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第19章 怖さを抱いたまま

■音が戻るまで


目を閉じているうちに、

感覚が、少しずつ戻ってきた。

天井がある。

壁がある。

自分が、ベッドに横になっていることも分かる。

息を吸って、吐く。

それが、きちんとできている。

「体は……大丈夫そうですね」

そばから、穏やかな声がした。

リーゼだった。

桜は、ゆっくりと視線を動かす。

リーゼは椅子に腰掛け、

必要以上に近づかず、

けれど、目の届く位置にいた。

「気分はどうですか」

「……混乱は、していますけど」

桜は、正直に答えた。

頭の中が、きれいに整理されているわけではない。

何が起きたのか、

どうしてああなったのか、

すべてを理解したとは言えない。

それでも。

「……なんとか」

それだけ、口にした。

リーゼは何も言わずに頷いた。

それ以上、先を求めなかった。

桜は天井を見つめたまま、

ゆっくりと言葉を重ねる。

「でも……」

「クロトさんが、

 私をかばってくれたことは、

 分かります」

「怪我を、

 したかもしれないことも」

胸の奥が、きゅっと縮む。

それは恐怖ではなく、

後悔に近い感覚だった。

「私……」

「ずっと、

 安全な場所にいるつもりでいました」

「王宮からも出ないし、

 結界を直すことだけを考えていればいいって」

「正直、

 安穏としていたと思います」

リーゼは、静かに聞いている。

遮らない。

急かさない。

「だから……」

桜は、一度息を吸った。

「これからは、

 自分のことで、

 誰かを傷つけないために」

「できる限り、

 注意を払いたいと思います」

それは、決意というほど強いものではない。

けれど、

自分なりに現実を引き受けようとする、

精一杯の整理だった。

少し間を置いて、

桜は、別のことを口にした。

「……もし」

「クロトさんが、

 本当に怪我をしていたら」

「……謝りたいです」

自分の存在が原因で、

誰かが傷ついたかもしれない。

そのことを、

なかったことにはしたくなかった。

リーゼは、

ほんの一瞬だけ考えるような間を置き、

穏やかに言った。

「それは、

 あまり嬉しくありませんね」

桜は、少し驚いてリーゼを見る。

「護衛対象に、

 謝られるのは」

「騎士としては、

 あまり喜べることではありません」

言葉は柔らかいが、

はっきりしていた。

「謝罪は、

 “間違いを犯した側”がするものです」

「ですが、

 あなたは、

 守られるべき立場だった」

「それに、

 守ったこと自体を、

 後悔させるような言葉は」

「騎士にとって、

 あまり良いものではありません」

桜は、黙って聞いていた。

「ですから」

リーゼは、少しだけ微笑む。

「どうしても言葉をかけたいなら」

「謝るより、

 お礼を言ってあげてください」

「守った意味を、

 否定しない言葉を」

桜は、しばらく黙り込んだ。

「……そう、ですね」

小さく、頷いた。

まだ、

すべてを整理できたわけではない。

怖さも、

後悔も、消えない。

それでも。

自分が守られたという事実と、

それをどう受け止め、

どう返していくか。

桜は、

そこから考えようとしていた。

________________________________________

■早めの帰宅希望


桜は、

しばらく考えるように視線を落としてから、

もう一つだけ、口を開いた。

「……リーゼさん」

「はい」

「今日は、木曜日ですよね」

「ええ」

桜は、

ゆっくりと言葉を選ぶ。

「できれば……」

「明日は、

 結界調整を入れずに、

 今日、いったん家に戻りたいです」

リーゼは、

驚いた様子も見せず、

ただ続きを待つ。

桜は、少しだけ息を吸った。

「……正直に言うと」

「怖くて」

言葉にした瞬間、

胸の奥が、きゅっと縮んだ。

「爆発のこともありますし……」

「結界制御室に入ること自体が、

 今は、

 怖い場所になっています」

逃げたい、とは違う。

あえて言葉にするのなら、悪い空気をかえたかった。

「だからこそ」

桜は、静かに続けた。

「そのまま、

 怖い場所のままでいたくなくて」

「特別な場所にも、

 緊張する場所にも、

 なってほしくないし」

結界制御室は、

桜にとって

“仕事をする場所”でなければならない。

「いったん、

 普段の生活に戻って」

「家に帰って、

 食事をして、

 眠って」

「それから、

 何事もなかったように、

 また戻ってきたいって」

「その方が、

 私は、結界に向き合える気がします」

怖さをかかえたまま、

役目に向かいたくない。

それが、

桜の正直な気持ちだった。


________________________________________

■判断の共有


桜の申し出は、

その日のうちに、関係各所へ伝えられた。

神殿。

騎士団。

結界の状態は、

リエットの介入によって安定している。

緊急の再調整が必要な段階ではない。

「妥当な判断です」

神殿長は、そう結論づけた。

「恐怖を抱えたまま結界に向かう方が、

 よほど危険です」

「一度、彼女の世界の日常に戻り、

 呼吸を整える時間を取ることは、

 決して逃避ではありません」

リエットも、静かに頷いた。

「桜は、戻ってきます」

それは断言だった。

「怖さを言葉にできる人は、

 役目から目を逸らしません」

「むしろ、

 きちんと向き合おうとしている証です」

騎士団側も、異論はなかった。

警備計画を調整し、

帰宅と再合流の動線を整理する。

「日曜日の夕方には戻る」

その言葉を、

誰も疑ってはいなかった。


________________________________________

■ただ一人の逡巡


クロトも、表向きは何も言わなかった。

桜の判断が合理的であることは、分かっている。

結界は安定している。

神殿も、騎士団も、問題なしと判断した。

――正しい判断だ。


それでも、

胸の奥に、小さく、言葉にならない思いが残る。


(……戻ってこない方が、

 良いのではないか)


その考えは、理屈から出たものではなかった。

この国にいなければ、狙われることもない。


(本当は――)


ここに戻らず、

元の世界で、

安全に暮らした方がいい。

その方が、

彼女は、苦しまずに済む。


クロトは、

その思考を、静かに飲み込んだ。


________________________________________

■実家にて


移動のための魔法陣までの護衛は、

リーゼを含む特別師団の二名が対応してくれた。

皆、今回の事件の対応で忙しいのか、

それとも私に気を使ってくれたのか、

見送りはその二人だけだった。

鏡の向こうから、

桜は静かに部屋へ戻ってきた。

音もなく、

魔法陣も残らず、

ただ、いつも通りの自分の部屋。

フローリングの感触が、

足の裏に直接伝わる。

部屋の空気は、

どこまでも現実だった。

「……」

何か言おうとして、

言葉が出てこない。

桜はそのまま廊下へ出て、

居間の方へ歩いた。

足音が、

やけに大きく響く。

「……あ」

台所にいた母が、振り返る。

「帰ってきたの?」

その一言だった。

その顔を見た瞬間、

胸の奥が、

一気にほどけた。

喉が詰まる。

言葉より先に、

涙が出た。

ただただ、涙があふれる。

「……え、ちょっと」

母が慌てて近づく。

「どうしたの」

桜は首を横に振ろうとして、

うまくいかなかった。

「……ごめん」

それだけ、かろうじて言う。

「ごめんじゃないでしょ」

母は困ったように言って、

桜の肩に手を置いた。

「ほら、こっち来なさい」

そのとき、

廊下の奥から声がした。

「……帰ってきたと思ったら」

姉だった。

「今の気配で分かった」

桜は涙を拭いながら、

少しだけ口を尖らせる。

「……別に」

「泣くつもりじゃなかった」

「はいはい」

姉は肩をすくめる。

「そういう時ほど、

 だいたい泣いてる」

「お茶、のむ?」

姉は桜の返事を聞く前に、

急須にお茶の葉を入れる。

母は桜の前に座る。

しばらく、

誰も何も言わない。

やがて、

湯のみが置かれる。

立ち上る湯気。

桜は両手で湯のみを包むように持ち、

一口、飲んだ。

温かさが、

喉を通っていく。

それだけで、

少し心が落ち着いた気分になる。

もう一口。

胸の奥に残っていたざわつきが、

静かに引いていくのが分かった。

涙も、自然に止まる。

桜は湯のみを見つめたまま、

ぽつりと言う。

「……向こうでね」

母も、姉も、

何も言わずに待つ。

桜は、

起きたことを順に話した。

特別な言い方はしなかった。

事実と、

そのとき自分が何を思ったのかを、

淡々と並べただけだ。

怖かったこと。

守られたこと。

そして、

自分がそこにいることで、

誰かが傷つくかもしれないと知ったこと。

母も姉も、

途中で口を挟まなかった。

すべてを聞き終えてから、

母が口を開く。

「……正直に言うね」

桜は頷く。

「もう、行ってほしくない」

その言葉は、

強くも、厳しくもなかった。

ただ、

家族としての本音だった。

姉も続ける。

「危ない場所に、

 自分の家族を行かせたいわけないでしょ」

桜は、

少しだけ息を吐いた。

胸の奥が、

静かに落ち着いていくのが分かる。

「……うん」

「そう言われると思ってた」

母と姉の視線を受けて、

桜は、はっきり言う。

「それでも、戻らなきゃ」

「怖さは消えない」

「でも」

「ここに家族がいてくれるから」

「私は、ちゃんと戻れる」

母は、

すぐには答えなかった。

やがて、

小さく息をつく。

「……分かった」

「だったら、何度でも言う」

「無理しないこと」

「危ないと思ったら逃げること」

姉も、苦笑する。

「生きて帰ってくるのが条件」

桜は、

家でしか見せない顔で笑った。

「はいはい」

その夜、

怖さは消えることはないのだと、

桜は痛感した。

だからこそ、

怖さを抱えたまま、

どう向き合うかだと思った。

その後、金曜日は家でいつも通り過ごし、

土曜日は勤務先へ出勤した。

日曜日の夕方に、いつも通り帰還する。

特別なことは、何もなかった。


________________________________________

■王宮内未遂事件に関する協議


 王宮奥の会議室には、必要最低限の者だけが集められていた。

 異界の巫女が実家に戻っている間に行われる、非公式に近い協議である。

 国王の前に、宰相、軍務卿、神殿長、そして外務大臣アルト・ヴァルハルトが席についた。

 宰相が口を開く。

「現時点での整理をご報告いたします」

 簡潔な前置きの後、淡々と続けた。

「今回の未遂に直接関与した終末思想教団の過激派構成員については、身柄の確保を進めております。主要な実行関与者は、すでに拘束下にあります」

 軍務卿が小さく頷く。

「ただし、関与が確認された全員の確保には至っておりません。一部は所在確認の段階にありますが、王都および王宮内に新たな動きは確認されておらず、拘束は時間の問題と判断しております」

 宰相は一拍置き、話題を移した。

「使用された装置は、結界修正時に巫女の魔力反応を起点として発動する、魔力干渉型の誘発装置でした」

 神殿長が、その説明を引き取る。

「通常の結界防御および検知を回避する構造です。設計および設置には、高度な魔力技術と、神殿内部の動線および権限構造への理解が不可欠でした」

 神殿長は静かな声で、結論を述べた。

「外部勢力のみで成立する犯行ではありません」

 軍務卿が低く言った。

「内部協力者がいた、ということですね」

「はい」

 神殿長は否定しなかった。

「王宮所属、神殿関係者であり、異界の巫女に極めて近い職務領域にいた人物です」

 会議室の空気が、わずかに張り詰める。

 アルトが、場を整えるように静かに口を開いた。

「終末思想そのものを問題にしているわけではない、という理解でよろしいですね」

 宰相は即座に頷いた。

「あぁ。その点は、今回の判断対象ではない」

 アルトはその前提を受け取り、外務としての報告に移った。

「今回の件を踏まえ、各国との情報共有を強化します」

「思想の扱いは国ごとに異なりますが、行動に移った時点でのみ問題として扱われている。その点は共通しています」

「今回の未遂は、その線を越えました」

 国王は、しばらく黙したまま全員を見渡していた。

「……すべてを防ぐことは、不可能だ」

 低く、だが明確な声だった。

「だが、ここは王宮だ。神殿だ。異界の巫女に最も近い場所でもある」

 一人一人に、ゆっくりと視線を向ける。

「見逃した、では済まされない」

 軍務卿が応じる。

「人員管理、職務権限、接近可能区域。段階的に見直します」

「神殿も同様に対応いたします」

 神殿長が続けた。

 国王は小さく頷いた。

「よろしい。この件は、ここまでとする」

 そして、最後に一言、付け加えた。

「異界の巫女に、不要な重荷を背負わせるな」

 異論を挟む者はいなかった。


________________________________________

■いつも通り


日曜日の夕方。

転移地点には、リエットとクロトが立っていた。

リエットは、

誰に対してもそうするように、

魔法陣の様子を確認しながら待っている。

クロトは、

最初から桜の方だけを見ていた。

何も言わない。

けれど、

その立ち位置だけで、役割ははっきりしていた。

桜が足を踏み出すと、

リエットが一歩前に出る。

「もう、大丈夫です」

桜は頷く。

「また明日、

 宜しくお願いします」

それは、

明日も当たり前のように続く予定を、

淡々と確認しただけだった。

リエットはそれ以上何も言わず、

そのまま持ち場へ戻っていく。

残ったのは、

桜とクロトだけだった。

二人は並んで歩き出す。

しばらく、

足音以外の音はなかった。

桜は、

少しだけ間を置いてから、口を開く。

「……怪我、しませんでしたか」

クロトは、視線を前に向けたまま答える。

「肋骨にひびが入っただけです」

事実を述べるだけの、

いつも通りの声。

桜は、

ほんの一瞬、息を詰める。

けれど、

立ち止まらずに続けた。

「……守ってくれて、ありがとうございます」

それは、

リーゼに言われた通りの言葉だった。

クロトは、

歩調を変えない。

ただ、

わずかに息を吐く。

桜は、

その横顔を見ないまま、

続ける。

「守られるだけじゃなくて、

 自分のことも、ちゃんと気をつけます」

言い切ったのは、

それだけだった。

クロトは、

何も言わず、

一度だけ、うなづく。

それで十分だった。

明日も、

いつも通り。

けれど、

その「いつも通り」の中身は、

確かに、少しだけ違っていた。


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