第38章 ノインの恋煩い① ― いつも通りでいられない理由
水曜日。
城下町は昼前から人通りが多かった。
ノインは巡回の途中だった。
特別師団所属とはいえ、ローテーションで城下町の巡回を担当する日がある。
「すみません」
声をかけられて、足を止めた。
振り返ると、少し困った様子の女性が立っている。
服装は控えめで、目立つ華やかさはない。
けれど、よく見ると顔立ちは整っていて、落ち着いた雰囲気があった。
「この辺に、最近人気の雑貨屋さんがあると聞いたんですが……」
言いながら、周囲を見回す。
「私、どうも方向が苦手で」
「気づいたら、だいぶ逆の方に歩いていたみたいで」
少し照れたように笑う。
その瞬間だった。
胸の奥が、どくりと鳴った。
(……あ)
理由は分からない。
ただ、見た瞬間に――完全に、好みだった。
ノインは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに視線を整える。
「その店でしたら、こちらです」
頭の中で経路をなぞる。
巡回の範囲から、やや外れる。
(少し、遠いな)
だが、足は自然とそちらへ向いていた。
「少し距離がありますが」
「本当ですか。助かります」
その一言で、もう断れなかった。
「巡回の途中なので」
「案内します」
言ってから、内心で小さく息を吐く。
――自分は、昔からこうだ。
二人並んで歩き出す。
店までは、思っていたより距離があった。
最初は無言のまま進んでいたが、
そのまま歩き続けるには、少し長い。
それでも、不思議と気まずさはなかった。
ノインは歩調を合わせ、
前に出すぎることも、距離を取りすぎることもない。
視線も、声も、押しつけがましくなかった。
ふと、エーファが小さく息を吐いた。
ノインは、反射的に歩調を落とす。
「……すみません」
独り言のような声だった。
「どうしましたか」
「いえ、大したことじゃないんです」
「ただ……最近、家が少し騒がしくて」
それ以上は続かない。
ノインは急かさなかった。
無理に聞き出そうともしない。
「縁談の話ばかりで」
「少し疲れてしまって」
知らない相手だからこそ、
口をついて出た言葉だった。
「十八の頃から、ずっとそんな話で」
「何もしないまま決まってしまうのが、どうしても嫌で……」
言葉が、少し詰まる。
「それで、二年前から働き始めたんです」
「運よく、王妃様付きのメイドになれて」
言い方は控えめだった。
自慢でも、愚痴でもない。
「……そうだったんですね」
ノインはそれだけ答える。
励ましもしない。
評価もしない。
ただ、聞いていた。
しばらくして、エーファがこちらを見る。
「……そういえば」
「私ばかり話してしまっていましたね」
小さく背筋を伸ばす。
「エーファ・リンデンと申します」
控えめだが、はっきりした名乗りだった。
ノインは一瞬だけ目を瞬かせ、
すぐに姿勢を正す。
「ノイン・バルクスです」
短く、しかし誤魔化しのない声。
「騎士をしています。特別師団所属です」
エーファは、わずかに目を見開いた。
「特別師団……」
「皆さん、お強い方ばかりだと聞きます」
少し迷ってから、言葉を足す。
「ノイン様も、きっと」
「いえ」
ノインは即座に首を振った。
「まだまだです」
謙遜ではなく、実感としての言葉だった。
雑貨屋が見えてきて、二人は足を止めた。
「ここです」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
エーファは店先を見て、ほっと息をついた。
それから、はっとしたようにノインを見る。
「……ごめんなさい」
小さく首を振る。
「初めてお会いする方に、
私ったら……いろいろ話してしまって」
恥じるように、視線を落とす。
「気になさらないでください」
ノインは、すぐに答えた。
エーファは少し考えるような間を置いてから、
小さく笑った。
「……不思議ですね」
「なぜか、とても話しやすくて」
そう言って、軽く頭を下げる。
「親切にしていただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ」
エーファにとっては、
なぜか話しやすい、少しお人よしな騎士。
けれど、ノインにとっては――
胸の奥が、まだ少し騒がしいままだった。
その感情に、
名前をつける必要があるとも、思っていなかった。




