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第64章 夕刻――越えない想い(第2部完)

夕方。


廊下の灯りが一つずつともり始める頃、クロトは予定通り桜の部屋を訪れた。軽く扉を叩く。


「どうぞ」


中に入ると、桜はソファに腰かけていた。背筋は伸ばしているものの、頬にはまだうっすらと熱が残っている。動きもどこかゆるやかだった。


クロトは一礼する。


「サクラ様」


「クロトさん」


返ってきた声は、いつもより少しやわらかい。


「体調はいかがですか」


「もう大丈夫です」


桜はふわりと笑う。


「熱もほとんど下がりましたし、少しだるいだけです」


軽く手を振るが、すぐに膝の上へ戻した。


クロトはその様子を静かに見つめる。


「無理はなさらないでください」


「してません」


小さく言い返すが、勢いはない。


少し沈黙が落ちたあと、桜がぽつりと口にした。


「……怒ってますか?」


クロトはわずかに首を傾げる。


「なぜ、そのように思われたのですか」


「だって、無理しましたし」


桜の視線が落ちる。


いつもより、少しだけ素直だった。


クロトは静かに息を吐く。


「分かっているのでしたら、それで十分です」


そして続けた。


「結界の揺らぎは最小限でした。貴方の判断は誤っていません」


はっきりとした評価だった。


桜の顔がぱっと明るくなる。


「本当ですか?」


「ええ」


声がわずかにやわらぐ。


「ですが、それとこれとは別です。無理を許したわけではありません」


穏やかな声音だが、明確な釘だった。


「……はい」


桜は素直に頷く。


「でも」


小さく続ける。


「怒られなくて、よかったです」


「怒ってはいません」


わずかな間があった。


「ただ、心配しただけです」


桜の顔がほんのり赤くなる。


「そういうの、さらっと言うの、ずるいです」


「何がですか」


「なんでもないです」


クロトは時々、こういうことを無自覚に言う。


職務上の言葉だと分かっている。それでも胸の奥が、わずかに揺れてしまう。


――だから、ずるい。


少しの沈黙のあと、桜が視線を逸らしたまま言った。


「前から思っていたんですけど」


「何ですか」


「私、クロトさんと話していると、自分が三歳年上だという感覚が危うくなります。もう今年で三十二歳ですし」


熱のせいか、珍しく拗ねたような口調だった。


クロトは一度桜を見つめ、それから静かに息をつく。


「でしたら、ご自身の体力と精神力を常に考えて行動してください」


「いや、でも……今回は」


桜はぶつぶつと小声で反論する。


「結界の揺らぎが続いていましたし、その……」


クロトはそれを遮らない。最後まで言わせる。


そして静かに言った。


「ですが、倒れてしまっては意味がありません」


穏やかな声音だが、譲らない。


「貴方の代わりはいないのですから」


胸が、もう一度だけ揺れる。


それもきっと、職務上の言葉。


そう分かっているのに。


「……はい」


桜は素直に頷いた。


ふと、桜は胸元に手をやる。首にかけていた水色の守り石を外した。


「これ」


両手で差し出す。


「お預かりしていたものです」


クロトは静かに受け取る。


「守ってくれました」


「無事で何よりです」


短く返す。


そして今度は、日本のお守りを差し出した。


「こちらも、お返しします」


桜は慌てて首を振る。


「それは差し上げたものです。迷惑でなければ、持っていてください」


少し早口になる。


「私、まだ五個くらい持たされたんで」


小さく苦笑する。


クロトは一瞬目を伏せ、それからうなずいた。


「……承知しました」


お守りを胸元へ戻す。


「では、代わりにこちらを」


胸ポケットから取り出されたのは、淡い薄紅色の守り石だった。


水色とは違う、やわらかな色。


桜はそれを見つめる。


どうして、この色なのだろう。


胸の奥がふわりと浮く。


言葉にならない、現実にはあり得ない期待が、かすかに揺れた。


クロトが続ける。


「先ほどの守り石とは違い、こちらには守護魔力をかけてあります」


淡々と。


そして、はっきりと。


「職務上の判断です」


浮きかけたものが、静かに落ちる。


これは巫女を守るための守り石。


それ以上の意味はない。


――クロトさんが、私をそんなふうに思うなんて。


あるはずがない。


自覚はある。


何もかもが、つり合っていない。


そう考えるほうが、自然だった。


桜は内心小さく息をつき、石を受け取る。


「……ありがとうございます」


紐を通し、首にかける。


胸元に落ちる、やわらかな薄紅色。


クロトの視線が一瞬、そこへ落ちた。


「よくお似合いです」


淀みのない、整った声音。


心臓が跳ねる。


なぜ、このタイミングで。


少しだけ、恨めしい。


あの感謝祭を思い出す。


クロトは貴族の女性たちとも、こうして自然に言葉を交わしていた。


これは礼儀。


社交。


きっと、誰にでも言える言葉。


「いえ……でも、ありがとうございます」


顔が熱くなり、視線がさまよう。


視線の合わなくなった桜を見つめるクロトの目は、やわらかい。


だが、何も続けない。


――――――――――


――本当は。


昨年の誕生日に、渡すはずだった。


言葉を探し、機を失い、そのまま懐に戻した。


立場を越える意図を、持ってはならなかった。


これは守り石だ。


巫女を守るためのもの。


そう言い聞かせてきた。


だが。


薄紅色の石がサクラの胸元で揺れているのを見て、


本当に、よく似合っていると思った。


それ以上の言葉を口にすることはできない。


夕暮れは、ゆっくりと夜へ移り変わっていった。

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