雨中の追跡者
あれを忘れずに持ってこい、とのことだった。無論心当たりなどなかった。誰かと間違えているのではないかと首を傾げたが、確かめようにも便箋に差出人の名はない。応じてみる他ないと、図書室まで足を運んだ次第である。
降り止まない雨のせいか、本を広げている生徒の数は普段より多かった。教科書に向かっている後輩の頭をはたいて本の間を進むと、指定された棚はすぐに見つかった。真上の電灯が切れていて薄暗い。
適当な全集を引き抜いてページをめくる。どこかで読んだことがあると思ったら、一年の現国の教科書に載っていた小説だった。登場人物が癇に障る奴ばかりで、テストが終わった後は二度と開かずにいたものだ。
暗がりの中で流し読みをしていると、隣に人の気配が現れた。その人物も、自分と同じ行動を取り始めた。横目でちらりと見る。女子だった。
「突然お呼び出しして申し訳ありません」
彼女はひどく透き通った声で言った。
「いえ。それで俺に何か」
「あれは、持ってきましたか」
「それがわからないんで。あれって何のことですか」
しばらく答えはなかった。何かまずいことでも言ったのか。もしかして自分が忘れているだけなのか。必死で記憶を掘り返していると、彼女は静かに本を戻し、彼の方を向いた。つられて向き合った彼が固まる。ぞっとするような美人だった。
「一年前、あなたは傘を盗みましたね。私の傘を」
鈍器で殴られたような衝撃が走った。彼の意識は、一年前に立ち戻った。
高校生になって初めての梅雨、彼は罪を犯した。ある雨の日に帰宅しようとすると、間違いなく持ってきたはずの傘がない。傘立てを端から端まで調べても、小さく名前を入れた傘がない。やられた、と舌打ちをした。この時期珍しいことではなかった。
置き傘を借りればよかったのだが、彼は苛立ちを解消させることを選んだ。自分も同じことをしてやろう。そんな悪戯心に駆られた。足がつきにくいように、わざわざ上級生の傘立てから盗ってやった。どこにでもあるような、透明のビニール傘だった。
他人の傘をさしての帰り道、ふと気づく。誰かに見られているような気がする。振り返ってもそれらしい人物はいない。気のせいかと前を向くと、またしてもべったりとした視線が張り付いてくる。大勢の通行人とすれ違う中、彼はずっと得体の知れない視線を浴び続けた。家まで残り五分の距離になった時、彼は恐怖に負けた。傘を閉じ、雨に打たれるのも構わず全力で駆けた。家に転がり込んだ時の母親の顔は忘れられない。
あれは自分の良心だと思った。頭をもたげるのが、少しばかり遅かったようだ。一時の感情で罪を犯してしまった悪の自分を、善の自分は糾弾した。それはとても振り切れるようなものではなかった。元来彼は、悪に染まれない性分なのである。
明日、密かに戻しておこう。そう誓って眠りについた。
結局、傘は返せなかった。朝早く出張に行った父が勝手に持ち出し、挙句に新幹線に忘れてきた。新しいの買ってやるからと笑って言われたが、そういう問題ではなかった。自分の犯した罪は、永遠に取り返しがつかなくなった。許してくださいと、顔も知らない傘の持ち主に詫び続けた。
その持ち主が、目の前にいる。
「すみません。あれはもう」
「なくしたんですね」
「でも、どうして」
自分が犯人と知っているのだ。先を言わぬうちに、彼女は口の端を吊り上げた。体に隠れていた何かをすらりと取り出す。その正体をつかんだ時、彼は総毛だった。一年間忘却の彼方にあった、自分の傘だった。
「尾けてましたから、ずっと」
ばさりと音がした。分厚い全集が落下していた。
あれは自責の念などではなかった。降り続く雨の中で、影も見せずに自分を追いかけてくる女の視線だった。女の手には他でもない自分の傘が握られている。心臓をつかまれたような気分だった。それと引き換えにできるものを、自分はすでに失っている。
「新入生の挨拶で壇に登った時から目をつけていました。年下が好きなので。私、好きな人のことは何でも知りたい方なんですよ。彼ならこういうときどうするだろう。例えば雨なのに傘がなかったら、とか。だからこういう悪戯に走ってしまいました」
恋する乙女の顔だった。それは一瞬の後に、憎悪を孕んだものに変わった。
「君は残念な子でしたね。こともあろうに他人のものを盗んで、しかもなくすなんて。それもこの私の傘を。学年トップの秀才君ともあろうものが。幻滅させてくれるわ」
「許してください。出来心だったんです。すぐに返そうとしたんです。でも事故で……」
彼は地にひれ伏した。しゃがんでその頭を撫でながら、彼女はそっと囁く。
「挽回の機会をあげる。君にできる償いは、私を満足させることよ。汚名は返上しないとね。この傘は誠意の証としていただいておくわ。じゃあ早速、相合傘で帰宅と洒落込みましょうか」
「はい!」
威勢のいい返事を聞いた瞬間、彼女の意識に星が散った。落ちていた全集をすくい上げるように顎へ一撃、さらに空中でそれを持ち替え、強烈な振り下ろしを脳天へ見舞った。続けざまの痛打を食った彼女は、それでも傘を離さない。落ち着いて全集を棚に戻した彼は、頭を抱えて身悶える上級生を、先程とは逆の立場となって見下ろした。絶望感はどこへやら、仁王の如き形相である。
「そう都合よくいくわけないだろうが、このストーカー女。先に盗んだのはお前じゃねえか」
「……でも、その解決策として、君が窃盗を選択したのも事実、よね」
「ああ。それは俺自身の弱さだよ。認めてやる。だがな」
彼は乱暴に傘をひったくると、力任せに両手で持ち、膝蹴りを食らわせた。傘はあっけなく二本に折れた。
「てめえと相合傘なんぞごめんだ」
ぽかんと口を開けている彼女の手を取り、半ば無理矢理に立たせ、彼は大股で歩き出した。生徒たちの視線が一斉に注がれる。何事かと問いかけた後輩に折れた傘を投げつけた彼の顔は、ほんのりと赤くなっていた。
「一緒に帰るくらいはしてやるよ。二人そろって風邪ひくぞ。覚悟しろ先輩」
ごまかすように言う彼を見て、彼女は今日初めて自然に笑った。
彼女は知っている。傘を盗んだ次の日、彼が二年生用の傘立てのそばを行ったり来たりしていたのを。窓ガラスを割ってしまった子供が、謝りに行く一歩を踏み出せずにいるような光景を。彼に本当の意味で惹かれだしたのは、その時からだということを。
玄関をくぐった。雲の切れ間に光が見える。そろそろ雨も上がる頃だ。