Level.076 欲望に火を付けてこそ
そして、氷美佳が少し落ち込んでいる事に気が付いたのか、舞歌が言葉を続ける。
「鹿謳院家の女は誰もが皆、底なしの欲深さを持って生まれます。そして人が抱く欲の中で、最も強く、最も汚く、最も美しい欲望が愛なのです。ですので、強き欲の中で一際輝く愛を示した者こそが、鹿謳院に最も相応しいのですよ」
「けれど舞歌様、私にはまだ愛する方がおりません。愛と仰るのであれば、姉上や他の候補者の方々の方が……私の眼には、余程強く映りました」
「何を言っているのですか。あの子達が本当に強い愛を持っていたのであれば、氷美佳さんに負けていなかったではありませんか。氷美佳さんの愛が強く、あの子達の愛が弱かった。それだけの話ですよ。他者に負ける程度の愛しか示せぬ者など、鹿謳院の頭首に相応しくありません」
「……はい。舞歌様」
「愛には様々な形が御座います。愛着や愛情はもちろん、親愛、友愛、情愛も。自己愛もまた愛の形です。氷美佳さんの愛にはまだ形がないだけで、その強さは何者にも負けはしません。貴女は本当お強い。同じ年齢であれば私も負けていた事でしょう。貴女は息をするように欲しい物を手にする、そう言う星の下に生まれた女。正しく鹿謳院に相応しい女です」
「はい」
やはりよくわからない話に氷美佳が目を伏せると、髪を梳かす手を止めた舞歌が、持っていた櫛を氷美佳の手に置く。
「──けれども、そうですね。それでも、そんな氷美佳さんが、それでも勝てないと思える相手が現れたとすれば、その者がきっと、貴女に愛を教える存在となって下さるでしょう」
「はい、舞歌様」
優しく微笑む舞歌に返事をすると、今度は櫛を持った氷美佳が舞歌の髪を梳かす番。
「(私に勝てる相手と言われましても。そのような者が──)」
どうやら、舞歌の言葉を受けて一瞬頭に浮かんだ男が居たようだけど、氷美佳はそれをすぐに丸めてゴミ箱に捨ててしまった。
「(──いえ、アレは論外です。もちろん、将来私の前に跪かせて生意気なあの頭を踏みたいとは思いますけども、その程度です)」
何がその程度なのか知らないけど、考えている事は大概である。
「(それよりも、どちらかと言いますとセレナの方がずっと気になります。尤も、これを愛と呼ぶべきか定かではありませんが。それでも、セレナとセレナの中の方には……。そうですね、幸せになって欲しいとは思います。或いはこの感情も、舞歌様が仰られる愛の一つなのでしょうか──)」
とは言え、日夜ネトゲに興じているなどと口が裂けても言えない話。
あまつさえネトゲの中で結婚をしていて、その相手に中身を探られている状態。
それを知っていても尚、関係を断とうとしない、断つ事が出来ない弱さ。
ネトゲに興じている事実よりも何よりも、繋がりを断つ事が出来ないその弱さを知られる事の方が、鹿謳院的には大問題なので何食わぬ顔で舞歌の髪に櫛を当てる。
「悩みは所作に現れます。原因があれば取り除くようにしなさい」
「はい。申し訳ございません」
とは言え、普通に髪を梳いているだけなのに隠し事をしているのはバレバレの様子。
「祭に行けなかった事がそれ程までに悩ましいのですか」
「いいえ、舞歌様。祭など興味も御座いません」
「近頃は嘘が下手になりましたね、氷美佳さん。本格的に悩みがあると見えます」
「悩みなど、私にそのような事は御座いません」
「泊りがけの旅行であれば許可を出しました。体調を崩されたのは氷美佳さんの落ち度でしょう?」
「はい。仰る通りです」
「先日も柳沢の娘との花火観賞を許可致しましたよ」
「はい。感謝しております」
「それでは、何が不満なのです。外泊は勿論。夜に出歩くなど本来は許しておりません。それでもと願い出るから、氷美佳さんだからと特別に許可を出している事はおわかりですね?」
「はい」
チクチクとしたお説教。
氷美佳が中等部三年の時に行われた統苑会の次期会長選。
その際に近衛家の人間に膝をつかせた事で、舞歌に大層褒められたのも少し前の話。
神の血をその身に宿すと言う近衛家の人間。
その内の一人を打倒すると言う『神殺し』を成し得たご褒美に、多少緩まっていたお家での締め付けだったが、夏期休暇に入ってすぐのお泊り旅行で体調を崩してしまった事で元の木阿弥に。
「(技芸の鍛錬が増えた事は構わないのですが、門限が十七時と言うのは中々に辛い話です。いえ、空調の効いた室内で楽園の庭が出来ればそれで構わないのですけどね。けれども、先日の花火大会と言い、昨日の祭と言い、折角の夏ですのに。……少し、寂しいですね)」
セレナと出会う前。
セレナの中の人が聖桜学園に通う生徒とわかる前までは、なんとも思わなかった学友の日常、他者の生活。今はそれが気になって仕方がない氷美佳。
思えば、自分から積極的に誰かに近付いた経験なんてものはなくて、それがこの数ヵ月はいつも自分から動く毎日。
セレナの中の人を知りたいと願った時から始まった他者との繋がりは、日を追うごとに強く厚くなっていて──。
「(そうですね。私は少し、弱くなってしまったのでしょう。他人の言動に一喜一憂するなど、なんと浅ましい事でしょうか。今この時も舞歌様の言葉に集中する事すら出来ず。何と言う怠惰でしょう)」
そう思った氷美佳だったのが、舞歌は少し違う様子。
「──とは言いましても、我が出るのは良い傾向でもあります。波風一つ立たない凪のような氷美佳さんの心は強く美しいですが、その内に荒波を抱えて尚も微笑む者こそ、真の強者とも言えます。貴女の中に何かしらの欲が芽生えているのであれば、母として嬉しくはあります。その内に濁流を抱えてこそ、鹿謳院の女ですからね」
実際には伯母だが、頭首と次期頭首は母娘として生活をするので、舞歌は氷美佳の事を娘と思っているし、氷美佳は氷美佳で舞歌の事を母と慕っている。
故に、舞歌が母として娘を心配する気持ちに嘘は無くて、娘の成長を喜んでいる事も事実。
「それは、善い事なのでしょうか?」
「無論、愛にも欲にも善し悪しがあります。ですが、これまで私に対して何一つとして不満の色を示さなかったが貴女が、ここ最近は随分とご機嫌な様子。生意気な娘は嫌いではありませんよ。この私を負かすつもりで存分に励みなさい」
「はい。舞歌様」
独特な価値観と教育方針を採用している鹿謳院家。
妖しく笑う舞歌に、氷美佳もまた笑い返す。
「(そう、ですね。はい、そうですね。ええ、そうかもしれません。ここまで強く何かを欲したのは生まれて初めてかもしれません。セレナの中の人を知りたい。たったこれだけの事で、私の世界が大きく動き始めたような気がします。愛かどうかは別にしましても、これが欲と言うのであれば……。ええ、そうですね、悪くはない気がします)」
皆と一緒にお祭りに行けない事を寂しく思う気持ち。
それを弱さと捉えた氷美佳だったが、それを面白いと評価する舞歌に背中を押された事で、自身のうちに芽生えた変化を悪くないと思い始める。
「それでは、次にお祭りのお誘いがありましたら、夜間の外出許可を頂けませんか?」
「まだ弱いですね。ですが、考えておきましょう」
氷の上を歩くような冷たくもゆったりとした会話はしばらく続いて、その後はみっちりとお稽古を仕込まれた氷美佳。
マンダリナ:よっしゃー! まずはデイリーミッションやるかー!
セレナ:おー! 実はもう消化してるけど、もっかい行くよー!
マンダリナ:はやっw
セレナ:今日はもう夕方だからねw
そして、そんなお稽古が終わればそそくさと自室に退散。
いつログインしても優しく出迎えてくれるラブリーマイワイフに癒されながら、セレナについてあれやこれやと考えていた。
「(そう言えば、いつも明るくて忘れてしまいがちですけど、セレナにも何か悩み事があるのですよね。時々逃げたくなる、と。そう溢される程度には現実に参っているの、ですよね。統苑会で悩みを抱えていそうな方と言えば、やはり雫や桜花? 愛理は、どうでしょう。あの子は独特過ぎますから難しいですね。……やはり、まだわかりません)」
それでも、いつか彼女の中の人に辿り着いた時。
その時は力になってあげられるといいな、と。
そんな事を考えながら、いつも通りお茶を一口流し込めば、今日も今日とてラブラブネトゲライフを満喫するのであった。




