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苦匂

作者: もとわたり

僕は、生まれてからずっと、

世界が“匂い”でできている。


朝の曇り空は酸味を帯びて、夕暮れの街路樹は茹だるような苦みを放つ。

教室の隅は、煤けたような埃っぽい甘さに満ちていて、それに比べて先生の話す声は、まるで発酵しかけのパンのように、柔らかく、どこか気が滅入る。


人間の感情というものも、同じだ。

いや、むしろ、僕にとって人間というのは「感情の匂いを放つ袋」のようなものにしか見えない。いや、嗅げない。いや、感じない。もうどうでもいい。どう表現したところで、君たちには分かるまい。


初対面の人間が僕を見て、眉間を微かに寄せたその瞬間――ほら、来た。

ツンと鼻を突く、金属的なにおい。

それはあからさまな軽蔑の臭気だ。

新品のハサミを鼻先に突きつけられているような、あの匂いだ。慣れている。いや、慣れすぎていて、もはや体の一部になったくらいだ。


見下されている。

「細いね」「色が白いね」「変わった顔してるね」

「いい体つきだね」「身長高いね」


君たちの言葉の奥にある本音が、僕には“匂い”となって立ち上る。

そしてそれは、僕を傷つけるよりも、ただひたすらに退屈にさせる。


他人の感情を嗅ぎ取れるというのは、便利だとでも。

君たちが「嫌い」だと思っている人間に、愛想笑いで「かわいいね」と言う時の、そのおぞましい腐敗臭は、僕の嗅覚を冒涜する。

鼻が曲がる、などという甘い表現ではない。

魂そのものが曲がる。


教室の昼休み。

賑やかな声とカップラーメンの湯気。

この時間帯は、世界が一番、うるさくて臭い。


ひとりで窓際に座っている僕のそばに、近寄る者はいない。

それは助かる。

彼らの笑顔の匂いが、僕にはきつすぎるから。

偽善は、キッチンの排水口みたいな匂いがする。

どんなに歯を磨こうが、香水を振ろうが、隠せやしない。

人間の感情の匂いは、すべて“本性”と直結している。


むしろ、石や木のほうが誠実だ。

ベンチの背もたれには、永遠の孤独の匂いがある。

木製の机には、誰にも語られなかった小さな夢の匂いが染み込んでいる。

落ちていた枯葉を拾って嗅いだとき、僕は本当に泣きたくなった。

こんなにも無言で、こんなにもまっすぐで、誰にも媚びない香りが、まだこの世界に残っていたなんて。


それに比べて、君たちはどうだ?


一秒ごとに匂いが変わる。

見栄、虚飾、演技、保身、自己愛、承認欲求――

そのすべてが濁流のように押し寄せ、僕の鼻腔を埋め尽くす。

「君って変わってるね」などと笑われるたびに、僕は思うのだ。

いや、そっちが変わっているのだと。

自分の匂いにすら気づかずに、他人の臭いに眉をひそめる滑稽な生き物よ。


家に帰る途中、僕はよく神社に立ち寄る。


賽銭箱の前に立って、目を閉じる。

ここには、誰の感情もない。

感情のない空間は、透明な匂いがする。

冷たく、静かで、寂しいけれど、僕にはそれが心地いい。


僕は何も願わない。

神様がいるとは思っていない。

でも、いるとすれば、僕のように、匂いの世界で生きているのだろうと、思う。


なぜなら神社の空気は、誰の嘘も、誰の希望も、誰の祈りすらも、拒絶しているような無臭さを帯びているから。

それは、まるで、何かの真理の匂いだ。

ああ、言い忘れていた。


「自分の匂いは、わかるのか」と、よく訊かれる。

そんなふうに訊いてくる人間は、たいてい、ほんの少しだけ優しさの匂いを漂わせている。

それも大抵は、消えかけの石鹸のように、微かで、頼りなくて、触れればすぐに壊れるものだ。


けれど、その問いには、うまく答えられない。

自分の匂いというものは、あまりにも近すぎて、逆によく分からないのだ。


強いて言うなら――

ときどき、ひとりきりになった部屋の空気の中に、じんわりと染み込んでいるような感覚がある。

それは生乾きの本のページをめくったときに立ち上る、紙と時間のあいだに挟まれた匂いに少し似ている。1人で小説を読む時間は僕にとって癒しとなっている。

静かで、淡く、どこか記憶の底の方に置き忘れられていたもののにおいだ。


僕は、特にそれを好きでも嫌いでもない。

ただ、ああ、これが僕なのかもしれない、と思うことがある。

たとえば、夜、風が窓を揺らす音を聞いているとき。

誰からも話しかけられずに教室の壁を見ているとき。

そういう、誰にも気づかれないような時間の中に、うっすらと浮かびあがるもの。


たとえば、

コンビニの前で立ち読みしていた男が、通りすがりに僕の顔をちらりと見て、何も言わずに立ち去ったあと。

残されるのは、靴底の音と、すぐに消える視線の匂いと、何も残らなかった僕自身。


人の匂いに敏感であることは、世界を少しばかり“薄く”してしまう。

重みがなくなるのだ。

言葉も、笑顔も、善意も、すべてが透けて見えるようになって、

結果的に、僕はほとんどのことに、興味が無くなった。だからこそ知りたいと思う人に出会えることに感謝している。


でも、ときどき、ごく稀に。

誰の匂いも、何の匂いもない空間に立ち会うことがある。


そういうとき、僕は思うのだ。

世界は、本当はとても静かで、ただ人間が騒ぎすぎているのだ、と。


この話に結論はない。

教訓もなければ、誰かを驚かせるような出来事もない。

ただ、僕は今も生きていて、

日々、匂いの中で呼吸しているというだけだ。


それでも、もしどこかに、匂いでは測れないものがあるのなら。

それはきっと、言葉になる前の沈黙のようなものだろう。

そして、僕はそれを、ほんの少しだけ、羨ましいと思っている。

匂いを持たないものの美しさを、

まだ知らないからこそ、静かに憧れているのかもしれない。

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