六日目(土) ~森音~
(どれくらい、時間が経ったのだろう……。)
血溜まりに座り込んだ状態のまま、柊はふと考えていた。第一発見者だった柊は、朝、この惨状を発見して、震える手で落ちていたそれを掴み、ぺたりと座り込んでしまってから、そのままの状態だった。
榎田が入って来るまでは、何も考えられなかった。というか、榎田に声をかけられるまでの記憶が抜け落ちていた。その後、しばらくして、俊也が訪れて。何を話したかは、はっきりしなかった。まるでも頭の中に靄がかかったように、思考が働かない。聞こえる『読心』も、呼びかけられる声も、自分自身の声さえも遠くから聞こえるような錯覚。
柊には、分かっていた。
なぜそうなっているのか。
何がそうさせているのか。
(考えたら、私は、きっと壊れてしまう…。)
霞んでいたかった。
この現実を、受け入れないまま。
そのまま、果ててしまいたかった。
brr、brr、brr
だから、メールの着信なんて、取るつもりは無かった。その、遠くから聞こえるような着信。
短く三回バイブレーション。
だが。
brr
「!!!」
弾かれたように柊が顔を上げる。鳴るはずの無い、もう二度と鳴るはずの無い、四回目の着信音。唯一特別に設定した、シンからの、メールの着信音。
「っ!!!」
慌てて携帯をスカートから引っ張り出す。慌てていたせいで震える手が上手く携帯を掴めず、床に取り落としてしまう。完全に固まった血液の上に、カラリと音を立てて携帯が転がる。
「師父っ!」
涙声で叫び、携帯にすがりつき、両手でメールを開く。生きているのではないか、その最後の望みを、限りなくゼロに近い可能性に賭けて。
だが、最初に飛び込んできた文字は、無情にもその可能性を打ち消した。
件名:遺書
「あ、っぁあ…。」
柊の喉から、嗚咽が漏れる。紛れも無い、シンの死を示す証拠。シン本人が、生きる事を諦めた証。その言葉は、部屋中に飛び散った血液よりも、柊が抱えている無残に千切れた左脚よりも確かな、シンの死の証明だった。
絶望に崩れかけた柊。
その心を繋ぎ止めたのは、次の一行。
本文:私は、自分でこの道を選びました。柊さんに、『私』を引き継いでもらえると信じて。ですから、絶望してはいけません。なぜなら、私なら絶望しないからです。
絶望にぶれた柊の目の焦点が、急速に戻っていく。
説教くさくなりましたね、申し訳ありません。しかし、私は絶望して打ちひしがれて、座り込んだ柊さんなんて見たくないですねえ。いつもの、凛として毅然とした貴方の方が何倍も輝いていて、格好いいですからね。
弾かれたように立ち上がる。呆けた顔を引き締める。
(師父が望むのなら。師父が、そうだと教えるなら!)
さて、長くなりましたがここからが本題です。既にパルカちゃんが攫われてしまった後でしょうね。私が、楸探偵事務所の所長として行う最後の指示です。今日のミッションは、彼女の救出。他の事は、何も考える必要はありません。私がそうであったように、彼女を助けるための最善を尽くしてください。
力強く柊が頷く。さっきまでの様子が嘘の様に、力強く。
そして、これは指令では無く、希望です。願い、といってもいいですね。『私』の代わりを、お願いしたいのです。昔に、柊さんを助けたように、『異能』に苦しむ人達を、助ける役目を。
シンの、いた場所に。その場所を、守る、守り続けるために。
柊さんから見た『私』は、どうだったでしょうか?
恰好良かった。強く、頼もしく。ずっと憧れていた。
これからは、あなたがそうであってください。大丈夫です。あなたなら、私の事をずっと見てくれていた柊さんなら、きっと私と同じように、そしていつか私を超えてこの役割を果たせます。私が保証します。『私』を、よろしくお願いしますね。
―――私の大切な仲間にして自慢の教え子、柊さんへ
少し、ほんの数秒だけ俯く。知らぬ間に濡れていた頬を拭う。
そして顔を上げた時には、もう、その面影はなかった。
強い意志を秘めた瞳と、引き締まった表情。
シンの求めた、凛として毅然とした柊の姿。
柊蓮は、こうして、覚悟を決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「くっそ、パスワードっつったら愛する人の名前だろうがよ…。その辺は抑えといてくれよなダンナ…。」
榎田涼は、行き詰まっていた。
覚悟を決めてからの彼の行動は、迅速だった。彼の事務所の予備パソコンの中から見つけ出したデータファイル。フォルダ名、「決戦」。間違いなくこれだった。他のPCからは見つからなかったことからも、これが重要な、今こそ必要なフォルダだという事が分かる。
だが、パスワードが設定されていた。
「ちっくしょー。どうするんだってばよ…。」
幸い打ち込み回数制限は無かったので、思いついたものを片っぱしから打ち込んでいくが、どれも当たらない。当然、パルカの名前は一番に打ち込んだ。
♪♪♪♪~♪~♪~♪ッ♪♪~!
「んあ?メール?」
某有名ゲームのレベルアップ音が流れる。俊也ならば超反応しただろうが、この場には彼一人だし、ツッコミを入れる人間は存在しない。
頭を抱えたままで、片手で携帯電話を操作して、メールを開き、
「っ!」
絶句し、
「ははっ!はははっ!…傑作だぜ。」
笑いだした。
画面には、開かれたメール。
件名:遺書
本文:君には余計な励ましなど不要でしょうね。パスワードは、「Parca」。ローマ神話、運命の女神の名前です。君の事だからパルカちゃんはPalkaで打ち込んだんでしょう。では、事務所をことをよろしくお願いしますね、新所長。
言われた通りに打ち込んだフォルダの中には、『姓無』の考察や森羅電気の予想見取り図と『新兵器』の詳細、そして、事務所の詳細。
「そうかよ、丸投げかよ。…だが、それも、悪くない。なあ、レン。」
笑いを噛み殺しながら、音も無く後ろに来た柊に、唐突に声をかける。
「……良く分かったな。」
「分かるさ。そんなバリバリの闘志を放ちまくってたらな。行けるか?」
「当然。作戦を説明してくれ。」
「ははっ。やっぱレンはこうじゃなくちゃな!」
向かい合い、ニヤリと笑う。
二人の闘志は、最高潮。
今なら誰にだって負ける気がしない。何だってできる。シンの予想は、欠片も間違っていなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あ、ああ…。」
件名:遺書
本文:逃げるのなら、私は止めません。流石に私も死んでまで脅迫はできませんしねー。
なんだよ。なんでそんなにあんたは呑気なんだよ。てかあんたもう死んでんじゃねーかよ。
あなたは確かにヘタレです。拳銃だって避けられる程には強くなりましたが、それでも弱いままです。ヘタレのままです。
分かってるよ、そんな事。いちいち言われなくても、俺が一番。
まあ、言わなくてもあなたが一番分かってるでしょうが。
……。
ははは。
…死人に腹たったのはこれが初めてだよこの野郎。一瞬でもあんたに同情した俺が馬鹿だったよ。というか、そんなに俺をからかうのが楽しかったのかこいつ。
まあ、楽しいですが、いいんですか?それで。あなたは、強くならずに。妹に守られ、下らないことで虐げられて。なにより、自分自身を蔑んで。
いやだよ。嫌は嫌だが、これはそう簡単に変えられるもんじゃねーだろ。
変えられるんですよ、今。もう、今しか無いでしょうね。今なら、簡単な事で変えられます。私が、そうなるようにこの一週間で育てましたから。
…。お前はわしが育てた、かよ。
下らない事は言いません。必要なのは、「覚悟」だけです。
………。
このまま、何も知らずに妹と共に死ぬか。それとも、「覚悟」を決めるか。
……………。
一週間。もし、この一週間が、楽しかったなら。少しでも私達に、共感していただけたなら。そして、もし、こんな私の願いがかなうならば。
―――運命から、パルカちゃんを、助けてください。よろしくお願いします。
分かったよ。分かりましたよ!やればいいんだろうやれば!
俺はお前が大っ嫌いだ!!!ツンデレだか何だか知らんが、お前は大嫌いだ!!!
でも、でもなあ!
楽しかったよ、認めるよ!!!この一週間、ホントに楽しかったよ!!!共感したよ、あんたらの、好きな人を守ろうとする姿に!!!憧れたよ、あんたらの生き方に!!!
なりたい、と思ったよ、そんなふうに!!!
だから、だから!
件名:無題
本文:今日も帰れない。済まないな。ありがとう。
妹への返信を打つ。
件名:無題
本文:ありがとう、ルリさん。でも、ごめん。俺、覚悟、決めたから。だから。ルリさんに、助けてほしい。お願いだ。一緒に、戦ってください。
ルリ女史への返信も、続けて打つ。
そして、顔を上げる。
ぐしゃぐしゃになった顔をあげて、前を見つめる。
変えるべき、運命を、未来を見据えて。
♪~♪♪~
先に返信が来たのは、ルリ女史。メールの文面を見て、ふっと笑う。
件名:無題
本文:分かりました。私は、俊也さんと一緒ですから、俊也さんが覚悟したなら、私も覚悟します。助けあって、支え合いましょう。私の出来る事なら何でもします。遠慮なく言ってください。何をすればいいですか?
ははは…。
これで、もう逃げ道は無いな。啖呵切っちまったからには、逃げらんねえしな。やるっきゃねえよな。ここに来てまだ逃げ腰の俺は、やっぱりヘタレだな。
♪~♪♪~
若干遅れての着信の電子音は、我が妹。流石にルリ女史はタイピング速ええんだな。
件名:無題
本文:何かあったんですか?ありがとうって?
見た瞬間、やっぱり笑ってしまった。情けない泣き笑いだが。やっぱりお前は、俺には出来すぎた妹だよ。このメールの文面だけで察するなんてさ。そんなこと出来んのは世界でお前だけだろうな。検証した事はねーけど。
件名:無題
本文:なんでもないよ。頑張って来るからさ。
次は、電話だった。やっぱなんか勘付いてんだな。だが、取れなかった。そのまま着拒する。いや、申し訳ないとは思ってる。
でもだってさ、今とったら俺凄い声だよ?涙と過呼吸とヘタレの震えだよ?そんな声、聞かせたく無いじゃん?
―――自分を信じてくれる、妹にはさ。
だよな?シン。
「分かったよ。覚悟、決めたよ。」
決まった覚悟を胸に、俺はルリ女史への指示をメールにして打ち込み始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「出ない…。出て、出て……!」
繋がらない携帯電話を、森音は一人家で握りしめていた。兄の変調を敏感に察知した彼女は迷わず電話した。いつだって兄は電話に出てくれた。時には口が切れてまともに喋れないときにさえ、電話に出てくれた。
それは単なる偶然に過ぎないのかも知れなかった (当然俊也も殴られている真っ最中に電話には出れない)が、森音にとっては密かな自慢の一つだった。
その自慢が、失われる。
「どうして…?どうして…?」
声が震える。知らぬ間に、涙が流れ落ちる。どうしようもなく悪い予感が胸から離れない。兄が、頑張って来る、などと言うのは、不吉な感覚しかもたらさない。
「にーさん…。」
最近は、確かに兄が恰好良かった。そんな兄が、誇らしかった。いつか兄の存在を隠すのでなく、胸を張って紹介できるような日が来るかもと思うと、本当に夢のようだった。
でも。
「にーさんがいてくれれば…。いて…さえ…くれれば……!」
そんなのは望まない。
いてくれるなら、それでいい。それだけでいい。
単身赴任の父に母について行く、と聞いた時、森音が言ったのは一言だけだった。
「にーさんは?」
あの時から、もうすでにあの時から、兄がいることが、兄と共にいることが当たり前だった。学年差で通う学校が別々になった時も、兄がヘタレになった時も、なにも変わらなかった。それが無くなるのは、考えられない。信じられない。
「わたし…わたし…。」
涙が止まらない。
覚悟を決めた俊也に対して、森音が出来ることは、
「信じてます……。にーさんを、にーさんは私をおいてったりしないって…。ちゃんと帰ってくるって!」
祈る事だけだった。
そんな彼女を守るために。
俊也は一人、深夜が近付く夜の街を駆け抜けた。
初作品です。
稚拙なところも多いですが、ご意見やご感想をお待ちしています。