第20章 小さな願い――外出前/戦闘前――
■桜の外出希望
それを聞いたのは、
診療所での、ほんの短い休憩時間だった。
「この前ね」
介護人で、私より二つ年上のヘンリエッタが、
いつもの調子で話し出す。
「街で、すごく美味しいお店を見つけたのよ」
桜は、手を止めて顔を上げた。
「食事がちゃんとしていて」
「それでいて、デザートも美味しくて」
「変に気取っていないのに、当たり、って感じなの」
話し方が楽しそうで、
聞いているだけで様子が浮かぶ。
「……いいなぁ」
桜は、思わず口にした。
それは、
深く考えた言葉ではなかった。
けれど、
ヘンリエッタは、その一言を聞き逃さなかった。
「でしょ?」
少しだけ声を弾ませて、言う。
「もし、外に出る許可が出ることがあったら――」
一拍、間を置いて。
「私、連れていくわよ」
桜は、驚いて瞬きをした。
「え……?」
「だって、
すごく美味しいのよ。桜にも、ぜひ食べてほしいわ」
あまりにも当たり前のように言われて、
桜は、正直戸惑った。
無理だろうな、と思った。
――それでも。
お店も気になるし、
城下町も、少し見てみたいと思った。
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その日の午後。
リーゼとの文字の勉強が一段落したところで、
桜は、少しだけ迷ってから口を開いた。
「……あの」
「診療所で聞いた話なんですけど」
リーゼは、ペンを止めて桜を見る。
「街に、
食事が美味しいお店があるそうで」
「……行ってみたいな、と思って」
願望をそのまま口にするには、躊躇した。
リーゼは一拍置いてから、
「わかりました。師団長へ確認します」
と、何でもないように返事を返された。
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■桜への外出許可
神殿の奥、
小さな会議室に集まったのは、四人だけだった。
神殿長。
リエット・セレス。
特別師団長。
そして、クロト。
神殿長が、静かに口を開く。
「結論から言います」
「条件付きで、外出を認めましょう」
特別師団長は、すでに状況を把握していた。
「事件後の調査は、ひとまず区切りがついた」
「直接関与した過激派は、主要な者から順に拘束している」
「残りも把握済みで、時間の問題だ」
「今のところ、差し迫った脅威はない」
リエットが、簡潔に頷く。
「結界も、問題ありません」
それだけで十分だった。
神殿長が、視線を上げる。
「警備は?」
特別師団長は、迷いなく答えた。
「外出時も、
安全を確保できる体制は整えられる」
「表に出す警備は最小限にする」
「裏は、抜かりなく張る」
クロトは、
一言も挟まずに聞いていた。
神殿長は、
少しだけ声の調子を和らげる。
「……それに」
「個人的な意見ですが」
一拍、間を置く。
「彼女に、
この世界を見てほしいと思っています」
リエットが、静かに続けた。
「これまで、
桜は一度も外に出たいと言いませんでした」
「必要以上に、
遠慮していたのだと思います」
特別師団長が、短く息を吐く。
「それが、
今回は自分から口にした」
「珍しいな」
「ええ」
神殿長は、穏やかに言った。
「守れる状況があり」
「本人が望んでいる」
「それを認めない理由はありません」
「むしろ、
外出したいという希望を口にしない方が、
気がかりだったくらいです」
クロトは、
その言葉を黙って聞いていた。
(……見てほしい)
この国の街を。
人の暮らしを。
神殿長が、最後に告げる。
「外出、承認する方向で、よろしいですね」
誰も反対しなかった。
会議は、
それで終わった。
クロトは席を立ちながら、
一つだけ思う。
彼女が、
この世界を少しでも
“自分の場所”として感じてくれるなら……と。
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■浮足立つ足取り
結界修正を終えると、
「これからお出かけですね?」
結界の様子を確認しながら、リエットが桜に声をかけてきた。
「そうなんです」
桜は、気持ちのままに笑みを浮かべて答える。
リエットも微笑んで、
「楽しんできてくださいね」
と言った。
桜は、制御室を後にする。
いつも通り、騎士が部屋までの護衛につく。
外に出る。
その言葉を心の中でなぞるだけで、
楽しみが、少しずつ膨らんでいく。
思考は自然と、
城の外へ向かっていた。
城下町は、
どんな雰囲気なのだろう。
ほかにも、いろいろなお店を見られたら嬉しい。
食事は――
きっと、美味しいのだろう。
考えて、
桜は小さく自省する。
浮かれすぎない。
自分でできる警戒は、きちんとしなければ。
何度も、自分に言い聞かせてきた言葉だ。
それでも、
歩き出した足取りは、
いつもより明らかに軽かった。
外出用の洋服に着替えて、
出かける準備をしないと。
そんなことを考えながら、
桜は浮かれた気持ちのまま、
部屋へと戻っていった。
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■国境付近の森にて
カスティア王国との国境付近の森で、
結界の揺らぎが感知されたのは、
昼を少し過ぎた頃だった。
揺らぎは小さい。
だが、形が悪い。
結界が不安定になったというより、
一瞬だけ、
ほころぶように歪んだ。
――魔物が出る。
そう判断するには、十分だった。
結界の状態を監視していたリエットは、
即座に、
自分についていた護衛騎士へと状況を伝える。
「国境付近の森で、
結界の揺らぎを確認しました」
護衛騎士は、
余計な確認を挟まず、
そのまま所属する師団長へ報告を上げた。
情報は、
短い時間で各師団へと共有される。
揺らぎの規模。
場所。
想定される状況。
どれも、
大規模な動員を必要とするものではない。
師団長同士で、
簡単なやり取りが交わされた。
「規模は小さい」
「数は多くないだろう」
「特別師団で対応可能だ」
結論は、すぐに出た。
今回の派遣は、
少数精鋭。
特別師団副師団長のクロトと、
第5班のメンバー十名が、
現地へ向かうことが決まった。
準備は迅速だった。
装備の確認。
魔力の状態。
魔法陣使用の手順。
全員が、
慣れた動きで支度を整えていく。
クロトは、
必要最低限の指示だけを出し、
最後に一度、状況を確認した。
「揺らぎは一瞬」
「反応は弱い」
それだけで十分だった。
魔法陣が展開され、
転移が始まる。
視界が切り替わった先は、
カスティア王国との国境付近の森だった。
空気は静かで、
異変は、すでに収まったかのように見える。
結界の綻びは、
すでに閉じている。
――だが。
次の瞬間、
森の奥から、
嫌な気配が立ち上った。
魔物が、数体。
想定の範囲内だ。
この規模なら、
対処は難しくない。
クロトは、
静かに前を見据えた。




