Level.075 後戻りが許されない場所
ほうと溜息が響く和室。
音の発生源は見目麗しい御令嬢。
「──お祭り、行きたかったですね」
静謐な空気が漂うお座敷の中。
着物姿のまま、畳の上にお行儀悪くゴロリと寝そべった鹿謳院氷美佳は、両手で持ったスマホを見ながら囁くような声を溢していた。
柳沢がリリンクに投稿している写真。
そこに映る見知った顔の四人の学友に、お面を被った変質者が映る写真を眺める彼女は、もう一度小さな溜息を溢してしまう。
以前であれば何とも思わなかったはずのそんな写真が、どう言う訳か今はとても気になってしまって、あまつさえ羨ましいとすら感じてしまう。
この春、楽園の庭で行動を共にする妻が同じ学園に通う生徒であると判明して以降、鹿謳院氷美佳の世界は少しずつ変化していた。
「(この日、やはりセレナはログインされませんでしたね。雫が、セレナなのでしょうか。あの子は少し読めない所がありますから、そうであってもおかしくはありません。けれども、やはり、セレナに一番似ているのはやはり美月ですよね。雫も美月も、どちらもとても優しい子です。桜花も愛理も……。私の周りには優しい方が沢山いたのですね)」
半年前、セレナの中身に触れる前までは殆ど使う事がなかったスマホ。
両手で大切に持った鉄の板きれに映る写真を見て、ほんのりと目を細める。
半年前までの自分であれば有り得ない。
本当に無駄な時間を過ごしている事を理解しながらも、今はそんな時間も悪くないと思っている鹿謳院だが、そんな思考も次の瞬間には消えてなくなる。
「何をなさっているのですか、氷美佳さん。はしたないですよ」
「これは、お恥ずかしい所を。申し訳ございません、舞歌様」
「お気をつけなさい。病み上がりと言いましても、気を緩めて良いわけではありませんよ」
「はい。心得ております」
音もなく開いた襖の向こうから美しい女性が現れた事で、無駄ながらも幸せな時間は終わってしまう。
女性にお小言を言われた鹿謳院氷美佳は、慌てる事なく、ゆったりとした動きで身体を起こしてから、姿勢を正した。
鹿謳院家の頭首は代々女性である。
そして、そんな鹿謳院家現頭首『鹿謳院舞歌』は氷美佳の伯母にあたる人物。
幼少の折、現頭首の舞歌によって次期頭首候補として指名された時から、氷美佳に教育を施す者は母でも家庭教師でもなく、学校の教師でもない。
鹿謳院家の次期頭首候補の教育は、現頭首が直々に行う決まりとなっているので、夏期休暇中も時間を見つけては、舞歌による指導が入るのは鹿謳院家では日常の風景。
今日は朝から弓道と薙刀を嗜んで、しばし休憩。
その後は、表千家でも裏千家でも武者小路千家でもない、鹿謳院家流なる謎の茶道を少々。
書道でもやはり、鹿謳院流なる謎の書道を少々。
頭首によって次期頭首候補に指名されたが最後、そんな感じで何でもかんでも鹿謳院を叩きこまれるのが鹿謳院次期頭首候補のお仕事。
そこに疑問を持ってはいけないのだが、そもそも、頭首の言葉や家の仕来りに疑問を抱く弱卒や指導についてこられない軟弱者は、自然と候補から外れていくようになっている。
そんな訳で、今現在、始めは五人居たはずの次期頭首候補のうち四名が脱落。
気が付けば、残っている次期頭首候補は氷美佳だけとなってしまった。
いずれ劣らぬ天才だらけの候補者の中で、最後まで残った天才が頭首になる。
と言う、非常にシンプルな方針を採用している鹿謳院の頭首選抜。
特に何かをしたわけではない。
やれと言われた事をただこなして、するなと言われた事をしなかっただけでしかないのだが、氷美佳にはそれが出来るだけの類稀な能力があっただけの話。
そんな氷美佳も幼き頃は頭首を目指していなかったのだが、それも今は昔。
一人、また一人と、隣に居たはずの頭首候補が消えていく度に。恐らく大好きだったはずの他の頭首候補と会えなくなる度に、次期頭首になろうと言う強い意志が芽生えて今に至る。
「この調子で励みましたら、いずれ氷美佳さんに頭首の座を渡す事も叶いましょう」
「はい。精進致します」
「ですので、それまでに善き連れ合いを見つけておきなさい。氷美佳さんにはその権利があるのですから。聖桜の地であれば善き伴侶となる者もおりましょう」
「はい。まだ分かり兼ねますが、選別はしております」
「善きことです」
もう四十を軽く超えているはずの舞歌はそう言うと、若く艶やかな笑顔を氷美佳に向ける。
関係は伯母と姪だが、二人は本物の母娘以上に母と娘でもある。
と言うのも、鹿謳院頭首選抜において最後に残った頭首候補と頭首は、本物の母と娘であり、師弟でもあり、姉妹となるのが仕来りだから。
鹿謳院たる二人は紛れもなく母と娘なのである。
そんな一般家庭とは微妙に異なる関係を構築している鹿謳院母娘だが、今は氷美佳の髪を舞歌が優しく梳かしてあげている最中。
「……けれど、舞歌様。何故に鹿謳院家は頭首たる者にのみ、自身で番を見つける権利が与えられるのでしょうか」
軽く目を伏せた氷美佳がそんな疑問を口にすれば、舞歌がそれを優しく受け入れる。
「人の歴史は愛の上に成り立っているからですよ、氷美佳さん。故に、鹿謳院の頭首には最も強き愛を示した者のみが就く事を許されるのです」
鹿謳院家の頭首候補として最後まで勝ち抜いた女子には、一つの権利が与えられる。
それは自由に結婚相手を選べると言うもの。
平民からすれば“なんだそれ”と思うようなどうでもいい事かもしれないが、貴族社会において自由恋愛を許されると言う権利は、人によっては破格の権利。
そんな訳で、鹿謳院家の次期頭首選抜を勝ち抜いた候補者は、平民であれ、貴族であれ他の何であれ、自分の意志で相手を選ぶ事が許される。
ただし、最後まで勝ち抜いた者と言う事からわかる通り、脱落した候補者は全員、問答無用で他家に嫁がされてしまうか、二度とは鹿謳院の名を語る事を許されずに家を追放されるわけで──……。
『お姉様には愛する方が居ないのでしょう! でしたら! 私に道をお譲り下さい!』
『おのれ、氷美佳。愛のなんたるかも知らぬ小娘が!』
氷美佳にも妹や姉は居た。
鹿謳院の次期頭首候補として共に歩み、共に過ごし、切磋琢磨する、愛する姉と妹は確かに居た。
だけど、もう居なくなってしまった。
今はもう楽しかったはずの日々を思い出す事も出来ず、頭によぎるのは最後に投げかけられた自分に対する恨み言だけ。
物心がついた頃、知らないうちに頭首候補に指名されていただけで、彼女が頭首になりたいと思った事はなくて。
ただ黙々と、ただ淡々と、言われる事を着実に完璧にやり遂げれば周りの者が褒めてくれたから、ただそれが嬉しかっただけで──。
「(それ以上を望んだ事なんて。一度も……無かったのですけどね)」
やれと言われたから頑張っただけで、勝てと言われたから勝っただけ。
幼さ故に深く考える事がなかった氷美佳は、一人また一人と、最愛の姉と妹を自らの力で蹴落として来た事で、気が付けば後戻りできない場所に立っていた。
今ではもう、好きだったはずの妹や姉の顔がうまく思い出せなくなってしまった氷美佳は、ふいに昔の事を思い出してしまったのか、そっと目を伏せてしまった。