことだから、別に店を営んでいない家庭でも家計簿という形で関わりがある。

 町外れの洞窟に巣食う魔物の一党でも、急に人員が増えたこともあり、しっかりと金銭の管理をしていく必要が出ていた。地下の二種族も含めた金銭事情については、不定形の生き物がまめに家計簿をつけて管理している。


 自分のところのそれならマギにも見たことはあったが、それはおおざっぱに言って収入と支出が全てだった。今ある金額から足して引いて、残っているのは幾らということになる。


 だが、渡された紙に書かれた数字は二種類ではなかった。

 資産、負債。それ以外にも聞きなれない単語が並んでいる。


「単純な収入と支出というだけでは、その金銭がどういう理由で動いたかまでは把握できません。生きるために必要な食料を買って減った金と、次の商いの用意に使われた金。借金の返済にあてられた金では、それぞれの持つ意味合いがまったく異なるはずでしょう。そこにあるのは、よりわかりやすく経済の実態を掴むための項目分けです」

「経済ねえ。王都の学士院ってのは凄いんだな、そんなことまで教えてるのか」


 まさか、とルクレティアは肩をすくめた。


「そういう帳簿のつけ方があると、他国の商人の方から聞いた覚えがあるだけです。細々とした金の管理手法など、お偉ぶった貴族が学ぼうとするはずがありませんでしょう」

「……お前だって、その貴族のなんちゃらだろう?」


 男の遠慮がちな問いかけに、ルクレティアはちらりと相手を見てすぐに机に視線を落とし、


「こんな田舎に都落ちをしている時点で、肩書きになんの意味があります。必要なことは自分でやるだけです」

「どうして町の連中にやらせないんだよ?」

「文字も読めず、釣り銭の計算さえ適当にすませてきた町の方々に、いきなりやれと言ったところで、はいそうですかとはならないでしょう。指導するのにも、そうしたやり方のほうが楽だという実感が伴わなければ彼らは従いません。上から押し付けても反感を買うだけです」

「で、その実感とやらが出るまで、お前が全部やろうっていうわけか」


 信じられないという表情でマギが頭を振る。

 メジハは小さな田舎町であるとはいえ、その一つ一つの店の帳簿をたった一人で肩代わりするのは尋常な手間ではなかった。


「別に、自分の為ですわ。この町でどんなことができるかを考えるのには、まずこの町の現状を正しく知らなければなりません。どの程度の経済規模かを把握しておきたいのです」


 はあ、と男が感嘆の息を漏らして、


「凄いな。いや、嫌味じゃなくて」

「お褒め頂きありがとうございます」


 にこりともしないまま、ルクレティアは自分の仕事に戻った。

 どすんと腰をおろす音に顔をあげると、マギが客用のテーブルに腰掛けて紙の束とにらめっこを始めている。


「……無理してなさる必要はありませんわよ」

「とりあえず――金だろうと物だろうと、全体の数字があえばいいんだろ? ちょっと面白そうだからやらせろよ。他の誰かに手伝わせるのにも、カーラやスケルはこういうの苦手だろうしな。どっちかといえば俺は嫌いじゃないし。ていうか好きだ」

「確かに、部屋にこもって物書きしている方がお似合いですわね」

「手伝わせといてその言い草か」

「別に私から頼んでいるわけではありません」


 再び机上に目線を戻したルクレティアに、ふん、と男の鼻息だけが届いた。


 しばらく無言のまま時が流れてから、ルクレティアがふと沈黙が気になって相手の様子を窺うと、男は渋面で紙を睨みつけている。

 その表情は確かに、本人が言っているようにどこか目の前の難題を楽しんでいる雰囲気だった。


 じっとその横顔を睨みつけるように観察し続けてから、ルクレティアは相手に聞こえないよう小さくため息をついた。


 ――結局、こういう人物なのだ。


 細かな計算をして帳尻をあわせることや、そういった類の地道な行いを疎まずにコツコツとやるのが、目の前の人柄にはひどく相応しかった。

 魔物の一党を率いるような器量ではないし、それは本人も自覚しているだろう。


 だが実際には男は彼女を呪印で従え、洞窟には他にも彼に従う女達がおり、その地下には蜥蜴人族や魚人族も男の傘下に加わっている。地上最強の生き物である竜からも何故か覚えよく、近くの森に住む妖精族と関わりを持つことにも成功していた。


 望めば一国程度は楽に支配できてしまいそうな、少し野望のある男なら喜んで暴走しかねない現状と、男自身の望む在り方は、はなはだしく乖離してしまっていた。


 そして、その状況を作り出したのが男の傍に控える不定形の生き物。

 男が望み、作り出した。男に望まれ、作り出された――その両者の差にあるものがルクレティアには気にかかった。


 それは男の為などではない。

 なによりまず、ルクレティアが男を利用しようとしているからこそ、その障害となるものについて考えるのは当然だった。


「……ご主人様」

「なんだよ」

「ご主人様はいずれ、結婚されるお考えはないのですか」

「俺が?」


 びっくりした表情で顔をあげて、


「あんな洞窟に住んでる外れ者に、嫁に来てくれる相手なんていないだろう」


 男は本気で言っている様子だった。


 ――だったら、あんな洞窟から出て町に住めばいい。

 ――カーラのことをどうするつもりなのか、この男。


 ムカムカと二人分の怒りを抱いてルクレティアは立ち上がり、男の前に山のように書類を積み上げた。


「なんだよ、これ」

「お好きということでしたから。どうぞ存分にお励みください」

「いや、好きにも限度があるっていうか。どう考えても夜までに終わる量じゃないんですが……」


 抗弁しようとする相手に、ルクレティアは冷ややかな笑みを向けた。


「どうせ今夜は帰るところなどおありではないのでしょう。納屋くらい貸してさしあげますわよ」


 それとも、と続ける。


「こちらの部屋にお泊りになるということでしたら、そのように取り計らいますけれど」


 返事に窮したマギが顔をしかめる。

 男が動揺を表すのを楽しむように、ルクレティアは超然と見つめ返した。


 ◇


 翌朝。

 ルクレティアが朝食に向かうと、食卓では彼女の祖父が気遣わしげな表情で既に席についていた。


「お爺様。おはようございます」

「ああ、おはよう。ルクレティア」


 いつもの挨拶をかわして椅子に座るルクレティアへ、祖父がそわそわとした視線を向けて、


「昨日は遅くまで起きていたようだが」

「はい。少し済ませておきたい仕事をこなしておりましたの」

「そうか……うん。あまり、無理はしないようにな」

「はい」


 堂々とルクレティアが応えるのに、祖父がなにか言いたげな様子で視線を彷徨わせる。

 テーブルの近くに控える女中と目線をあわし、無言の会話と確認をとるのを気配で察して、ルクレティアはそれに気づかない振りをした。


「ルクレティア」

「なんでしょう、お爺様」

「ああ、その。なんだ。お客が来ていたようじゃないか。お前が前、体調を崩していたときに世話になった、町外れの――あの人は呼ばなくても平気なのかね」

「疲れているようで、まだお目覚めではありませんでした。食事は後で運ばせようと思います」

「そうか。疲れているなら、仕方ないな」


 ルクレティアの祖父は歯切れ悪く頷くしかない。


 結婚前の孫娘が男を一晩、自分の部屋に泊めたのだから、そうした反応は仕方がないものだった。

 本来ならどういう間柄か問い詰めたいところだが、マギはルクレティアが以前、狂を発しかけたところに薬を煎じてくれた相手ということになっている。失礼をするわけにもいかないし、あるいはまた薬の処方を受けなければならないような事態なのかという心配もある。


 祖父の接し方が腫れ物に触るように慎重なのはそういう理由があったからで、そうした心情の機微をルクレティアははっきりと理解していた。


「お爺様」

「なんだい、ルクレティア」

「昨日のお話についてなのですけれど」


 ルクレティアがさりげなく切り出すと、祖父は慌てた様子で首を振り、


「ああ、そのことか。それなら、別に急ぐ必要はない。まずはゆっくり、そうだな。お前の仕事が落ち着いてからでも問題ないだろう」

「そうですか? かしこまりました。お爺様のお言葉どおりにいたします」


 傍目からはまったく理想的な孫娘の態度を取り繕って、ルクレティアは小さく首をかしげさせて微笑んだ。


  

 部屋に戻ると、テーブルに突っ伏した男を覗き込むように、薄青い半透明の物体が佇んでいる。


 ルクレティアの気配に気づき、振り返ってにこりと微笑んだ。

 同性のルクレティアさえぞっとしかねない、妖艶な微笑を浮かべた不定形の生き物が、濡れた声で囁く。


「――食べちゃわなかったんです?」


 後ろ手に扉を閉め、ルクレティアは肩をすくめて歩き出した。


「食事なら、たった今すませてきたところです」

「はぐらかすなんて、ルクレティアさんらしくないですね」


 くすくすと不定形が笑う。


「私がマスターのご命令で外に出ていた隙に、どうして手をだされなかったんです? チャンスだったじゃないですか」

「……チャンスですって?」


 ルクレティアは立ち止まり、


「ご冗談を。どうしてこの私が、そんな泥棒猫のような真似をしなければならないのですか。無警戒に寝ている相手の操を奪うくらいなら、その前に貴女やカーラに宣言して、頬を張って目を覚まさせ、それから堂々と奪ってさしあげますわ」


 顔をしかめて吐き捨てた。


「それで、結婚話の牽制に、マスターを使うだけにしたんです?」


 当然のように言われ、ルクレティアは内心で驚きながら、自身の動揺を皮膚の下に抑え込んだ。


 昨日の朝、そして先ほどのやりとりについて、どうして目の前の相手が事情を把握しているのか。

 精霊を取り込み、尋常ではない能力を得たとはいえ、本人が言ったようにその場にはいなかったはずなのに。


 不在にしていたというのは嘘だったのか、あるいは遠くにいながら事態を掴むことすら容易だというのだろうか。

 ルクレティアには判別がつかない。目の前の相手、その能力には、まるで限界というものが見て取れなかった。


 ――不定形という在り方。


 表情を凍らせたルクレティアが睨みつける。

 その彼女の目の前では、精霊の姿に似てまったく異なる生き物がゆらゆらと穏やかな笑みを揺らしていた。


「怖い顔しないでください。ルクレティアさんがご自分の事情にマスターを使ったからって、怒ってなんかいません。むしろ、とっても可愛らしいと思いますし――私のマスターにひどい悪さをしない限り、大抵のわがままは許してあげます。そのほうが、マスターも楽しんでいただけると思いますから」


 まるで自分こそが主であるかのような口振りだった。


 言いながら、仕事で徹夜を明かして力尽き、突っ伏したまま眠る男の頭を優しく撫でつけている。

 その動作が、他人の目から見てもはっきりと思いやりと、そして愛おしさに満ちていることに、ルクレティアは吐き気にも近い感情を覚えた。


「ご主人様をお連れになるのでしたら、お好きにどうぞ。眠ったままでも、町の人間に気づかれないくらいは貴女になら簡単でしょう」

「そんなことしたら、マスターががっかりするじゃないですか。目が覚めたら、ルクレティアさんのお部屋だからこそ楽しいのに。私が、マスターの楽しみを奪ってしまうようなことをしちゃうと思います?」


 肩を揺らし、それから名残惜しそうに男から手を放す。


「お昼前くらいにまた来ます。ついさっき戻ったところだったんで、顔を見たかっただけなんです」


 とぷりと家の床に半身を埋没させる相手に、ルクレティアは半ば無理やりに口を開いた。このままでは、言い負かされてしまった気分だった。


「……血の匂いがしますわよ。お迎えに来るなら、水でも浴びてからにするべきでしょうね。いくら鈍くとも、ご主人様もお気づきになるでしょう」

「そうですか? 今のまま、マスターに可愛がっていただきたかったんですが――ふふー。でも、そういうのはまだ、マスターには刺激が強すぎるかもしれませんね」


 最後まで余裕のある態度のまま、不定形の生き物は姿を消した。


 いや、消えたのは姿だけで、実際には目も耳も残したままかもしれない。

 それがただの考えすぎであったとしても、あの不定形の存在が、もはやそういった類のものであることは間違いなかった。


「――化け物」


 ルクレティアは忌々しげに呟いた。


 例え相手に聞かれてしまっていようと関係ない。

 それは彼女にとって宣戦布告にも等しい、決意の表明だった。


 まったくおぞましい、底の見えない化物が相手であろうと、負けるわけにはいかない。

 それはもちろん目の前で暢気な寝息を立てる男のためなどではなく、全て自分自身のためだった。


 彼女は人間の身であり、この世の中にはとても叶わない存在がいることも、個人ではどうしようもない状況があることも理解している。

 だからこそ、自らにできる限りのことを、自らの力で成し遂げることこそが、ルクレティア・イミテーゼルの本懐だった。


 結婚。男。将来の展望。

 そのどれか一つなどとけち臭いわけもなく、それら全て。


 胸に奴隷の烙印を押されようと、彼女の傲慢な志はまったく輝きを失っていない。


「……負けません。貴女がたの誰にも。必ず全て、私の思い通りにしてさしあげます」


 今はその場にない何者かへ向けてルクレティアは口元を吊り上げ、苛烈なまでの眼差しを放った。



                                       誇りある令嬢、情けない主人 おわり


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