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第49章 すれちがう視点 ― 触れそうで、越えない距離

月曜日の業務を終え、桜が自室に戻ったのは夕方だった。


白衣を脱ぎ、手を洗い終えたところで、扉がノックされる。


「サクラ様」


聞き慣れた声だった。


扉を開けると、クロトが立っている。


「今後の警備体制について、ご説明があります」


感情の混じらない口調。


業務としての訪問だと、すぐに分かる言い方だった。


桜は部屋に招き入れ、椅子を勧める。


クロトはそれを辞し、立ったまま話を始めた。


姫君の到着時刻。


配置。


護衛の動線。


夜間の対応。


どれも簡潔で、無駄がない。


聞いている限り、問題はないはずだった。


「――以上です」


説明が終わる。


「何か、ご不明点はありますか」


形式的な問いだった。


桜は、すぐに答えなかった。


ない、と言えば終わる。


だが。


「……あります」


自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。


「作法、です」


クロトの視線が、わずかに向く。


「王族の方に接する時の作法です」


桜は続けた。


「神殿長とエルンスト先生には、今のままで大丈夫だと言われました」


「でも……正直に言うと、不安で」


言葉が止まらない。


「クロトさんは貴族ですし、所作も整っています」


「たぶん、意識せずにできているんだと思います」


一息ついて、なお続ける。


「でも私は、そういう世界で生きてきていません」


「私の世界には、身分という感覚がありません」


桜の言葉に、クロトが一瞬だけ視線を伏せたことに、桜が気づくことはなかった。


「何が失礼で、何が許されるのか」


「分からないまま相手をするのは、正直つらいです」


相手をするのは、自分だ。


その事実だけが、不安を強くする。


クロトは、すぐには答えなかった。


短い沈黙の後、言葉を選ぶように口を開く。


「……率直に申し上げますと」


「この国では、そこまで厳密な作法を求められる場は多くありません」


「身分制度については残っていないとはいいませんが」


「昔ほど、“形”を重視する文化でもない」


一度、言葉が切れる。


「何をすれば正解で、何をすれば失礼か」


「明確な線が引かれているわけではないんです」


桜は、首を横に振った。


「皆さんも、そう言いました」


「大丈夫だって」


「このままでいいって」


「……でも」


視線を上げる。


「療養目的とはいえ、相手をするのは、私なんです」


余裕はなかった。


相手の立場も、忙しさも、考えていない。


「全部でなくていいです」


「ほんの少しでいいので」


「教えていただけませんか」


クロトは、しばらく黙っていた。


業務外だ。


本来、応じる理由はない。


「……長い時間は取れません」


そう前置きしてから、言う。


「正式な作法を教えることはできません」


「国の王族ごとに、許容される距離や振る舞いも異なります」


それでも。


「最低限」


「避けるべき点をお伝えする程度であれば」


「短時間なら、可能です」


桜は、わずかに息を詰めた。


「水曜日の昼間」


「少しだけであれば、時間が取れます」


クロトが忙しいのは分かっていたが、「大丈夫ですか」と気遣う言葉を出せなかった。


その代わり、


「……ありがとうございます」


深々と、頭を下げる。


「必要なのは、完璧な所作ではありません」


クロトは淡々と続けた。


「挨拶の深さ」


「視線の位置」


「立ち位置」


「距離の取り方」


「それだけでも」


「失礼と取られる可能性は下がります」


「それだけでも教えてもらえれば、少しは不安が減るかなと」


桜は、素直に気持ちを述べる。


クロトはそれ以上何も言わず、扉へ向かう。


出る直前、足を止めて、静かに言った。


「……私も神殿長やエルンスト医師の言う通りだと思います」


「少なくとも、サクラ様の普段の振る舞いに問題はありません」


「そう言っていただけると、助かります」


桜は、ようやく小さく笑った。


そして、扉は静かに閉まった。


――――――――――


■後悔



その夜、桜は久しぶりに、憂鬱な気持ちで眠らずに済んだ。


不安が消えたわけではない。


けれど、言葉にして吐き出したことで、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。


それに、ほんの少しでも講義をしてくれると言ってくれた。


クロトに感謝しつつ、桜は眠りに落ちた。


************


翌日。


結界修正の時間が近づき、桜は部屋を出た。


廊下の先に立っていたのは、クロトだった。


「サクラ様」


その声を聞いた瞬間、胸の奥で、何かがひっくり返る。


昨日のやり取りが、唐突に頭を占領した。


必死な声。


遠慮のない言葉。


立場も、年齢も忘れたような自分。


――最悪のタイミングだった。


今なら、はっきり分かる。


クロトにとっては、業務の合間だった。


説明を終え、確認をして、戻るだけの時間。


そこに、感情をぶつけた。


歩き出しても、頭は静かにならなかった。


あの言い方は、どうだったか。


あんな言い方をする必要が、本当にあったのか。


思考は、自然と週末のことへと戻る。


実家で、家族に愚痴った。


王族を、看護師として説明もなく任されたことへの不安。


溜まっていたものを、一気に吐き出した。


けれど、返ってきたのは、拍子抜けするほどあっさりした言葉だった。


「皆がそう言ってるなら、大丈夫よ」と母。


姉に至っては、さらに容赦がなかった。


「結界を守ってる巫女なんでしょ」


「よく考えてみなよ。姫君より偉いじゃない」


「考えすぎ」


誰も、悪気があったわけじゃない。


心配してくれているのも、分かっていた。


それでも、不安は消えなかった。


だから、昨日はもやもやした気持ちが、爆発したのだと思う。


説明されないまま、相手をすること。


分からないまま、任されること。


その全部を、たまたま説明に来たクロトに向けてしまった。


隣を歩きながら、桜はクロトの顔をまともに見られなかった。


三十を過ぎて、あれはない。


冷静に考えれば、ただの駄々っ子と変わらない。


それに、クロトの方が年下だ。


その事実が、遅れて効いてくる。


恥ずかしさと後悔が、じわじわと胸を締めつけた。


結界修正は、問題なく終えた。


手応えも、いつも通りだった。


それでも、集中しきれていたかと問われれば、自信はない。


リエットに、ほんのわずか首を傾げられた。


何も言われなかったが、それだけで十分だった。


***********


結界修正を終え、部屋へ戻る前。


クロトが、いつもより少しだけ慎重な声で尋ねてきた。


「……何か、ありましたか」


その一言で、逃げ場はなくなった。


「昨日は……すみませんでした」


言葉は、思ったより素直に出た。


「少し、色々あって」


「考えすぎていたと思います」


顔は上げられなかった。


「もう大丈夫です」


「明日の講義も……やっぱり、なくて構いません」


一度、息を整える。


「皆さんが大丈夫だと言ってくれているので」


「もう、全然、問題ないですから」


不安が消えたわけではない。


それでも、できるだけ力説した。


これ以上、面倒な思いをさせたくなかった。


クロトは、すぐには答えなかった。


「……約束ですから」


静かな声だった。


「短い時間です」


「それ以上は取りません」


譲る気はないと、はっきり分かる言い方だった。


やはり、この人にはかなわない。


それでも。


クロトがしてくれる短い講義を聞けば、


今の不安が、ほんの少しは軽くなるかもしれない。


そんな期待を、


心のどこかで抱いている自分がいることにも、気づいてしまった。


後悔も、羞恥心も、消えてしまいたいほど残っている。


それでも――。


「……じゃあ」


「クロトさんの無理のない範囲で、お願いします」


そう言って、桜は小さく頭を下げた。


――――――――――


■講義



水曜日の昼、約束の時間は短かった。


桜の部屋に入ってきたクロトは、いつも通り感情を表に出さない。業務の延長線上だと言わんばかりの立ち居振る舞いで、無駄な言葉はなかった。


「本当に、基本だけです」


そう前置きしてから、淡々と説明が始まる。


挨拶の角度。最初に向ける視線の位置。立ったときの距離。話しかける前の、わずかな間。


どれも、特別なことではない。むしろ拍子抜けするほど、当たり前の内容だった。


「深く考えすぎなくて構いません」


「相手の顔を見る」


「一拍置く」


「それだけで、印象は変わります」


言葉は簡潔で、余計な補足はない。それなのに、桜は妙に落ち着かなかった。


いつもより、距離が近い。


教えるために必要な距離だと、頭では分かっている。けれど、クロトが一歩動くだけで、無意識に肩が強ばる。視線を向けられるだけで、熱が上がるのがわかった。


所作は、やはり綺麗だった。動きに無駄がなく、音も立てない。ただ立っているだけなのに、姿勢の違いがはっきり分かる。


――なんで、クロトさんに頼んでしまったんだろう。


そんな考えが、ふと頭をよぎる。教え方は真剣で、態度も一切崩れていない。忙しい時間を割いてくれていることも、分かっている。


それなのに。


ただ近くにいるだけで、見惚れてしまい、心拍数まで上がる自分が、どうしようもなく情けなかった。


「……もう少し、背筋を」


クロトが言いかけて、動きを止める。


一瞬。


桜の肩のあたりに、視線が落ちた気がした。


何か言う代わりに、クロトはその手を静かに握りしめた。触れることなく、自分の側へ引き戻すような動作だった。


「……失礼」


なぜ謝られたのか分からず、桜は一瞬、首をかしげた。ただ、クロトが何事もなかったように説明を続けたため、その疑問は宙に浮いたまま消える。


話を聞いていないわけではない。むしろ、必死だった。少しでも覚えようと、無駄にしないように。それでも講義が進むほど、「どうして、こんなに緊張しているんだろう」と考えてしまう。真剣に教えてくれているのに、失礼だよね、とやや自己嫌悪に陥りそうになった。


やがて、クロトは一歩引く。


「以上です」


「これ以上は、本当に必要ありません」


時間にして、十分ほど。それだけだった。


「ありがとうございました」


桜は、距離ができたことに内心ほっとしながら、深く頭を下げる。


「いえ」


「役目の範囲ですから」


それだけ答えて、クロトは部屋を出ていく。


扉が閉まったあと、桜はその場に立ち尽くした。胸に残るのは、言葉にできない感情だった。それでも――不安は、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


一方、廊下に出たクロトは、足を止める。誰もいないことを確認してから、静かに息を吐いた。


触れなかった。越えなかった。


その事実に、遅れて安堵が広がる。それ以上の感情は、表に出すことは許されない。


再び歩き出す足取りは、いつもと変わらなかった。

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