前編
最近、幼い頃の婚約者の言葉をよく思い出します。
「ミュゼリアさまは殿下の婚約者候補だけれど、正直に言ってボクは苦手だ」
「また侍女をやめさせたらしい、どうして彼女のようなヒトが殿下の婚約者に……」
以前、私の婚約者は"彼女"についてそう言っていました。
そういっていた、はずなのに……。
◇
「デリク様!今日はわたくしと昼食をとる日ですよね?」
王立魔法学園の廊下。
昼下がりの暖かな日差しが白を基調とした廊下に差し込み、照明もないのにとても明るく暖かい。
そんな長閑な空気のもと、私は腰に手を当て、見つけ出した婚約者に文句を言ってやります。
昼食をともにする約束だったはずなのに、彼が現れる気配が一向に無かったためです。
文句を言われた長身の男性――私の婚約者であるデリク様は、優し気なたれ目の目じりをさらに細めて、微笑みます。
まるで宗教画に出てくる伝道師のような柔和な表情で、心の奥底を決して読ませてくれません。
「あはは、見つかっちゃったかぁ」
本心の読めないその表情に、胸にチクリと小さな痛みを感じながらも、怒っていることをアピールするために腕を組み、かなり高い位置にある彼の顔をしっかりと見据えました。
今さらで恐縮ですが、自己紹介しましょう。
私はリリアーヌ・クルタシア。伯爵令嬢です。
私の婚約者であるデリク・オキシペタラム様は、第一王子殿下の幼馴染であり、側仕えとなるべく幼い頃から勉学に励まれている御方です。
紫紺の髪に紫水晶のような瞳、整った柔和な顔立ちで女生徒達からとても人気があります。
「リリアーヌは本当に、俺を見つけるのが上手いね」
「当然です!!デリク様は素敵な方ですから、すぐに見つけられます!……ってそうではなくて――」
「本当?嬉しいなぁ」
「……っ」
デリク様が浮かべた笑みがあまりにも美しく、つい言葉に詰まります。
作り笑いだと分かってはいるのですが、その笑顔の破壊力にいつも誤魔化されてしまい情けない限りです。
「デリク」
淑やかな美しい声。決して声を張ったりなどしていないはずなのに、不思議と廊下に響きます。
デリク様は伯爵令息であり、殿下の側仕えとして将来を有望視されている方です。なのでそんなデリク様を呼び捨てできる女性は大変限られます。
白金の髪に夕暮れのような緋色の瞳。切れ長の目と華やかな容姿から、無表情でいると苛烈な印象を受けますが、実際は慈愛に満ちた優しいお方であることを学園の全員が知っています。
第一王子殿下の婚約者であらせられる、ミュゼリア・ノース侯爵令嬢その人でした。
すぐさまカーテシーをするとミュゼリア様は私に「楽にして」とお声をかけてくださり、 そのままデリク様の方を向きます。
「貴方の気持ちもわかるけど……あまりリリアーヌ様を困らせてはダメよ、デリク」
ミュゼリア様はそう仰りつつも明らかに困った顔をしています。デリク様が……私以外の女性に、片想い中なのをご存知だからでしょう。
そう、デリク様には好きな人がいるのです。婚約者である私以外に。
そしてその叶わない恋について、殿下やミュゼリア様など、いつも共にいるご友人達にはお話ししているようです。……とはいえ、さすがにデリク様が誰のことが好きなのかまでは、皆さまご存知ないようですが。
ただ、それはそれとして家同士の婚約と個人の感情は切り離して考えるべきというのが我が国では主流の考え方。
ミュゼリア様は私に気を遣って《婚約者とは別に好きな人がいるのは知っているけれど、貴族子息として婚約者を蔑ろにすることは褒められた事ではない》と仰ってくださったという事です。
殿下の婚約者であり、事実上の次期王妃であるミュゼリア様からの言葉を無視できないデリク様は、肩をすくめてため息をひとつ。「仕方ないなぁ」と口が動いた気さえしましたが、そこは見ないフリ。
デリク様が私の頭をボンポンと幼子のように撫でてきます。
齢は一歳差なのですが私はかなり背が低く、長身のデリク様と並ぶと胸くらいまでしかないのでいつも子ども扱いを受けるのです。
「ごめんね、次からは気を付けるよ」
「……お言葉ありがとうございます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
ここで私が拗ねたままでは、声をかけてくださったミュゼリア様にも恥をかかせてしまいます。
完璧な作り笑いを浮かべたまま謝罪を口にしたデリク様に、負けないくらいにっこりと微笑んで、踵を返しました。
少し歩いたタイミングでお腹から空腹の訴えが来ましたが、虚しさでそれどころではありません。
――どうしてこうなったんだっけ……?
私とデリク様とは、母親同士仲が良かった関係で幼い頃から交流を持ち、幼少期は良好な関係を築いておりました。
対して、その頃のミュゼリア様は我儘放題かつ、かなりの高飛車だったそうで、当時殿下の話相手を勤めていたデリク様とは折り合いがかなり悪かったのだとか。
それが変わったのは、おそらく13歳の頃。
ミュゼリア様が高熱で倒れてからです。
3日ほど寝込まれたミュゼリア様は、それを境にまるで人が変わったように謙虚で勤勉、慈愛に満ちた性格になったんだとか。
そんなミュゼリア様に、最初は警戒していたはずの第一王子殿下もデリク様も、気が付けば坂を転がるように彼女に傾倒していきました。
◇
デリク様とお話が済んだ私は、そのまま別棟に足を踏み入れ一番奥の談話室に入りました。
ここの談話室は狭いし奥まったところにあるので人気がなく、一人でのんびりしたい時や考え事をしたい時によく利用しています。
そっとため息をついてソファに腰掛けました。
ミュゼリア様が変わった後、最初は警戒していたはずのデリク様。
それなのに気が付けば「ミュゼリア様が……」「ミュゼリア様ならば……」とかの御方を褒め称えるばかり。
御心の変化なんてすぐに分かりました。誰よりも傍でデリク様を見てきたのですから。
夜会で殿下と並び歩くミュゼリア様を見た、デリク様のお顔を、私は一生忘れることが出来ないでしょう。
もし私が身を引けば可能性があるなら、それでも良かったのに。
ミュゼリア様は王子殿下の婚約者ですし、お二人は愛し合っておいでです。私が身を引こうともデリク様は幸せになれません。
私に出来ることは、この方を婚約者として私が幸せにしてさしあげられる可能性を増やすくらい。だから私は、想われていないと知りつつも婚約者として積極的にデリク様に関わり続けるのです。
◇
「ごめんねぇ、今度のパーティーは殿下の都合がつかなくて。ミュゼリア様のエスコートは俺がすることになったんだ」
デリク様は紫水晶の瞳を真っ直ぐ私に向け、申し訳なさそうに仰いました。
小首を傾げる仕草に合わせて紫紺の髪がさらりと揺れる様が美しく、ここまで計算されているのかなぁ、なんてぼんやり思ってしまいます。
全寮制であるこの学園にも、婚約者と定期的な交流を義務付けられている貴族生徒は一定数います。そのため学園内にお茶会などに用いる交流スペースが設けられており、私たちも例に漏れず交流を交わしている最中です。
ミュゼリア様は殿下がご不在でも、いやご不在だからこそ、名代として参加しなければいけない夜会やパーティーなども多くございます。
その場合、デリク様がエスコートするのはいつもの事です。なので私はにっこり笑って了承の意を返しました。
「承知いたしました、デリク様」
「ありがとう、リリアーヌ。お詫びに花を贈っても?」
「まあ嬉しい。デリク様の髪のような紫色の花をお願いできますか」
「ああ、よろこんで」
定型文のキャッチボールを交わしながらも、デリク様はミュゼリア様のエスコートが楽しみでいらっしゃるらしい。私に申し訳ないように振る舞いながらも、端々から嬉しそうな雰囲気が漏れています。
私といる時には、まず見かけられないほど浮かれている様子に、胸に冷たい針が落ちた気がします。
……人の気持ちは自由です。
デリク様がミュゼリア様を想うこと、それ自体は否定しません。
それでもやっぱり婚約者が明らかに他の人に想いを寄せている事実は寂しいです。それに――。
「今度、埋め合わせに喫茶店に行こうか。それとも勉強を見てあげたほうがいい?」
そう言って、デリク様はいたずらっぽい笑みを浮かべます。
今のところ婚約を解消される気配はありません。それが、何より悲しい。
この様子ですと、ミュゼリア様への恋は御心に秘め、諦めようとなさっているのでしょう。デリク様は殿下のことを、本当の弟のように思っていらっしゃるから。
大切な人々のために、デリク様がご自身の心を押し殺していらっしゃる、それが何よりも悲しくて、寂しいのです。
出来ることなら、この方を婚約者として私が幸せにしてさしあげたい。本当に今更だけど、なんとかして振り向かせたい。私にそれができるでしょうか……。
◇
外はだいぶ暑くなってきましたが、談話室は陽当たりが悪いのでかえって涼しく過ごしやすく、刺繍が捗ります。
急な王命とのことでデリク様は多忙になり、学園にもほとんど来なくなってしまいました。殿下やミュゼリア様も同様です。
例の埋め合わせも定期的な交流も全てキャンセル。なので、空いた時間にいつもの談話室でハンカチに刺繍を刺しています。出来上がったらデリク様の元に届けてもらうつもりです。
子どもの頃のデリク様は私の刺繍をとても喜んでくださって、ブラウスやズボンのワンポイントも私が刺繍しておりました。……今は、喜んでくださるかしら。
刺繍が完成して、送って、更に何日も経った後。
デリク様と久々にお茶をすることができました。
「リリアーヌ、ハンカチありがとう。色々待たせたね」
「とんでもないことです!大切なお務めだと聞いておりましたので……」
デリク様を振り向かせなきゃいけないのに、久々の他愛無い会話が嬉しくて、つい笑み崩れてしまいます。
かなりのご多忙と聞いていたのに、お疲れでなさそうで本当に良かった。
「大変な御用命でいらっしゃったとか」
「ああ、しかしミュゼリア様が的確に指示してくださったからね。なんとかなったよ。彼女は本当に素晴らしい人だ」
ドキリと鼓動が跳ねました。
ミュゼリア様を呼んだ時のデリク様が、愛しくてたまらないといった顔をしていたからです。
「……さすがミュゼリア様でいらっしゃいますね!わたくしが聞いて良い範囲で、お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
胸の痛みを隠して言葉を返すと、デリク様は輝かんばかりの笑顔で応えてくださいました。
「もちろん!ぜひ聞いてほしい!」
ああ、デリク様が嬉しいなら、このままでもいいのかもしれない。今まで頑張ってこなかった私が、ミュゼリア様みたいな、美しくて気立の良い方になんて敵わないのかもしれない。
あまりにもデリク様が楽しそうに、幸せそうにお話しされるものだから、ついそう思ってしまいました。
◇
第一王子殿下が正式に立太子され王太子殿下となり、ミュゼリア様もそれに伴い婚約者として王城で生活し始めた頃、デリク様の様子がおかしくなり始めました。
生返事が増え、何か考え込んだり、遠くを見てぼうっとしていることが明らかに増えてきたのです。
ある日のいつものお茶会。約束の時間に部屋に入ってデリク様を見た瞬間、あまりの顔色の悪さに驚きました。
慌ててすぐに解散し、そのまま何日か学園をお休みしていたデリク様を次に見かけたのは、別棟の廊下。
廊下の窓から中庭で仲睦まじくお話ししている殿下とミュゼリア様を見下ろすデリク様の表情は鋭くて、いつもと全く違う様子です。
「デリク様……?」
「どうしてリゼはあいつなんだろうね、婚約者っていっても、生まれた時から決まってただけの関係のくせに」
ミュゼリア様を愛称で呼んだ上、吐き捨てるようにそう言うデリク様の様子は、明らかに何かが変でした。
声をかけようとした瞬間、こちらを向いた紫水晶の瞳の、あまりの冷たさに肩がびくりと震えます。
「リリアーヌ、頼みがあるんだけど」
この場所で花を摘んできて欲しいと頼まれ、デリク様が手配した馬車で花畑へ行きました。
持ってみてと言われ、何かの小瓶を握らされ、そのまま回収されました。
何かの紋様が描かれた紙を指定された場所に置いてくるよう言われ、わけが分からないながらも指示に従いました。
そしてある日、新聞を読んだ私は寮母を通じてデリク様を呼び出しました。
「デ、デリクさま……私の気のせいかもしれないのですが、お、お話を聞かせていただけますか……?」
待ち合わせの談話室にデリク様が入ってきてすぐ、震える腕で新聞を突きつけます。
街中や郊外のデートスポットなど、今まで目撃情報がなかった場所での魔物の出現。その全てがデリク様に頼まれて、紙を置いてきた場所と一致していました。
デリク様はくすりと、小馬鹿にしたような笑みを浮かべます。
「インクに特殊な薬品を混ぜてあの紋様を書くと、魔物が召喚できるんだ」
「……っ!?」
「薬品の瓶も、主原料の花も、リリアーヌは見たことあるよね?」
先日持たされた小瓶と、摘んできた花を思い出して血の気が引きました。
「あ……あ……」
動揺する私を眺めクスクスと笑いながら、デリク様は言葉を重ねます。
「ついでにいいことを教えるよ。魔物の出現時、殿下とリゼもそこに居たんだ。箝口令で公にはなってないけど」
「う……そ……っ」
あまりの出来事に、ペタリと座り込んでしまった私のそばに、デリク様がゆっくり膝をつき耳元で囁いてきます。
「立太子直後に魔物の頻出、あいつにとっては痛手だよねぇ。民衆の支持を得られず、このまま廃嫡にでもなればあの二人の婚約は解消される……リリアーヌ、それまで俺に協力してくれる?」
「デリク様、そんな、そんな……!」
「俺が君を憲兵に突き出したっていいんだよ?細工がこの程度だと本気で思ってる?君が俺の指示でやったと言っても、信じてもらえるかな?」
どうしてこうなってしまったんだろう。
デリク様に幸せになってもらいたいだけだったのに、頑張らなかった私のせいなのでしょうか。
ここで断ったら、デリク様は私を切り捨てて更に悪事に手を染めてしまいます。……止めることも叶わない、もっと遠くへ行ってしまわれます。
デリク様を一人にしてはいけない一心で、私は従うことに決めました。
何が書かれているかわからない手紙を届けさせられました。
中を決して見るなと言われた小箱を、女子寮の裏手に埋めました。
魔物を召喚する例の紙を、指示された場所に置きました。
◇
ある日、あれだけ仲睦まじかったミュゼリア様と殿下が完全に別行動をとり、視線も交わさなくなりました。
デリク様は心配し仲を取り持つと見せかけて、ミュゼリア様のお側を離れません。
罪悪感で潰れてしまいそうで、夜は眠れず、食事もほとんど喉を通らなくなりました。
昼休み。寝不足と栄養不足からか、私はいつもの談話室でぼんやりとしていました。
ここには誰も来ない。……デリク様も、来ない。
デリク様と会わずに済むことに、新たな指示が来ないことに、心底ほっとするとともに自己嫌悪に陥ります。
自分で、協力するって、デリク様を一人にしないって、決めたくせに……。
――カチャリ、と扉の開く音がして全身が強張りました。
慌てて扉のほうを見ると、光の聖女様と護衛騎士のアルベルト様が立っていらっしゃいました。
「……えっと、中等部の子?」
「ちがうぞユリア、小柄だが君らと同い年だ。彼女で間違いない」
亜麻色の髪に金色の瞳の聖女……ユリア様の発言を、アルベルト様が訂正します。
勘違いされても仕方ありません。私は童顔で、デリク様の11歳の弟君に背を抜かれたくらい、背も低いのです。
少し前の私なら、聖女様が目の前にいらっしゃることに高揚したでしょうが、いまはそんな余裕すらありませんでした。
……私を探していたということは、私の罪が暴かれたのでしょうか?
対応に困っている私のそばに、ユリア様が歩み寄ります。
「リリアーヌ・クルタシアさんですか?」
「……はい。尊き女神の御子たる聖女様」
震える声で肯定とカーテシーを返すと、ユリア様はぱぁっと明るく微笑んでくださった。
それがとてもまぶしくて――。
「よかった!こんなに可愛らしい方だったんですね、リリアーヌさん少しお話を……って、どうされました!?」
まぶしくて、綺麗で、温かい笑顔。女神さまの加護高き、神々しくも慈愛に満ちた空気。
私を捕らえに来たのかもしれない、断罪しに来たかもしれないのに、その温かさに心底安心してしまって、涙が止まらない。
「ごめん、なさっ、ひっく、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
ぺたりと床に座り込んで泣きじゃくる私を、ユリア様はソファに座らせ、落ち着くまでずっと手を握ってくださった。
◇
泣くだけ泣いて落ち着いたところで、アルベルト様からの尋問が始まりました。
「つまり君は、あくまで単独犯だと言い張るんだな?」
鋭い視線が私を貫きますが、体に力を込め、目をそらさないよう努めます。
「はい、私一人ですべてやりました」
泣くだけ泣いてすっきりした頭で優先順位を考えたとき、やっぱり私の頭の中には"デリク様に幸せになってほしい"という思いしか残りませんでした。
思慮深くみんなを見ている優しい方だったのに……私がもっと積極的に関わっていたら、こうなっていなかったかもしれません。
いま私にできることは、すべての罪を被って、デリク様に瑕疵が無いようにすることだけでした。
「文様はどこで知った?」
「ほ、本です!どこの図書館か忘れましたが、とても古い本を見つけて……」
ちらり、とアルベルト様がユリア様を見ます。
ユリア様が痛ましい顔で私を見て、ゆっくりと口を開きました。
「リリアーヌさん、大変心苦しいのですが……誰かを庇っておいでですね?」
心臓が、跳ねる。
「あの魔物を召喚する文様は、呪い除けとしてどの文献にも記録されることは太古から禁止されているのです。だからこそ誰も覚えていないし正確に刻印することはできない……魔王以外には」
「……まおう?」
信じられない話に、知らない単語のように聞き返してしまいました。
「魔王の封印されていた宝玉は、デリクさんが見つけたんですが……私の手元に来た時には、もう中に何もいませんでした。神官長が言うには、封印から抜け出して憑依先を探しているのだと……」
「それで魔物の出現場所、全てで目撃されていた君に、話を聞きにきたんだ」
ユリア様の説明をアルベルト様が引き継ぎます。
「リリアーヌ嬢、薬品の作り方は知っているか?先日の王城での件は?首謀者にしては、君は何も知らなすぎる。誰を庇っている?」
分からない、分からない。何て答えればいい?
今まで私に指示をしてきたのは魔王?それともデリク様ご自身?
「……デリク殿か?」
混乱している最中に聞こえた名前に、思わずびくりと体を震わせ反応してしまいます。
そして聖女の護衛を務めるに足る実力者のアルベルト様にとって、その反応でもう十分だったようです。
「……ユリア、ミュゼリア様にデリク殿と大演習場に来るよう連絡を。殿下達にもだ」
「はい!すぐに伝令魔法を送ります」
「リリアーヌ嬢、指示に従っていただけとはいえ、君も共犯者だ。すまないが憲兵が来るまで寮室で待機を……」
「いいえ、私も連れて行ってください!!」
罪人の分際で何を、と言われるかもしれませんが、ユリア様とアルベルト様に懇願します。
「お願いします、絶対にお邪魔にならないと誓います。どうか、どうか……!!」
デリク様を一人にだけは、絶対にしたくありませんでした。
私たちが到着した頃には、激しい戦闘が始まっていました。周辺は神殿騎士と魔導士たちが囲っているため、街への影響はないそうです。
演習場の扉の外で待つよう言われましたが、現場の混乱に乗じてどうにか中に入り込みました。
「……っ!」
激しい魔力の奔流と剣戟の圧に、一瞬身が竦みましたが、どうにか堪えて目を開きます。
光の聖女であるユリア様の加護で、白く輝く魔力を纏った殿下達の見据える先には、真っ黒い魔力を放つデリク様が立っていました。
「デリク様っ!お止めください!!」
ミュゼリア様が、魔法で殿下たちを支援しつつ、悲痛な声で叫びます。
《無駄なこと、この体は我の物だ》
そう話すデリク様の声は常人のそれではありませんでした。脳内に直接響く、重たい声。
暗い瞳がミュゼリア様を捉え、三日月のように細まります。
《女、貴様がこの男に応えておれば、こんな事にはならなかっただろうがな。想いに応えず、その癖正気であれと叫ぶ。御大層なことだ》
「……っ!」
ミュゼリア様の顔が強張ります。
気が付けばミュゼリア様のスカートの裾に、黒い魔力がじわりじわりと漂い始めていました。
《この男に罪悪感があるのなら、代わりにお前の体を寄越せ。お前の体が一番合う――》
言い終わらないうちに、殿下の一太刀が魔王を、デリク様を薙ぐのを見て、思わずすぐ近くの物陰まで駆け寄ります。
「リゼは渡さない!!!姑息な手段をとる貴様が諸悪の根源であろう!!」
殿下はデリク様をキッと見据え叫ぶ。
「デリク!!聞こえているな!?リゼに横恋慕するなら堂々と来い!!!魔王などにつけ込まれるな!」
そのまま何度も振り下ろされる剣撃を、魔王は魔力で作った剣で受け流しながら皮肉気に笑います。
《聞いたか?デリク。この者たちはお前にもっと苦しめとさ。叶わぬ恋に身を焦がし、更なる傷を負えと言っているぞ。
我とアイツら、どちらがお前の為に話していると思う?お前の味方はどちらだと思う?》
そう魔王が語った途端、さらに真っ黒な魔力が膨れ上がる。
「いけませんデリク様!これ以上憑依が強まると完全に融合してしまいます!!心を強く持って!!」
ユリア様も力の限り叫びますが、魔王は悠然と笑むばかりです。
デリク様の髪と瞳に、魔王の魔力が染み込み、漆黒に染め上がります。
《かまわんよな?デリク。お前の味方は私だけだ》
「……ふざけるな、ぶさけるなよデリク・オキシペタラム!!」
今まで、ユリア様の防御を優先していたアルベルト様が、魔王の一言に激昂し攻勢に出ます。
「味方が魔王だけだと本気で思っているのか!?貴殿の想いに応えられなくとも、ミュゼリア様も殿下も貴殿のことを大切な友人だと思っているだろう!それに!!」
激しい攻防が繰り広げられ、少しずつデリク様の体に傷が増えていく様に、胸が潰れそうなくらい痛みます。
「あの娘はどうなる!!!」
鋭い金属音を立てて、アルベルト様と魔王の剣が鍔迫り合いました。
「貴殿の婚約者は、すべては自分のした事だと全ての罪を被ろうとしていたぞ」
《さっきから何を…………っ!?》
アルベルト様が一際大きな魔力で跳ね飛ばされましたが、不思議と魔王からの追撃はありません。
魔王は下を向いたまま、まるで時が止まったかのように静止しています。
「リ……ア……」
今までの頭に響くような魔王のものではない、聞き慣れた声が聞こえたかと思うと、デリク様が顔を上げました。
その瞳は、紫水晶のように美しく輝いています。
「はやく……っ切れ!俺ごと切ってくれ!!!」
デリク様の叫びに応えて、殿下が悲痛な顔のまま走り出します。魔王を、デリク様の肉体ごと切るために。
……嫌だ、そんなのは嫌だ!
あの優しい方が、魔王なんかにつけ込まれて操られて、幸せにならないまま死んでしまうなんて!
気が付くと、デリク様に抱きついていました。
物陰からいつの間に飛び出したのか、自分でも全く覚えていません。
「なっ……!?」
殿下の焦った声が聞こえたが、手遅れだったのでしょう。
体を凄まじい衝撃が襲いました。
「リリアーヌ……?」
デリク様が、呆然としながら私の名前を口にします。
返事をして差し上げたいのですが、身体中が痛くて熱くて何とか微笑み返すことしかできませんでした。