生者の見た夢 —— 戦
ふと気が付いた。「これは夢だ」と。
この夢は、久しぶりに、本当に久しぶりに見る気がする。
僕の両親は、日本人だった。でもある日、父さんは仕事で引っ越すことになった。
引っ越し先は中東のとある国。
ルポライターだった父さんらしい選択だ。
……のちに紛争が勃発する国だ。
愛妻家…じゃない、愛夫家だった母さんは父さんについていくと言い張り、まだ物心もつかない子供だった僕も、着いて行くことになった。
はじめ見る外国の景色。初めて見るような人の営みに、綺麗だと思ったことが印象に残っている。それが僕の最初の記憶。
そして次に覚えているのが、その街が燃えていくところ。真っ赤な炎に飲まれて、建物のガラスが割れて、破片が降り注いで。
三人で逃げ惑って、身体中怪我して。やっと辿り着いた地下鉄の駅には、人が大勢詰めかけていた。
寒かった。
外は雪が降っていて、そんな中でも暖房なんて稼働していない駅。
それでも。ここに、何人が生活しているのか。そう思うほど、たくさんの人であふれかえっていた。
しばらくはそこで生活したんだと思う。この辺の記憶が曖昧だけど、お腹が空いて泣いていた自分より小さな子を、うるさいと感じてた。それだけは覚えてる。
僕はもう、ここで死ぬんだな、みたいなことを子供心に思って。で、それが分からないその子に苛立って。
でもそんなある日、父さんが死んだんだ。
武装して押し入って来た連中が、見せしめに、父さんを選んだから。
それから僕は、いや。僕たちは、全力で逃げた。
地下を出たら、雪だった。厚く積もる雪の中で、僕たちは、転ばないように走った。
逃げ切れたのは、母さんと僕。二人だけだった。ほかの人たちは分からない。
捕まって殺されたかもしれないし、餓死したかもしれない。ただはぐれただけで、その先で保護してもらえていたんだとしたら…嫉妬してしまう。
とにかく、初めは大勢いた知り合いも、どんどんと減っていった。
何度、ガラスの破片で皮膚を切ったか分からない。何度、空腹で倒れそうになったか分からない。
けれど僕たちは、全力で逃げて、逃げて、逃げて。
母さんの言っていた『コクガイノヒコージョーでホゴしてもらう』が、『国外の飛行場で保護してもらう』という意味だということが分かったころには、一年が過ぎていた。
また、長い冬がやってくる。
雪の中では、見つかりやすい。白以外の色が目立つからだ。
雪の中では、逃げにくい。足が埋まってしまうからだ。
だから僕と母さんは、近くの廃屋をこの冬の拠点にすることに決めた。そこの向かいにはスーパーマーケットがあって、まだ商品も残っていたから。
でもそこには、先客がいた。
僕たちと同じ、子連れの母だった。
同じような境遇だった僕とその子は、すぐに打ち解けた。
母さんも、相手の母とすぐに仲良くなった。
その子は、エルピスと言った。
今までに見た惨状。積みあがった瓦礫の山の中に、まだ使えるラジオが会った時のあの感動。
どんな些細なことでも、僕は彼と共有した。
長い冬の退屈を紛らわすには、十分すぎるほどの経験があった。
そしてそれは彼の方も同じで。僕たちは、親友を通り越して家族のような関係になった。
そして冬が深まるにつれ僕たちは、この建物に閉じ込められた。
雪が、積もったからだ。外に出たなら腰まで埋まってしまうようなふかふかの雪が積もり、僅かな燃料と毛布で、僕たちは寒さをしのぐ。
「ねぇエルピス、僕達って、何で生きてるのかなぁ…?
この命なんて、あってもなくてもどうせ世界は変わらないんだ。だったらさ、生まれてきただけ無駄じゃないか」
その寒さに、身を這う飢餓感に耐えられなくなった僕は、聞いた。
エルピスは目を見開き、力なく笑う。
「確かにそうだ。僕たちは、いつ死ぬともわからない小さな命だ」
「うん」僕は、同意する。心の奥に小さな落胆が芽生えたのを感じる。
でもエルピスは、つづけた。
「けどね、だからこそ、簡単には死んでやるもんかとも思うんだ。
だって死んだら、美味しいものも食べられなくなっちゃうだろ? もったいないじゃないか。
それに…僕のこの命は、両親から食べ物になってくれた牛まで、いろんな命に支えられて生きてる。なのに簡単に死んだら、それこそ命の無駄遣いだ」
そこまで言ったエルピスは、窓の外に目を向ける。僕はつられてエルピスと同じ方を向く。
今も降り続く雪が、割れた窓から入り込む。そして窓際に積もっていく。そんな様子を見ながら僕は、思った。
——あいつは、何を考えてこの雪を見ているんだろうか。
なんだか急に、エルピスが遠くの人に見えた。
僕なんかが隣にいることなど叶わないような、すごく気高く優しい、そんな存在を雪の隙間に幻視した。
「僕はそうは思わない。僕の命は、自分一人の重さしかない」
気が付いたら、そんなことを口走っていた。エルピスはこちらを見ることなく、「そうかもね」とだけ言った。
「僕は、耐えきれなくなったら死んでやる」
しばらく、無音の世界が広がる。僕もエルピスも、しんしんと降る雪を見つめる。
「でも」
唐突に、エルピスの一言がその静寂を破る。そちらに目を向けると、彼の、まっすぐな瞳と目が合った。
「でも僕は、…僕の家族には、生きててほしいと思う」
頬を掻きながら照れたように言いよどむエルピスはやっぱり、僕の親友で、家族だ。
冬が過ぎ、春が目前に迫ってきたある日のこと。
僕とエルピスは、恒例である食料確保のために少し遠くまで出かけていた(近くにあった食料は、もう食べつくしてしまったのだ)。
このころにはだいぶ背も伸びて、ちゃんと雪の上を歩けるようになっていた。
戦利品を手に入れた、帰り道。「これでしばらくは、食料に困らなくて済むね」そんなことを話しながら歩いていた僕達。
相変わらず、周りは瓦礫と雪だけだったけれど、確かにそこには、”いつもの幸せ”が芽吹き始めていた。
タタッ、というような音がした。
幾度となく聞いてきた、音。近くで、砲弾が発射されたことが分かった。
そして。ドーン、という音も、聞こえる。それも、僕たちの向かっていた方から。
いやな予感がした。
エルピスも同じだった。視線を交わすと、僕たちは駆け出した。
僕たちが生活していたビルに辿り着いたとき。
そこは、瓦礫の山になっていた。瓦礫の中にはひしゃげたラジオが、そして母さんの服の切れ端が。
無造作に埋もれていた。
僕たちは、察した。
でも、泣いている暇はなかった。すぐにでもここは、戦場になる。
今すぐ離れないと、僕たちの命までもが、失われる。
そして逃げ出そうとしたとき。突然、目の前の廃墟が崩れ落ちてきた。それも、僕たちの方に。
エルピスが、言った。
「危ない!」
僕はスローモーションになった世界の中で、エルピスの体がビルの瓦礫に飲み込まれていくのを見た。自分は、助かった。突き飛ばされた時にできた擦り傷。それが僕の負傷だった。
エルピスは、体の半分が瓦礫に潰されていた。血だまりが、広がっていく。もう長くない命であるのは、誰の目にも明らかだった。それどころか、生きている事すら奇跡に思った。
僕たちは、無力だ。
この小さな手では、瓦礫を持ち上げることすらできない。
戦争を止めることも、エルピスの体を治すことも、母さんたちの遺体を掘り出すことだって、できやしない。
それでも、抗う。
必死に瓦礫をどかそうとする僕に、エルピスが言う。
口の端から血を吐きながら、かすれた声で。
「これで、君の命は、君だけの物じゃない。
僕の代わりに生きる君は、勝手に死んじゃ、だめだよ?」
一瞬、何のことかわからなかった。
その言葉に隠された意味に気が付いたとき、僕は——。
枕もとを照らす朝日に、目が覚めた。
ふと頬に手を当てると、濡れた感触がする。あぁ、泣いているんだ。そう気が付いたときにはもう、その夢の記憶は彼方へと消えていた。
無意識のうちに自分の手首を抑えていることに気が付いて、慌てて服の袖を引っ張る。
——この傷は、人に見せたいものじゃない。




