第58章 変わらないはずの日常― 静かな違和感 ―
結界の修正は、いつも通りだった。
魔力の流れに乱れはない。縫い目も安定している。今のところ、私の目に映る範囲に異常はない。
制御室の数値も問題なし。リエットが静かに頷いた。
「問題ありません」
その言葉に、ようやく肩の力を抜いた。
3日前、神殿長に呼ばれた。
大国の情勢が不安定になっていること。ゼフィーリアも、間接的に関わらざるを得ない状況にあること。近いうちに動きがある可能性が高いこと。
細かい事情は知らされていない。ただ、修正中はいつも以上に結界の変化を注視してほしい、とだけ言われた。
私が結界に直接触れられる時間は、1時間が限界だ。それ以上は負担が大きい。
だから、やることは変わらない。ただ、より注意深く見るだけだ。
それだけのはずなのに、城内の空気はどこか落ち着かない。
……気のせい、かな。
政治の中心にいるわけじゃない。何が起きるのか、正確に知る立場でもない。
私は、結界を整える人間だ。それだけだ。
制御室を出て診療所へ向かうと、エミールが小さくため息をついた。
「最近、軽傷の騎士が多くないですか」
確かにそうだ。
重傷ではない。命に関わるものでもない。
だが、妙に数が重なる。
処置室で包帯を巻きながら、私は傷口を見た。
細い切り傷。深くはない。防具の隙間に入ったような、浅い線状の傷だ。
「訓練中です」
そう説明されれば、納得はできる。訓練で刃がかすめることもある。
けれど、魔物の爪では、こうはならない。
そう思って、口には出さなかった。
偶然が重なっているだけかもしれない。考えすぎだ。
包帯を巻き終えると、騎士は礼をして出ていく。
その背中を見送りながら、胸の奥に小さなざわめきが残った。
クロトから任務があると聞いたときから、そのざわめきは消えていない。
3日前、神殿長の話を聞いて、大国が絡んでいるのだと察した。
最近顔を見なくなった護衛騎士たちも、きっとその件だ。
どうか、クロトさんたちが無事に戻ってきますように。
そっと守り石を握りしめ、私は小さく息を吐いた。
少なくとも、いま目に見える変化はない。結界も、静かなままだ。
それなら、私は自分の役目を続けるしかない。
診療所の業務が終わり、部屋へ戻ろうとしたときだった。
ちょうど向かいの回廊から、エーファが歩いてくる。エリアナの部屋の方角だ。
「あ……サクラ様」
少しだけ驚いたように立ち止まる。
「お疲れさまです」
「エーファさんも」
これまで顔を合わせることはあっても、きちんと話したことはない。
それでも、ノインが怪我をした日のことは覚えている。血のついた騎士服を見て、顔色を失っていた姿。
私は少し迷ってから声をかけた。
「……もしよければ、少しだけお時間ありますか」
エーファは目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「ええ、もちろんです」
部屋へ案内し、向かい合って座る。
何から話せばいいのか分からない。
本当は、ただ少し、不安を誰かと共有したかっただけなのだと思う。
「この前……ノインさんが怪我をされたとき、ハーブティーを渡されたんですよね」
エーファが、わずかに目を見開く。
「ええ……」
「そのあと、ノインさんから、お返しをどうしたらいいかと相談を受けまして」
私は小さく笑った。
「甘いものはどうですか、とお伝えしました」
一瞬の沈黙のあと、エーファの頬がほんのり赤くなる。
「そう、だったのですか……」
「こんなことを話したと分かったら、ノインさんに怒られそうですね」
口にしてから、少し言い過ぎたかと胸がざわつく。
「いえ。あの方は優しい方ですから」
声は小さいが、はっきりしている。
その言葉に、エーファの気持ちが滲んでいるように感じた。
「最近、ノインさん、見ませんよね」
改めて口にすると、エーファは静かに頷いた。
「何も分かりませんが、きっとお仕事だと……」
それ以上は言わない。
けれど、その声音には、薄い緊張が混じっていた。
「……最近あまり良い噂のない大国の件でしょうか」
ぽつりと、エーファが言う。
私は一瞬、言葉を失う。
巻き込まれていることは知っているが、詳しいことは知らない。
クロトさんにしても、ノインさんにしても、どんな任務に就いているのか分かるはずもなかった。
「分かりません」
正直に答える。
「ただ、無事に戻ってきてほしいですね」
「はい」
エーファは、真っすぐに頷いた。
その表情は強い。ただ待つしかない立場でも、目を逸らさない人の顔だった。
私は胸元の守り石を握る。
どうか、このまま平穏が続きますように――そう願わずにはいられなかった。




