川辺の華(はな)
歩いて渡ろうとすれば、誰もが止めるだろう川があった。それほど深いわけでもない、普通の大人の腰が浸かるくらいか。それほど幅が広いわけでもない、大人の足で二十歩ぐらいか。ただ、流れの早さだけが尋常でなかった。
その川には、橋が架かっていた。かなり大きな橋だった。橋の上は、いつも人通りが耐えなかった。橋は、川とその広い川原をすっぽり包んでいた。
川原に、一人の女が立っていた。髪の長い女だった。ここ二、三年ほど鋏を入れていないような、しっとりと光る髪だ。肌の色の白さと漆黒の髪が、どこか不安定な様子を醸し出していた。女は、白い着物を着崩していた。着物ではない、何かもっと別の物のように見えた。女は、裸足だった。傷だらけの足をしていた。
女は、毎日、日暮れ頃になると川原にやって来た。その理由を(わけ)を尋ねれば、おそらく女は、こう答えただろう。
「お母さんが、出してくれないの」
川原で、女は、いつも唄っていた。
ーーわたしが 泣くのも
わたしが 踊るのも
わたしが 傷つくのも
新しい 生命のためなの
あのひとが教えてくれた
なみだ あせ ち
すべて 新しい 生命の 種になるの
細い、透き通るような声だった。
橋の上を通り過ぎていく人々は、女の方を
見ようともしない。時に視線を向けることがあっても、困ったような顔をして、また前だけを見つめて行くのだった。
西の空に、光が落ちた。
橋を渡っていた人々は、またかと顔を歪めた。光が落ちるのは、日常のことになっていた。明日は、自分の上に落ちるかもしれない。仕方がないさ、誰もがそう思っていた。
けれど、その日から、女は泣くようになった。
「光の下で、生命が消えていくわ。だから、種を蒔くの。この川が、海へ運んでくれる」
そう言って、女は泣き続けた。
光は、一日に幾つも落ちるようになった。
人々は、出歩かなくなった。どこにいても、同じだから。誰もが動く気力を無くしていた。
けれど、涙の涸れた女は、踊るようになった。
「あのひとが、言っていたもの。汗も、生命の種だよって。だから、踊るのよ」
女は、狂ったように踊り続けた。
光は、落ちなくなった。光を作るものが、なくなったのだ。
橋を渡って、人々は、まだ恵まれた土地を目指した。
ひとときの、平和。光は、また戻ってくる。誰もが急いでいた。
女は、川原から動かなくなった。
「お母さん、何も言わなくなったの。じっとして、動かないし、なんだか冷たいの。だから、わたし、ここであのひとを待つことにしたの」
と、女は微笑んだ。
赤い軍服を着た男が、橋を渡りかけた。
「!」
女が、叫んだ。
男は、女を見た。
「わたし、唄ってたの。光が、生命を奪ったりするから、わたし、泣いたわ。涙も涸れてしまって、踊ってたのよ。でも、足が動かなくなっちゃったの」
女は、男の方へ手を伸ばした。橋の上へ引き上げてくれとでもいうように。
男は、女に石を投げた。
石は、女の左頬をかすめていった。 女は、そっと頬に手を当てた。その手を見ると、赤いものが付いていた。
男は、どこかへ歩き去った。
「まだ、もうひとつ、することが残っていたのね」
女は、にっこりした。
「あのひとも、血の服を着ていたわ。わたしに、教えてくれたのね」
女は、両手一杯に川原の石を集めた。その石に向かって、いとおしそうに微笑んで、
「ちゃんと、落ちてきてね」
と、つぶやいた。
女は、自分の真上に石を放り投げた。
そして、何度も同じことを繰り返した。
石が、女の身体を裂くたびに、
「そうよ、そうよ、いいこね」
女は、笑った。
「涙と汗の次は、血よ。新しい、生命のためなの」
今では。誰もが、女を振り返った。拾っては投げ、拾っては投げ、自らの上に、石の雨を降らせる女を。
滔々と流れる川べりに、真っ赤な華が、目を奪う。