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第55章 ひと時の別離―― 手元に残ったもの

水曜日は、桜の公休日だった。


読み書きの勉強は、日常的には部屋担当の騎士たちに教わっている。


クロトに付き合ってもらうのは、月に1度あるかどうか。


それも、彼自身の休みの日に限られていた。


何度か、こうして机を挟んで向かい合っているが、この時間には、いつまでたっても慣れずにいる。


文字を追いながら、桜は何度も心臓の鼓動を意識していた。


緊張している自覚はある。


けれど、それをどうにかしようと考える間もなく、時間は進んでいく。


「ここは、少し音が変わります」


「……あ、はい」


短い説明と、確認。


それだけのやり取りなのに、胸のあたりが落ち着かない。


集中していないわけではない。


むしろ、その逆だった。


クロトの声が近くにあることや、視線の向き、机の上で重なる紙の位置まで、全部が意識に入ってしまう。


だから、この時間は毎回短い。


1時間という期限が、あっという間に来る。


「今日はここまでにしましょうか」


その一言で、現実に引き戻される。


ドキドキしているのに、気づけばもう、終わってしまっている。


もう少し。


ほんの少しだけ、一緒にいられたらよかったのに。


そう思ったところで、クロトが口を開いた。


「サクラ様。お伝えしておくことがあります」


桜は、顔を上げる。


「明日から、しばらく王宮を離れます」


「……え?」


「他の任務に就くためです。護衛からも、しばらく外れます」


言葉は淡々としていた。


すぐには、意味が追いつかなかった。


「……どのくらい、ですか?」


「正確な期間は、分かりません」


それ以上、聞いてはいけないことは分かっている。


行き先も、内容も。


けれど、最近見かけなくなった騎士たちの顔が、頭に浮かぶ。


その中に、ノインの姿も自然と重なった。


考えるより先に、桜は鞄に手を伸ばしていた。


「あの……」


取り出したのは、小さな布のお守りだった。


日本から持ってきた神社のお守り。


母と姉が、いくつも持たせてくれた中の1つ。


「ご迷惑だと思うんですけど」


一度、言葉を切る。


「これ、持っていてもらえませんか。私の世界のお守りで」


「異世界のお守りだから、役に立たないと思うんですけど」


「それに、家族がたくさん持たせてくれた中の1つで……私の分は、まだ何個かあるので」


言いながら、自分でも無理やり渡すための言い訳が多いと思った。


クロトは一瞬、目を瞬かせてから、差し出されたお守りを見た。


それから、両手で受け取る。


「ありがとうございます」


「では、大切にします」


その返事を聞いて、桜は受け取ってもらえたことに、ほっとする。


「……サクラ様」


今度は、クロトの方からだった。


彼は首元に手を伸ばし、衣服の内側から、小さな石を取り出す。


紐に通された、水色の守り石。


普段、首にかけているものだと分かる。


「こちらを」


短く言って、差し出す。


「私が、普段身につけているお守り石です」


「え……?」


「特別なものではありません」


「魔力を高めるものでもありませんし、任務に支障が出ることもありません」


そう言いながら、外す動作に迷いはなかった。


「しばらく王宮を離れますので」


「こちらを、お預かりいただけますか」


“預かる”という言葉に、桜は一瞬だけ考えてから、頷いた。


「……分かりました」


「ちゃんと、預かります」


小さな石を受け取る。


「だから、必ず、帰ってきてくださいね」


「預かりもの、返せないと困るので」


「ここで、待っていますから」


それは、祈るような願いだった。


クロトの無事と、少なくとも、それを自分の目で確かめるまでは、この世界からいなくなりたくないという思い。


「では、くれぐれも、私が不在の間は無理をしないでください」


クロトらしい言葉を残して、扉を開ける。


扉が閉まる直前、桜は思わず一歩踏み出していた。


けれど、呼び止めることはできず、振り返らない背中を、そのまま見送ることしかできなかった。

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