第1話「仮面の下女と、白粉の呪い」
冷たい井戸水に手を入れると、指先がじんじんと痺れるように痛かった。
冬の足音が近づく後宮の朝は、驚くほど冷え込む。私は大きな桶で、色鮮やかな絹の衣をじゃぶじゃぶと洗いながら、小さくため息をついた。
「ねえ、あの子……また一人で洗ってるわよ」
「気味が悪いわよね。あの顔の右半分を隠す仮面……。なんでも、顔が酷くただれてるらしいわよ」
「うわぁ、可哀想。でも近寄りたくないわね」
少し離れたところで、他の下女たちがこそこそと私を見て囁き合っている。
私は聞こえないふりをして、ひたすら目の前の洗濯物と向き合った。
私の顔の右半分には、鈍色の冷たい鉄の半面がつけられている。
この仮面の下がどうなっているかというと……別に病気でも呪いでもない。ただの『特殊メイク』だ。
実は私、前世は現代日本に住むごく普通の女子高生だった。
理系の科目が得意で、趣味は映画さながらの傷や火傷を作る特殊メイク。ハロウィンの時期なんて、友達からメイクの依頼が殺到するくらいには腕に自信があった。
そんな私が、どういうわけかこの中華風の異世界に転生してしまったのだ。しかも、国でもトップクラスの権力を持つ高官の娘として。
最初は「お嬢様ライフ、最高じゃん!」って浮かれたのも束の間。
高貴な家の娘の使い道なんて、政略結婚の道具くらいしかない。お父様が持ってきた縁談の相手は、私より三十歳も年上の、お腹の出た脂ぎったおじさんだった。
(あんなおじさんの何番目かの妻になるくらいなら、家を出てやる!)
そう決意した私は、変わり者で薬師をしている叔父さんに頼み込み、薬草の知識を叩き込んだ。そして、前世の特殊メイク技術と異世界の薬品を組み合わせて、顔の右半分が『赤黒く、無残に焼けただれた』ように見える完璧な偽装を作り上げたのだ。
狙い通り、お父様は私の顔を見るなり「こんな醜い娘、使い物にならん!」と激怒し、私は叔父さんの家へと追い出された。
計画は完璧だった。
叔父さんのもとで、大好きな薬の調合をしながら、自由気ままに生きていく。そんな幸せなスローライフが待っているはずだったのに。
「……なんで、近道なんてしちゃったんだろう」
ぽつりと呟いた声は、冷たい風にさらわれて消えた。
そう、一ヶ月前。叔父さんに頼まれて薬の配達に行った帰り道、少しでも早く帰りたくて薄暗い路地裏を通ったのが運命の分かれ道だった。
運悪く人攫いグループに鉢合わせしてしまった私は、あっという間に袋叩きにされ、気づいた時にはこの煌びやかな鳥籠――後宮に、下女として売られていたのだ。
顔がただれている(ように見える)から、夜伽の相手に選ばれる心配はない。代わりに、一番キツくて誰もやりたがらない下働きばかりを押し付けられている。
「はぁ……帰りたい。叔父さんの薬草茶が飲みたい……」
冷え切った手をこすり合わせていると、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「大変よ! 翡翠宮の御子様が、また倒れられたそうよ!」
「えっ、これで今月三度目じゃない? やっぱり、あの噂は本当なのかしら……」
「亡くなった前のお妃様の呪いってやつ……?」
下女たちのヒソソワ話に、私はピタリと手を止めた。
翡翠宮といえば、今、皇帝陛下から一番寵愛を受けている美しいお妃様が住んでいる場所だ。半年前、彼女が元気な男の子(御子様)を産んでからというもの、後宮内はドロドロの嫉妬と陰謀が渦巻いている。
(呪い、ねぇ……)
心の中でそっと毒づく。
前世でバリバリの理系女子高生だった私から言わせれば、呪いなんて非科学的なものは存在しない。必ず何か、物理的な原因があるはずなのだ。
「御子様、最近はずっと顔色が悪くて、夜も眠れずに泣いてばかりなんですって」
「お妃様も心配して、毎日たっぷりとお白粉を塗って、神仏にお祈りしているらしいわよ。お綺麗な顔が台無しにならないようにって」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳内にピシャーン!と雷が落ちた。
(……お白粉?)
後宮の女性たちが好んで使う、雪のように白い粉。あれの主成分はなんだっけ。
確か、この世界ではまだ安全な化粧品なんて開発されていない。あんなに真っ白で密着度が高いということは、十中八九『鉛』が含まれている。
鉛毒。
大人なら徐々に体が蝕まれる程度だが、免疫力のない赤ん坊にとっては致命的だ。お妃様がたっぷりお白粉を塗った顔で赤ん坊に頬ずりしたり、授乳したりしていれば……。
(それだ! 呪いなんかじゃない、ただの鉛中毒だ!)
原因が分かると、私の心臓がドクン、ドクンと早鐘を打ち始めた。
このままじゃ、罪のない赤ん坊が死んでしまう。お妃様だって、自分が我が子を毒殺しているなんて知る由もないのだ。
(でも、私がしゃしゃり出たら……)
右頬の冷たい仮面に触れる。
私はただの気味が悪い下女だ。「お白粉に毒があります」なんて言ったところで、誰が信じる? 逆に「呪いをかけたのはお前だな!」と濡れ衣を着せられて、首を跳ねられるのがオチだ。
目立たず、空気のように生きる。それがこの後宮で生き残るための絶対ルール。
「……ごめんなさい。私には、関係ないことだわ」
自分にそう言い聞かせ、私は再び桶の水に手を入れた。
でも。
目を閉じると、苦しそうに泣く赤ん坊の姿が脳裏に浮かんでしまう。
(あーもうっ! 嫌だ嫌だ! 私のお節介な性格!)
前世でもそうだった。困っている人を放っておけなくて、結局自分が損ばかりする。
私は濡れた手を乱暴にエプロンで拭うと、立ち上がった。
直接言うのがダメなら、間接的に伝えればいい。
証拠を残さず、お妃様に「お白粉が危険だ」と気づかせる方法が、私にはある。伊達に前世でミステリー小説を読み漁り、今世で薬学を学んだわけじゃない。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
誰にともなくそう告げると、私は足早に洗濯場を後にした。
この時、私はまだ知らなかったのだ。
ほんの少しの善意で行ったこの行動が、後宮を影で取り仕切る、あの恐ろしくも美しい『冷徹皇子』の目に留まるキッカケになってしまうなんて。
ただ平穏に生きたいだけの私の、波乱に満ちた後宮ミステリーは、ここから幕を開けたのだった。




