第35章 動作訓練(文官編②)―― 昨日より動けている
■月曜日 訓練1日目
フリードリヒ・ケラーは、ベッドの上で上体を起こしたまま、しばらく動かずにいた。
視線は左手に落ちている。
「おはようございます」
桜が声をかけると、少し遅れて顔が上がった。
「……おはよう」
一言で分かる。
発音がはっきりしない。
言葉は通じるが、音が崩れている。
この日は、桜が前に立ち、ロッテと介護人一人がそばに控えていた。
「今日は、初めて体を動かしてみようと思います」
フリードリヒは、左手を見たまま言った。
「左が、自分の体じゃないみたいだ。昨日よりは、少しましだが」
「動けるだろうか?」
そう言って、深いため息をつく。
「今日は、できるところまでで大丈夫ですよ。無理はしませんから」
フリードリヒは、黙って頷いた。
ベッドの端に腰を下ろす。
動作は遅い。
左側の動きが、誰の目にも分かるほど鈍い。
「……こんな話し方になるとはな」
自分の声に、本人が眉をひそめる。
「昨日まで、普通にしゃべれていた。仕事も……問題なかった」
語尾が歪み、言葉が途中で途切れる。
桜は急かさず、言葉が出切るのを待った。
「……戻りますか」
短い問いだった。
桜は、少しだけ首を振る。
「今は、分かりません」
正直な答えだった。
「ただ、動いているところは、きちんとありますし」
左足を指す。
「ここにも、力は入っています」
フリードリヒは半信半疑のまま、自分の足を見る。
「……そうか」
「はい」
立ち上がりは、介助つき。
体がこわばるが、立位は保てている。
「……怖いな」
「そうだと思います。支えていますので、ゆっくり足を出してください」
歩くのは、ほんの数歩。
途中で足が止まり、フリードリヒは息を整えた。
ぎこちないが、桜の支えのもと、確かに歩けている。
そのままベッドへ戻り、ゆっくりと腰を下ろさせる。
「今日は、ここまでにしましょう」
その言葉に、フリードリヒの表情がわずかに緩んだ。
「……それだけか」
「あせらずに、いきましょう」
そう言ってから、桜は続ける。
「お話ししにくい音、ありますか」
「……さ行だ。全部、引っかかる」
誰が聞いても分かる構音障害だった。
「分かりました。今は、無理に直さなくて大丈夫です」
「息を整えて、ゆっくりでいいので、声を出してみましょう」
「……さ、さ、さ」
歪んだ音でも、止めない。
「はい。それで大丈夫です」
「動くのは、しばらく私たちがいるときだけにしてください。
ただ、今やっていただいている言葉の練習は、ご自分で続けて大丈夫です。
話しにくいと感じる言葉を中心にしてくださいね」
フリードリヒは、少し考えてから、
「……分かった」
と答えた。
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■火曜日 訓練2日目
翌日。
フリードリヒは、前日よりも早く上体を起こしていた。
「……おはよう」
発音はまだ崩れているが、昨日より言葉が途切れにくい。
「おはようございます。調子はいかがですか」
「……左は、まだ妙だな。だが、昨日ほどじゃない」
それでも表情は晴れない。
この日は、桜が前に立ち、マルタと介護人一人がそばにつく。
「今日は、昨日と同じことをします。
少し体を動かして、少し声も使いましょう」
フリードリヒは、小さく息を吐いた。
「……治らないんじゃないか、と思ってな」
動作に入る前の、率直な言葉だった。
「そう思われる方は、多いです」
桜は否定しない。
「ですが、昨日より動けています。それは事実です」
ベッドの端に腰を下ろす。
動作は相変わらず慎重だが、昨日より迷いが少ない。
立ち上がりも、同様だ。
左足に力が入りにくいのは変わらないが、踏み替えが早い。
「……昨日より、楽な気がする」
言葉は、やはり歪む。
「はい。それで十分です」
歩行は、昨日と同じ距離。
途中で足が止まり、そこで中止。
「無理はしません。今日は、ここまでにしましょう」
休憩のあと、桜が声をかける。
「では、声も少しだけ」
「……さ、さ、さ」
昨日より、音が続く。
「いいですね。今の感じで大丈夫です」
フリードリヒは、しばらく黙ってから言った。
「……昨日よりはいいな」
「はい。昨日とは、違います」
その答えに、フリードリヒは小さく頷いた。
「声を出すのは自分で頑張るよ」
悲観は、まだ消えていない。
だが、完全に立ち止まってもいなかった。
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■ロッテからクラウスへの報告 訓練3日目
朝の引き継ぎ後、ロッテは簡潔に切り出した。
「文官のフリードリヒ・ケラーですが、本日で三日目です」
クラウスは手元の書類から視線を上げた。
「状態は?」
「左の動きはまだ鈍いですが、起き上がり、立ち上がりは昨日より安定しています」
言葉を選びながら、続ける。
「歩行は、短距離であれば介助つきで可能です。
恐怖感はありますが、拒否はありません」
「構音は?」
「はっきりしませんが、昨日より言葉が途切れにくくなっています。
ご本人も、自覚されています」
一拍置いて、付け加えた。
「ご本人も、構音訓練を続けています」
クラウスは小さく頷いた。
「……三日目としては、悪くない。
動作訓練を入れた意味は、十分にあるな」
ロッテは、安堵したように息を吐く。
「はい。動作も手順が安定してきましたので、
今後看護師は誰が入っても対応できると思います」
その言葉に、クラウスははっきりとうなづいた。
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■料理3回目
水曜日の昼。
桜は、護衛を伴って台所へ向かった。
今日も、別の料理人が一人、手伝いに入っている。
作るものは、前回と同じ。
献立は変えない。
手順が決まっているほうが、余計な確認がいらなかった。
出来上がった料理の一部は、診療所の介護人へ渡す。
さらに一部は、食堂の料理人たち用に、手伝ってくれた料理人へ。
そのほかにも、時々部屋の掃除に入ってくれるメイドが取りに来た。
噂を聞きつけたのか、
部屋の掃除に来た際に声をかけられたのだ。
メイド仲間と味見するつもりらしい。
部屋に戻ると、
桜は、部屋担当のなじみの護衛と一緒に席についた。
「……おいしいですね」
護衛が、飾り気なく言う。
「よかったです」
桜は、いつも通り、ほっと小さく息を吐いた。
今度こそ、クロトに声をかけられたら。
そんなことを、頭の片隅で思う。
料理人が、野菜などをすごい勢いで切ってくれるから、
実際のところ、味付けをしているだけに近い。
それでも。
せっかくなら、
故郷の味を食べてほしいと思ってしまう。
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■訓練4日目~9日目
四日目以降、経過は安定していた。
動作訓練は、引き続き毎日行われた。
四日目からは、桜がいても必ず対応するわけではなく、
その日の勤務状況に応じて、
看護師一名と介護人一名の体制に切り替えられた。
起き上がり、立ち上がりは自立。
左手の動きも、日ごとに滑らかになる。
細かな動作にはまだ時間がかかるが、
日常生活に支障が出るほどではなかった。
左足の動きだけは、
わずかにぎこちなさが残る。
だが、歩行は安定しており、
見守りがあれば問題なく病棟内を移動できている。
構音障害は、七日目にはほぼ消失した。
言葉が途切れることもなくなり、
本人も「もう気にならない」と口にするようになる。
恐怖感は完全には消えない。
だが、
「昨日より動けている」
「一人でできた」
そうした小さな確認を重ねるうちに、
表情は徐々に明るくなっていった。
七日目以降は、介護人一名の付き添いのみ。
動作訓練は短時間で無理なく行われ、
疲労を残すこともなくなった。
九日目の昼。
診察と最終確認を終え、
翌日の退院が決まる。
左手は問題なく動く。
左足も慎重ではあるが、日常動作には支障がない。
言葉は明瞭。
仕事復帰に制限は不要と判断された。




