幕間 静かな寄り道
訓練当日の夜、クロトは実家に戻っていた。
理由は単純だった。
外交官である兄――外務大臣アルト・ヴァルハルトから、
今回の訓練について、簡単な報告をしてほしいと頼まれたからだ。
ヴァルハルト家の屋敷には、
兄と、その妻、5歳になる娘、
そして複数の使用人たちが暮らしている。
クロトにも、かつて使っていた部屋が一つ、今も残されていた。
もっとも、
クロトが実家に帰ることは、そう多くない。
巫女護衛責任者という立場もあり、
普段は王宮内の自室で過ごすことがほとんどだ。
実家に顔を出すのは、二か月に一度ほどだった。
翌日の水曜日は、
クロトにとって、たまたま休みにあたっていた。
実家での用件を終え、王宮へ戻る途中、
彼は町へと足を向ける。
評判の菓子店があると聞いていた。
理由を、言葉にすることはない。
疲れがたまると、サクラはいつも甘いものを口にしていた。
箱に収められたケーキを手に、
クロトは、そのまま寄り道をすることにした。
ほんの少し、顔を出すだけだ。
長居をするつもりはない。
それで十分だと、彼は思っていた。
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実施訓練の翌日、水曜日。
訓練の疲れが、ようやく身体に出てきたのだと思う。
朝は少し遅くまで眠り、
昼前になって、ようやく居間に降りてきた。
特別なことはしていない。
お茶を淹れてもらい、
窓から入る光を、ぼんやりと眺めているだけだ。
頭の中には、
昨日の訓練と反省会の光景が、まだはっきりと残っていた。
そのとき、
玄関の方で、控えめな音がした。
ノックというより、
様子をうかがうような、遠慮がちな気配。
誰だろう、と思いながら立ち上がり、
玄関へ向かう。
扉を開けた瞬間、
視界に入ったのは、見慣れた銀色だった。
「……クロトさん?」
思わず、声がそのまま出る。
「お休みでしたので」
淡々とした声。
いつもと変わらない表情。
その手には、小さな箱があった。
「お疲れではないかと思いましたので」
それ以上の説明はない。
桜は一瞬、驚いたが、
すぐに小さく息を吐いて、笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
クロトは軽く頷く。
「少しだけ、顔を出すつもりでしたので。
これで失礼します」
本当に、それだけだった。
疲れていそうだから、甘いものを持ってきた。
それ以上でも、それ以下でもない。
それは、よく分かっている。
分かっているのに――
手に残った箱の重みが、
胸の奥まで、じんわりと温かかった




