表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/44

第34章 動作訓練(文官編①)―― 動かすという選択

その朝、フリードリヒ・ケラーは執務机に向かっていた。王宮文官として三十年以上勤めてきた彼にとって、書類仕事は日常であり、特別な意味を持つものではない。確認し、署名を入れ、次へ回す。それを淡々と繰り返すだけだ。


机の端の書類を手に取り、椅子から立ち上がった瞬間、足元が揺れた。つまずいたのだと思った。床は平らで、見慣れた執務室だ。だが次の瞬間、左脚に力が入らないことに気づく。体が傾き、反射的に机へ手を伸ばした。しかし左手は思った位置に届かず、書類が床へ散らばった。


「ケラー様?」


声をかけられ、返事をしようと口を開く。だが言葉がうまく形にならない。舌が重く、短い一言が不自然にもつれて落ちた。自分の声が、ひどく他人行儀に聞こえる。


左右から腕を取られ、身体を支えられた。視界ははっきりしている。意識も途切れていない。それでも、左側だけが言うことをきかなかった。


「診療所へ。急げ」


誰かの声が飛ぶ。担架を取りに行く者はいなかった。王宮診療所は近い。二人がかりで身体を抱え上げられ、そのまま廊下へ向かう。歩こうとして、足が出ない。その事実が遅れて胸に落ちた。


――まずい。


理由は分からない。ただ、これまで経験したことのない異変だということだけは、はっきりしていた。


フリードリヒ・ケラーは、そうして王宮診療所へ運び込まれた。


________________________________________


■診断・初期対応


日曜日の王宮診療所は静かだった。外来はなく、当番の医師一名と看護師一名、介護人が数名詰めているだけだ。その静けさを破るように、慌ただしい足音が廊下を走った。


「文官が一人、倒れました」


担ぎ込まれた男は、意識を失ってはいなかった。呼びかけに応じ、視線も定まっている。ただ、身体の左側に、はっきりとした違和感があった。


クラウスはまず全身を確認する。呼吸は安定している。顔色も悪くない。脈も整っていた。次に、簡単な指示を出す。


「右手を上げてください」


問題なく動く。


「左を」


左手は、わずかに遅れ、途中で止まった。


構音の確認を行う。短い言葉を繰り返させると、発音が少しもつれるが、内容理解に問題はない。意識は清明だ。


出血の可能性を否定するため、魔力式レントゲンを使用した。頭蓋骨に異常はなく、脳内に明らかな出血像もない。大きな圧排所見も認められなかった。画像だけで原因を断定できる情報はない。


だが、症状は揃っている。


左片側の運動障害。軽い構音障害。急な発症。


「……出血ではないな」


クラウスは低く呟いた。


嚥下の確認を行う。少量の水を与え、喉の動きと呼吸を観察する。むせはなく、声の変化もない。飲み込みは保たれている。


「軽い脳梗塞の可能性が高い」


言い切りはしない。だが、方針は定まった。


クラウスは看護師に視線を向ける。


「点滴を一本。維持水Ⅰで」


寝台の脇で準備が進む。前腕に針が刺され、透明な液がゆっくりと落ち始めた。速度は抑えめだ。治療ではない。脱水を防ぎ、これ以上悪くさせないための、保険にすぎない。


――これも、また別の巫女が残したものだ。


十年前にここへ来た頃には、すでにゼフィーリアでは日常的に使われていた。


異界の医療・薬学の知見を持つ、元・異界巫女。

桜の叔母であり、桜の前にその役目を担っていた人物だ。


王宮に仕えていたわけではないが、

彼女がもたらした医療知識――簡易点滴の技術は、

今も王宮医療の基盤の一部になっている。


治癒魔法とは別に、「体を支える水」を制度として残した。


点滴は、脱水を防ぐことしかできない。

それでも、治癒魔法をかけ続けることはできない以上、

落とさないためには、これで十分だった。


嚥下が保たれている以上、点滴が主役になることはない。抗血小板作用のある薬草を粉末にし、少量のとろみをつけた水で内服させる。会話を続けながら、呼吸と喉の動きを確かめる。


安静を指示し、体位を整える。強い頭痛はない。吐き気もない。症状は軽度だが、油断はできなかった。


クラウスは記録用の紙に、淡々と状況を書き留めていく。日曜日であることを、意識の端で確認する。


――今日は、ここまでだ。

明日、どこまで動ける状態かを確認しよう。


状態が安定しているのを確認し、クラウスはベッドサイドを離れた。


________________________________________


■桜の帰還


桜とクロトは、リエットと異界からの転移部屋で別れ、廊下に出た。


「では、いきましょうか」

「はい。お願いします」


日曜日の昼。

王宮の廊下は人影もまばらで、足音だけが静かに響いている。


少し歩いたところで、桜が思い出したように口を開いた。


「あ、そういえば……」


クロトが、わずかに視線を向ける。


「この間、料理を作ったんです。

もう、二回ほど」


ほんの近況報告のつもりだった。


「……うまく、いきましたか」


問いかけは短い。

料理のことだと、はっきり分かる調子だった。


桜は少し考えてから、肩をすくめる。


「うーん……まあ、まあですかね」


失敗ではない。

けれど、胸を張って言えるほどでもない。


「そうですか」


それ以上、話は続かない。

評価を求められているわけでも、

詳しい説明をする場でもなかった。


しばらく、沈黙。


本当は、別の言葉があった。


――いつか、クロトさんにも食べてほしい。

私の故郷の味を。


けれど、その「いつか」を口にする勇気は、まだない。


部屋の前に着くと、クロトが先に扉を開ける。


「では」

「ありがとうございました」


桜が中に入り、扉が閉まる。

足音が、静かに遠ざかっていった。


ひとりになった部屋で、桜は小さく息を吐く。


「……また、言えなかったな」


________________________________________


■判断


王宮診療所では、朝の簡易カンファレンスが開かれていた。


詰所の中央に置かれた長机を囲み、夜勤を終えたロッテが紙束を手に取る。

感情を挟まず、順序を崩さず、淡々と読み上げていく。


「文官、フリードリヒ・ケラー、六十歳。

昨日、執務中に倒れ搬送。意識清明。

左上下肢に軽度の運動障害あり。構音障害、軽度。

嚥下問題なし。出血所見なし。

血液をサラサラにする薬草、内服継続。

点滴は昨日一本で終了しています」


報告は、ここで一区切りついた。


軽度で、安定している。

これまでなら、それ以上の話は出ない症例だ。


「……動作訓練は、しないんですか?」


桜の声は小さく、自然だった。

疑問というより、確認に近い。


ロッテが一瞬、言葉を探す。


「……動作訓練ですか?」


少し考えてから、答える。


「今までは……脳梗塞のあとも、特別なことはせず、

本人が動けるようになるのを待っていました」


それが、この世界の常識だった。


クラウスも頷く。


「基本は安静だ。

回復は、本人の動作に任せてきた」


否定でも弁解でもなく、事実の確認だった。


そのまま、クラウスは桜を見る。


「……サクラの世界では、違うのかい?」


桜は少し考えてから、頷いた。


「はい。状態が安定していれば、早めに体を動かします」


記録に視線を落としたまま、続ける。


「動かさない時間が長いほど、

麻痺がそのまま残ることが多いので」


説明は短く、淡々としていた。


「この間のタンバさんも……

早く介入したことで、動きが戻りやすくなりました」


ロッテが、小さく息を吸う。


「……待つ方が、安全だと思っていました」


「必ずしも、そうとは限りません」


桜は首を振る。


「軽度なら、なおさらです」


クラウスは、もう一度フリードリヒの記録を見る。


軽度。意識清明。嚥下良好。

動かせない理由は、見当たらなかった。


動作訓練に関する判断は、すでにエルンストから一任されている。

ここは、自分が決める場所だ。


クラウスは顔を上げ、桜に向けて言った。


「では、この症例に動作訓練を導入する。

サクラが知っている方法を取り入れて、

いつも通り開始してくれ」


桜は頷く。


「分かりました」


クラウスは、そのままロッテへ視線を移す。


「いつも通り頼むよ」

「はい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ