第15話
「あたし、左腕と毛布を探しておくよ。手術はたまかちゃんにお願いしていいかな」
体温の測定器具を『ブルー』の少女へ装着しながら、たまかはほんの一瞬返事を躊躇った、ように見えた。
「……いえ」
たまかは器具の画面を確認しながら、小さく首を横へと振った。
「爆弾がある危険性がありますから……、その役は私がやります」
「え、でも……」
「私、先輩よりも慎重というか、細かい所を気にする性格ですので、私の方が向いていると思うんです」
……そう言われたら、菖蒲にはもう何も言い返せない。これまでの道程で菖蒲が痛い程感じてきたことだからだ。
「でも、たまかちゃんが探しに行っちゃったら——」
手術は、菖蒲が担当することになってしまう。菖蒲は顔を曇らせた。
(爆発に直に巻き込まれて、損傷も激しくて、でもその中で必死に死に抗い続けてきた『ブルー』のこの子の頑張りも、患者のために危険を冒してまで治療をしに来て、絶対に死なせないと揺るぎない熱意のままひた走るたまかちゃんの努力も。全部水の泡にしちゃうかもしれない)
自分は黒鳥で、白鳥とは違う。それを自覚してから、失敗は当たり前のものだと諦めてきた。でも、やっぱり。彼女達の奇跡と熱意を目の前で見てきて、その結果が自分の手に全て委ねられるのは、少し……怖い。
「……ね、やっぱりあたしが腕と毛布を探すよ。大丈夫、ちゃんと慎重に探すから——」
「先輩」
体温を確認しながら、たまかははっきりと声を響かせた。画面を確認する小さな横顔は、揺るぎない目を真っ直ぐと器具へ向けていた。
「先輩、言ってくれましたよね。私は患者さんのことを想って行動出来ている、って」
……確かに言った。そして、それは菖蒲の本心であり、事実だ。たまか以上に患者のために行動出来る人間など、然う然ういない。
「私は患者さんを救うためなら、全力を尽くします。患者さんに万が一のことがあってはいけないと何度も確認をして、丁寧に、慎重に、治療を行います。恐らく……私はこの不安を、いい方向に発散出来ているのだと思います」
言いながら、たまかの手がパルスオキシメータ―へと伸びた。『ブルー』の少女の指先へ装着する。
「私も先輩も、根底の気持ちは同じなんです。だから私、先輩になら安心して任せられます。先輩が、私なら任せられると言ってくださったように」
たまかは口を動かしながらも、手際良くイルリガードルスタンドを組み立てていく。彼女は完全に手術を菖蒲に任せる気らしい。それも、菖蒲のことを心から信頼して。菖蒲はたまかの言葉に目を見開いたまま、緩慢に首を横へと振った。
「……同じ? 違うよ……あたしとたまかちゃんは違う」
黒鳥は、白鳥とは違う。その足跡一つすらない衾雪のような純白さと、何もかもを塗り潰してしまうような漆黒が、同じはずがない。眩しい程の白さは、到底黒鳥に手が届くようなものではないのだ。
「あたし……すぐ手が攣っちゃうし」
不器用で、何度もミスをして。
「ちょっとそそっかしいし」
確認を怠って、その努力も出来なくて。
「筆記試験の成績も上位取ったことないし」
物覚えも悪くて、頭も良くなくて。
「サボりとか遅刻もするしさ」
要領が良くなくて、熱意もなくて。
「いやー、頑張ってるんだけどね? でも、もうしょうがないかなって」
……沢山、嘘をつく。たまかのような誠実さとは真逆の人間だ。
「だから、あたしに患者を任せちゃ駄目だよ」
それが、患者のためだから。どうしようもない自分では、いくら患者を救おうとしてもこの手で殺してしまうから。白鳥にはなれないし、なろうとも思わないから。こういう、人間だから。
「……」
手術の準備のために素早く動き続けていたたまかの手が、ピタリと止まった。たまかは顔をあげ、菖蒲の顔をじっと見つめた。ずっと準備に集中して逸らされていた双眸が、今は菖蒲の目を真っ直ぐと見つめていた。二重の大きな瞳。その曇りのない深い色に、菖蒲の姿がはっきりと映っている。
「それでも先輩は——誰よりも患者さんのことを想っていると思います」
凛とした声が響く。目の前に広がる、毅然とした表情。その逸らされることのない双眸から、本心を言っているのだと嫌でもわかる。
「……」
菖蒲は一瞬言葉を失い、心に冷水を浴びたような心地になった。……誰よりも患者のことを救えない自分に対する皮肉だろうかとすら思った。しかし、その瞳を見ればわかる。彼女は心からそう思っているのだと。
「先輩、気付いていますか? もともと大雑把ではあるのでしょうけれど……先輩は患者さん絡みの時に、より『そそっかしく』なる、って」
「……」
たまかの手はすぐに手術の準備を再開し出した。酸素投与と輸液の点滴の準備を並行し、要領良く進めていく。菖蒲へ眼差しを向けていた瞳も、すぐに彼女の手元へと戻ってしまった。それでも言葉は途切れることなく、たまかは口を動かし続けた。
「患者さんへの過剰な不安が思考力を奪い、手を震わせるのでしょう。一種の強迫観念のようになっているのではないでしょうか」
「……強迫性障害、ってこと? それなら逆に強迫行為で器具の確認を何度もするだろうし、治療だって慎重になるはずだけど。……あたしは真逆だよ。確認しないし、治療も疎かだし。ただの駄目人間だと思うけどね」
「強迫性障害とはちょっと違いますけど。患者さんに何かあったらどうしよう、って思いが強すぎるのが要因だろうとは思います。確認を忘れるのは、無意識に治療のことを考えるのを脳が避けているから。治療が疎かなのは、不安から指先が震えて上手く器具を扱えないから」
菖蒲は一瞬口を噤んだ。視線を煤だらけの床に落とし、再度たまかを見上げる。
「つまり……緊張やプレッシャーに滅茶苦茶弱い、……ってこと?」
「まあ……そうとも言えるかもしれません」
「……」
菖蒲は眉を下げ、悲愴な面持ちを浮かべた。
「……医療従事者として、致命的じゃん……」
「そうとも……言えるかもしれません」
たまかは下手に庇わず、再度同じ言葉を繰り返した。致命的だとは思っているらしい。
「たまかちゃんの言ったことが本当だったとして、解決策があるってわけでもないし。……やっぱり、あたしに治療を任せるのはやめたほうがいいよ」
例え原因があったとして、仕事が出来ないことに変わりはない。もともと粗雑だし、ミスや失敗だらけで、確認もせず手際も悪いままだ。突然黒鳥が白鳥に生まれ変わったりすることはない。菖蒲は腕と毛布を探しに行くため、立ち上がった。
「でも」
廊下に向けて足を踏み出そうとした菖蒲を、力強い声が引き留める。
「先輩が患者さんのことを想っているのは、事実ですから。その想いがあれば、患者さんを救えます」
菖蒲は思わず、たまかの小さな頭を見下ろした。
「私……嬉しかったんです。皆治療は真剣に行いますけど、患者さんの命を何よりも優先するって意気込む人ってあんまりいない気がしていて……」
理解出来ない次元の話だった。菖蒲にとっては、周りの白鳥達の熱意がこんなにも眩しく感じるというのに。たまか程になると、それでもまだまだ足りないらしい。
「でも先輩は、患者さんを第一に考えてくれていたから。自分と同じくらいの熱量で患者さんのことを想ってくれていました。それが、凄く嬉しかったんです」
「フォローしてくれてるとこ悪いけど、あたしはそんなんじゃないよ。たまかちゃんくらいの熱意があったら、死亡判定の誤診なんてしないでしょ」
「そうでしょうか?」
診断に時間が掛かってしまうのは、不安観念に囚われて上手く手が動かせないため。瞳孔確認を省くようになったのは、要領が悪いことが他者に露呈するのを避けるための自然な自己防衛本能。そんなことを並べ立てるのだろうか、と菖蒲は思ったが、たまかの口から長々しい説明が紡がれることはなかった。
「私は先輩がここにいることこそが、答えだと思います」
……そう言って、たまかは口を閉じた。この言葉があれば、これ以上の説明は全て不要とでも言うかのようだった。菖蒲はたまかの言葉を咀嚼するように、唇を結んだ。部屋を出て行こうとしていた足は、止まっていた。
気付けば『ブルー』の少女は鼻カニューレを装着し、静脈に留置針を穿刺されていた。全身麻酔の準備もそろそろ終わる。手術の準備が、着々と進んでいた。




