第56章 喘息治療のその先へ――積み重ねの一歩
第1診療所の病室は、朝から慌ただしく動いている。
30床ある病室は、すべてが埋まっているわけではない。
それでも、看護の手が止まることはない。
ベッドの間を仕切るカーテンの向こうで、患者たちはそれぞれに過ごしている。
介護人が体位を整え、清拭などを進める。
看護師である桜とロッテは、病室を1つずつ回りながら、患者の様子を見ていく。
血圧、体温、病気に伴う症状の確認。
看護師で対応可能な処置を行い、動作訓練が必要な患者には、介護人とともに対応していく。
医師は回診の準備を進めており、回診時には看護師が付き添う。
誰か1人が特別に忙しいわけではない。
全員が、それぞれの持ち場で手を動かしていた。
一方、診療所の一角では、エリナが机に向かっていた。
午前中の仕事は、動作訓練に関する勉強会用の資料作成だ。
症例ごとに記録を読み直し、必要な情報を整理していく。
どのような状態で入院し、
どの段階で訓練を始め、
どの程度の負荷で進めたのか。
経過の中で注意が必要だった点や、
記録の端に残された短い補足も見逃さない。
表現が曖昧な箇所は、そのままにせず、別紙に控えておく。
1症例ずつ、少しずつではあるが、確実に整えていく。
午前中は、その繰り返しで過ぎていった。
その日も、気づけば昼を回っていた。
入院病棟では看護が続き、処置室では次の準備が進む。
ただ、いつも通りに午後を迎えた。
――――――――――
■ 試行錯誤
イルゼの手元にも、少しだけ余裕ができた。
「今なら、時間が結構取れそうですね」
「エリナ、お手伝いお願いできますか」
書類作成をしていたエリナに、イルゼが声をかける。
作業台を整えてから取り出したのは、炎症を抑える作用を持つとされる薬草だった。
喘息治療の話題に上がっていたものだ。
簡単に形になるとは、最初から考えていない。
問題は、それを霧状にできるかどうか。
そして、吸入に耐える形に整えられるかどうかだった。
エリナは、すぐに記録用の紙を用意した。
日付、使用した薬草、処理の手順。
後から見返せるよう、事実だけを書き留めていく。
「今日は、試すというほどではありません」
イルゼが前置きする。
「霧にできそうか、感触を確かめるだけですね」
「分かりました」
エリナは頷き、ペンを走らせる。
粉砕の具合、水分量、扱いやすさ。
1つずつ確認し、無理だと判断すれば、すぐに片付ける。
実際に噴霧する段階には入らない。
無理はしない。
「粒が、まだ粗いですね」
「このままでは、喉に残りそうです」
短い言葉を交わし、次に進む。
別の薬草も、同じように確認する。
結果は、どれも決定打にはならなかった。
霧にならないもの。
均一にならないもの。
条件次第で、可能性がありそうなもの。
記録用紙には、
「要再検討」
「条件次第」
という文字が増えていく。
午後の短い時間は、あっという間だった。
午後の作業を終え、イルゼは机の上に残った紙束を、静かにまとめた。
記録は整っている。
だが、答えは出ていない。
炎症を抑える作用を持つ薬草はいくつかある。
理屈の上では、噴霧という形で使えそうにも見える。
けれど、それを実際に霧にし、吸入に耐える形に整えるには、
この診療所だけでは、手が足りなかった。
――やはり、という感覚はあった。
最初から、簡単に済む話ではないと分かっていたからだ。
「……やはり、多くの協力者が必要ですね」
独り言のように呟いてから、イルゼはもう一度、資料に目を落とす。
だからこそ、雑に進めるわけにはいかなかった。
協力を求めるにしても、
「やってみたい」という思いつきだけでは足りない。
どこが難しいのか。
どこまで試して、何が分からなかったのか。
それを示せる形にしておく必要がある。
エリナは、イルゼの横で静かに記録を整えていた。
日付、手順、結果。
曖昧な表現は避け、事実だけを書き留めていく。
「ここは、『条件次第』でまとめておきますか」
「ええ。それでお願いいたします」
可能性は、まだ点に過ぎない。
だが、点がなければ、線にはならない。
それでも、この机の上に積まれた紙は、
確かに、次につながるものだった。
イルゼは資料を1つに束ね、そっと端を揃える。
「まずは……ここまで、ですね」
それが、喘息治療の“はじめの一歩”だった。
遠い道のりの、ほんの入口に過ぎない。
だが、進む方向だけは、ようやく見え始めていた。
――――――――――
■ 水曜日の勉強会
水曜日の夕方。
桜の部屋に、本日の勉強会のメンバーが集まってくる。
診療所の業務を終えたあと、この部屋で行われるのが定例の勉強会だ。
資料を広げ、落ち着いて話ができれば、それで十分だった。
集まっているのは、薬師のイルゼ、内科医のクラウス、看護師の桜とマルタ。
そして、少し離れた位置に、エリアナが静かに座っている。
この場にいる全員が、彼女の身分を知っている。
だが、勉強会の進め方は、いつもと変わらなかった。
イルゼが、用意してきた資料を机の上に並べる。
「本日は、先週から検討しておりました、
抗炎症作用のある薬草の霧状化について、
1週間分の進捗をご報告いたします」
資料の端を揃え、淡々と続けた。
「これまでに確認されている通り、
気管支拡張作用を目的とした薬草については、
霧状化して吸入に用いる方法が、すでに実用化されています」
マルタが小さく頷く。
「発作のときに使ってるやつね」
「はい」
イルゼは肯定した。
「一方で、抗炎症作用を目的とした薬草については、
吸入という形で継続使用する前提での検討が、
これまで行われてきませんでした」
イルゼは、記録の1枚を指で示す。
「この1週間、業務の合間を使い、
数種類の薬草について、粉砕の方法や水分量、
霧にした際の粒のばらつきや刺激性を確認しております」
桜が、内容を整理するように口を挟んだ。
「霧にすること自体は可能でも、
吸入に向くかどうかは、また別、ということですね」
「その通りです」
イルゼは静かに頷く。
「結論から申しますと――
現時点では、
吸入に耐える形として安定して使用できると判断できるものは、
まだ見つかっていません」
マルタが、腕を組んだまま言った。
「毎日使う前提だと、
ちょっとした刺激でも問題になるものね」
「はい。
粒が均一にならないもの、
喉への刺激が残るもの、
条件次第で再現性に不安が残るものが多く、
長期使用を前提とした吸入には、まだ課題が残ります」
「予防目的で使うなら、なおさらだな」
クラウスが短く言った。
「ええ。
発作時の使用とは評価の基準が異なりますので、
より慎重な検討が必要になります」
そこで、エリアナが小さく口を開いた。
「……症状が出てから対処するのと、
出にくくするために使うのとでは、
考え方が変わりますね」
声は控えめだが、的確だった。
「はい、まさにその点でございます」
イルゼは、エリアナに向かって一礼するように言った。
「そのため、現段階では、
まず“吸入に耐える形として成立するかどうか”を、
1つずつ確認していく必要があると考えております」
イルゼは一度、言葉を切る。
「また、検討を進める中で、
この診療所だけで作業を完結させることには、
限界があるとも感じております」
「いずれは、
薬師の方々を広く巻き込む必要がある、ということですね」
桜が確認する。
「はい。
霧状化の条件や問題点をある程度整理した段階で、
国中の薬師の方々に、
協力をお願いする必要があると考えております」
「段階としては妥当だな」
クラウスが言った。
「問題点が見えていない状態で広げても、
かえって混乱するからね」
そこで、クラウスが少し間を置いてから口を開いた。
「1点だけ、共有しておくよ」
全員の視線が、そちらに向く。
「エリアナ様ご本人は、
効果の確認のために試しても構わない、
という考えも示してくださった」
だが、と前置きするように続ける。
「その案は、もちろん通っていない。
安全性が定まっていない段階で、
他国の王族が試すなんて、
許可が出るはずがないと思っていたから」
誰も、異を唱えなかった。
「まぁ、当たり前といえば当たり前だ」
クラウスはそう付け加えてから、話を締める。
「だから現状では――
エリアナ様には、
研究への協力として、
検討と記録を行っていただいている」
エリアナは、静かに頷いた。
イルゼも、それを確認するように頷く。
桜が、改めてまとめる。
「今は、
抗炎症作用のある薬草が、
吸入に耐える形として成立するかどうか。
そこを見極める段階ですね」
「そう」
クラウスが短く答える。
「道具や運用の話は、その先でいいからね」
イルゼは、資料をまとめながら続けた。
「吸入器の小型化につきましては、
現時点の技術では、
すぐに検討できる段階ではありません」
一呼吸置いて、言葉を継ぐ。
「ただし、将来的な検討課題として、
視野に入れておく価値はあると考えております」
勉強会は、静かに終わった。
大きな成果は、まだない。
だが、何を検討すべきか、
どこまでが今の段階なのかは、はっきりした。
――――――――――
■ 1人になってから
勉強会が終わり、皆が部屋を出ていったあと。
桜は、1人になった部屋で、無意識に首元へ手を伸ばしていた。
指先に触れるのは、細い紐に通されたお守り石だ。
クロトと、日本のお守りを交換してから、すっかり触るのが癖になっている。
人の気配がなくなると、考えてしまう。
考えないようにしても、どうしても浮かんでくる。
――クロトさんは、無事でいてくれるだろうか。
彼は強い。
それは、疑いようのない事実だ。
きっと大丈夫だと、桜は信じている。
けれど、信じているからといって、
不安がきれいに消えてくれるわけではなかった。
最近の桜は、1人になると、同じ考えに捕まってしまう。
大丈夫だと思って、
それでも心配になって、
また大丈夫だと言い聞かせる。
何度も繰り返す、堂々巡りだ。
桜は、お守り石をそっと握りしめ、息を吐いた。
今は、考えすぎないようにするしかない。
そう自分に言い聞かせてから、
ゆっくりと手を下ろした。




