お出かけ店主。
少し離れた所で、大きな音が響いている。
それに、長い髪の毛を後ろでゆるく結った、浴衣姿の男が耳をそばだてた。
「始まりましたねぇ」
穏やかな笑顔でそう言った、端整な顔の柔和な雰囲気の聖堂店主は、すいと立ち上がって、紫の暖簾を揺らして表の路地に出た。
店内にいる時よりも、大きくなったその音に、腕に抱かれていた黒猫が耳をピンと立てて方向を確認するような顔をする。
「お前も見たいですか?」
優しく微笑んだ店主は黒猫の喉元をくすぐりながら、そこにある銀の鈴を揺らした。涼やかな音で答えた鈴と、目を細めて気持ち良さそうにしている猫の表情を見て、そのまま視線を町屋の屋根に向けた。
瓦屋根のむこうの空が、ほんのりと明るくなったり暗くなったりしている。その明るさは、赤だったり緑だったり、黄色だったり、月と星が仄かな光を灯す夜空に、同じ間隔で映る光は、ふわっと咲いては消える花のような温かみを持ち合わせていた。
「でも、お前は音に驚いてしまうでしょうね…」
眉間に、困ったように皺を寄せて店主は黒猫に語りかける。猫も大きな瞳で店主の端整な顔を見上げて、ふいと顔を背けた。
まるで、
行きたくない。
そう言っているように。
「では、お前はどうしますか?」
店主の言葉に、涼やかな音が鳴る。それを聞いた店主は一旦店の中に戻り、黒猫を椅子の上に下ろすと目線の高さを合わせて語りかけた。
「少しの間、私に預けていただけますか?」
穏やかな声と茶色の瞳に、黒猫は考えるような顔で見つめ返す。その後、仕方なさそうににゃあと鳴いた。
「ありがとうございます」
再びにこやかな笑顔になった店主はおとなしくしている黒猫の首から、手織りの綾布を寄り合わせた可愛らしい首輪を外して、そこに付けられていた銀の鈴を綺麗な掌の中に収めた。
手早く、店じまいをする。紫の暖簾を引き込んで戸締りを確認すると、静かな裾裁きでほんのりと街灯の燈る路地を歩く。濃紺の浴衣姿が、現実感のなさを強調するようにその灯りに映し出された。
時々、子供達や大人たちまでもが、浮き足立つ様子で店主の向かう方向に流れていく。それを見ている店主の目はとても優しげな光を湛えていた。
「楽しみですねぇ。何年振りでしょうか」
つい、独り言が零れてしまう。店主自身も浮かれているようだ。それを感じた鈴が、からかうように店主の手の中で音を出した。
「お前が行きたいと言ったからですよ?…まぁ、楽しみなのは否定しませんが」
クスクスと笑い、手の中にある鈴を、片方の手でそっと撫でた。そのまま歩いていくと、徐々に空に轟くような大きさで音が鼓膜を震えさせた。
町屋を抜けた先の、視界が一気に広がる河の土手に出た店主の瞳に、色とりどりの光が溢れ出す。
夜空に咲く大輪の花。
一瞬の美しさを脳裏に焼き付けるように、音と色彩がいくつも打ち上げられては消えていく様を、店主は黙って見上げた。
豪華絢爛な打ち上げ花火に、土手に集まった人々は空を見上げて感嘆する。子供達の可愛らしい瞳にも、幼い思い出としてそれは刻み込まれるだろう。
店主も長い髪の毛を風に躍らせながら、整った顔に笑みを浮かべて空と、そこにいる人々の明るく楽しそうな様子を見た。
「これは綺麗ですね…暑さは苦手ですが、こんな素敵なものを見られるのなら、夏も悪くはないのかもしれません。花火を見たいと言ったお前に感謝しなくてはいけませんね」
からかうように言った店主に、可愛らしい声が聞こえる。鼓膜ではなく、直接脳に語りかけるような声は、店主の掌に乗る銀の鈴からのものだった。
『ありがとう』
たった一言、少し恥ずかしそうな言い方に、店主は小さく笑って、その目元を細めて答える。
「どういたしまして」
店主の頭上で、一際大きな四尺玉の花火が、あたりを照らし出す黄金色の光を夜空に放った。
ありがとうございました