ルクレティアの結婚話 「誇りある令嬢、情けない主人」 中編
男が去った後、部屋には真っ白い少女が残っていた。
まだ何かあるのかというような疎ましげな眼差しを部屋の主から向けられ、力の抜けた笑顔でぱたぱたと手を振る。
「あっしとご主人が一緒に町中をうろついてちゃ目をひいちゃいますし。ちょいと時間をつぶさせてもらってもよろしいですかい?」
「外に出て、それぞれ別に向かえばよろしいでしょうに」
ルクレティアはため息をつき、相手の前に置かれた皿が空になっていることに気付いた。
「ああ、いやいや。菓子のおかわりが欲しいだとかあつかましいことは言いやしませんから、おかまいなく。もちろん、もらえるってんなら喜んで頂きますがっ」
「そうですか」
「そうっす! ……で、おかわりはもらえるんでしょうかね?」
「……欲しいのなら、最初から欲しいとそう言ってください。面倒な」
廊下まで出向いて使用人に言伝る。追加の菓子が暖かい紅茶と共に部屋に持ち込まれてから、令嬢は仕事に戻った。
机には複数の書類や書きつけが散乱している。
羽筆をとりさらさらと書き連ねる令嬢を長椅子から見やり、スケルが感心するように口を開いて、
「忙しそっすねー」
「そうではなく、忙しいのです。気が散りますから話しかけないでいただけますか」
「ふぁいふぁ」
こもった声に顔をあげ、ルクレティアが細く整った眉を吊り上げた。
「横になって物を食べないでください、行儀の悪い」
だらしない格好で菓子を頬張っていたスケルがぱちくりと瞳をまばたかせる。
「む、うむぅ……ふぐ。さすがルクレティアさん、厳しいっす」
「厳しい厳しくないではありません。いったい、あちらではどのような生活をなさっているのです」
「洞窟ですかい? まあ、だら~とした感じですねぇ」
右手の菓子をたいらげてから、改めて長椅子にごろんと横になる元スケルトンの少女。手を拭きもしないままだったのでルクレティアはさらに眉の角度をあげたが、それを口にはしなかった。
かわりに別の言葉を吐く。
「家人の作法は主に拠る、という言葉をご存知ですか」
スケルが大きく頷いた。
「ようするにご主人が悪いってことっすね。間違いありませんっ」
「……もうよろしいですわ」
呆れて仕事に戻りかけるルクレティアに、だらりと伸びきった格好のままでスケルが続けた。
「なんでしたら、ルクレティアさんもこちらにいらっしゃったらいかがです? そうすりゃあ、洞窟の雰囲気も少しは引き締まるかもしれません」
「――どうして、私がそのようなことをしなければならないのです」
再び顔をあげた表情はひどく不機嫌になっている。
別に理由があってその話題を振ったわけではなかったから、スケルは相手の反応に驚いて目を瞬かせた。
「や、なんとなく言ってみただけなんで。気に障ったんならすみません」
ぺこりと素直に頭をさげる。
そんな風に相手から謝れてしまえば、ルクレティアも自分の反応が大げさであった自覚があったから、あいまいな態度になってしまう。
「……いいえ」
よく手入れの届いた金髪を腰まで流すルクレティアと、やぼったく伸びた髪を始めとして全身が真っ白いスケルが共に沈黙した。
生まれ育ちも見かけも大きく異なる二人は、どちらも同じ男の傍にあるが、今まで特に親しくしてきたことはなかった。
彼女を辱めた不定形の生き物、あるいは彼女の両親を殺した人狼の血をひく少女とは違い、特に因縁があるわけでもない。だからといって仲良くする理由もなかった。
そもそもが、ルクレティアは他の女達と交流を持とうとなどと思っていない。
嬉々として男に仕える輩と馴れ合いたくないという気持ちもあったし、彼女がその男を篭絡しようとしているとなればなおさらである。
かといって、そうした自身の態度を周囲に隠そうとするのでもなく、
「さっきのはただの思いつきですが。ルクレティアさんとも、もう少しお話できたらなぁとは思ってるのはホントっすよ。せっかくですから、仲良くなりたいじゃないっすかー」
「別に仲良くする必要などありません。そもそも、女同士で仲良くするという理由がわかりません。一人の男の周りに複数の女がいれば、互いに憎みあっている方がよほどそれらしいというものでしょう」
ルクレティアは真っ向から言ってのけた。
「そういうのも嫌いじゃありませんねー」
白い魔物の少女がからからと笑う。肘掛けに頬杖をついて楽しげに、
「だったらなおのこと、洞窟にも顔を見せた方がよろしいんでは? 引きこもりのご主人が泊まりにくることなんか見込めませんぜ。それじゃあ、いくらルクレティアさんでもたらしようがないでしょう」
ストレートな物言いにルクレティアは眉をひそめる。
「騒動でも起こればいい、とでも考えているような台詞ですね」
「騒がしいことはいいことっすよ」
心から平和を享受する表情でスケルは言った。
「なにせ、ついこの間まで洞窟にいるのはご主人と自分と、あとはスライムか蝙蝠の群れくらいでしたから。もう暗いのなんの! それが今じゃあ、カーラさんやシィさん、蜥蜴人族に魚人族なんて大所帯っす。幸せっていえば、これ以上はありません」
「それは貴女にとっての幸せですか? それとも、ご主人様の」
「どうでしょう。まあ、大望なんかよりちっちゃな幸せにひたりたいって願望なら、ご主人も大して違わないでしょうね。なにせ、ちっちゃい器ですから」
「そうでしょうね」
ルクレティアは首肯して、けれど、と鋭く小さな口調で続けた。
「私は、家族ごっこをしたいわけではありません」
辱めを受け、呪いまで受けたうえで隷属させられた挙句、そんなぬるま湯に浸からされてはたまらない。
ルクレティアの発言に、スケルはのんびりとした表情のまま穏やかに笑みを揺らせて、
「そうっすね。いや、すみません。自分の希望っていうだけで、押し付けようなんざ思ってないんで。ただ、」
「ただ?」
「ご主人はああいう性格っすからね。周りから言われないと、ホントどうしようもないんですよ。ルクレティアさんには是非、これからもビシバシと鍛え上げて欲しいと思ってる次第でして」
「そんなことを頼まれても困ります。貴女やカーラ、それかスラ子さんがやればよろしいでしょう」
「カーラさんがご主人を好いてるのはもちろん存じてますが、どっちかっていうと一緒に頑張るって感じですし。自分はまあ、こういうあれなんで。スラ姐の場合は――」
そこで言葉を区切り、スケルは苦笑に近い表情を閃かせた。
「なかなか難しいでしょうねぇ」
ルクレティアはちらと視線を送って、目線を外し、
「今のご主人様の立場をつくったのは、ほとんど全てがスラ子さんのおかげでしょう。それなのにですか?」
あえて素っ気ない口調で告げた。
「スラ姐は、ご主人を否定しないでしょうよ。ホントの意味で怒ることも、叱ることもありませんよ。ご主人の望みを叶えるために生きてるみたいなもんですから」
ルクレティアはスケルを見た。
白い少女はいつの間にか表情から笑みを消して、何かを思い煩うような顔つきになっている。
相手の表情をしばらく観察してから、
「つまり、スケルさん。貴女はそれではよくないと思っているわけですか」
「おや。なにやら誘導されちゃってますか」
スケルは笑って肩をすくめた。
「まあ、あんまりよろしくはないんじゃないかなあとは思います。あの二人の関係はちょっとばかし、特殊ですし」
「……特殊どころか、危険ですわ」
そっと吐き捨てるようにルクレティアは囁いた。
「どうしてあのようなおぞましい生き物が、自我と形をたもっていられるか。ご主人様の存在がその理由だとするなら――。いつかご主人様は、あの生き物にとり殺されてしまうでしょう」
「あのご主人のことっすから、それでもいいなんて考えちゃいそうですしねー」
「冗談ではありません」
はっきりと怒気を含めて、ルクレティアは長い金髪を振った。
「人のことを手下にしておきながら、女一人に身を崩すなどと。誰が許しても、この私が許しません」
「しかしながら、相手はあのスラ姐。色んな意味で強敵すぎますが」
スケルはにんまりと微笑んで、
「一人で勝てないなら、いっそ徒党を組んで相対でもしてみましょうか?」
「……そちらも、冗談ではありません」
上昇しかけた感情を落ち着かせて、ルクレティアはかけられた挑発の言葉を受け流した。
「馴れ合うつもりはありません。カーラだけでなく、スケルさん。貴女ともです」
「それでこそルクレティアさんっすねぇ」
スケルは嬉しそうに肩を震わせた。
「まあ、なにかあれば言ってくださいな。ご主人には、これからも苦労してもらわないとですし――なにより、ご主人が生きていられるようにね。とりあえずそっちのことでは、スラ姐だろうとカーラさんだろうと、自分は中立でいるつもりなんで」
「貴女はそれでよろしいのですか。被創造物と創造主の間にある感情は、好悪とは別ではあるのでしょうけれど」
「そりゃこんな風に生身の肉体をもった以上、あっしも時には愉しませてもらえたらなぁとは思ってますが。それともルクレティアさんは、相手を独占できないと許せないタイプで?」
皮肉や嫌がらせではなく、素直な疑問の聞き様にルクレティアは顔をしかめて、
「魔物社会では知りませんが、人間は、男女が一対一で家庭を築くのが一般的なのです。それが結婚というものです」
「なるほど。……結婚です?」
戸惑ったようにスケルが頷く。
自分が飛躍した単語を持ち出したことに気付き、ルクレティアはわずかに頬を赤らめた。
「なんでもありません。――もう時間潰しは十分でしょう。そろそろ行かれてはいかがですか。私も仕事に戻りたいのですけれど」
「やや、これはつい長居しちゃいましたね。んじゃ、あっしはこれで」
半ば強引に話を打ち切られたことを不思議そうに、それでも素直にスケルが部屋から出て行く。
ようやく一人になったルクレティアは、するつもりもなかった長話の疲労をため息一つで意識の向こうに追いやり、再び机に向かって仕事を再開させた。
「――――」
静まり返った室内にさらさらと筆を流す音が響く。
しばらく仕事に没頭しかけていたルクレティアが、ふと何かを思い出した表情になり、力加減を誤って筆先が折ってしまい、舌打ちした。
部屋から追い出されたスケルは、のんびりと町中を歩きながらルクレティアの表情を思い出している。
元スケルトンの彼女は、周囲から何事にも適当な印象を持たれてはいたが、決して他人の心の機微に疎くはなかった。
ルクレティアが最後に垣間見せた態度。常に理知的な女性が持ち出した、いささか唐突な単語とその後の反応にはなにか理由があるはずだった。
――結婚?
人間と魔物では社会体系が異なる。社会の最小単位である家族の在り方も当然異なり、一夫一妻だけでなく一夫多妻や多夫一妻、多夫多妻など様々ではあるが――それがどうして、先ほどの会話に繋がるのか。
空を流れる白雲を追いながら、左右に頭をひねって考え込んだ真っ白い少女の脳裏に突如として天啓が降り注いで、
「まさか……ルクレティアさん、結婚を!?」
スケルが辿り着いた内容は、理屈や筋道ではなく全くの勘から導き出されたもので、だからこそ彼女は迷わなかった。
実際にそれは正答とは言わずとも、そこからごく近い距離にあったのだが、
「こいつはとんだ一大事! すぐにご主人に伝えネバー!」
慌てて駆け出していく表情は、例え彼女がその時の言動を後から言い繕おうと、目の前の事態を全力で愉しもうとしているようにしか見えない。
ようするに、はた迷惑なものだった。