Level.003 夫婦の日常
近衛鋼鉄の朝は早い。
四時に起床した彼は着替えを済ませると、日課となっている10kmのランニングを開始。
1kmを三分のペースで走れば、その後に軽い筋トレをするまでが毎朝の日課。
名前に恥じぬ無駄のない肉体は正に鋼の如く。
トレーニングを終えた後はシャワーを浴びて汗を流して、いつも通りの一人きりの朝食を取る。
都内にあるまじき広い武家屋敷の、その一室。
姿勢を正して正座で朝食を取る近衛鋼鉄はただ静かで、食後はさっさと学校に登校する。
ただし、学校に到着した近衛鋼鉄が向かうのは自分のクラスではない。
向かうのは統苑会に与えられている執務室。
「おはようございます、副会長」
「うむ。鹿謳院か」
「如何なさいましたか」
「いいや、鹿謳院は今日も無駄に早いものだと思っただけだ」
教室として使うにはやや狭い十六畳程の部屋には、歴史の重みを感じさせる重厚な木製家具がいくつか置いてあって、その中でも一際風格を放つアンティークの執務机に肘を立てて座る鹿謳院氷美佳が居た。
「無駄かどうかは議論の余地がありますけれど、そろそろ私と張り合うのはお辞めになられた方が良いですよ。どうせ私が勝ってしまいますもの」
「どうだかな。紙一重だろうよ。俺より先に登校しようと慌てていたのか? 制服のリボンが少し乱れているぞ」
「……ご指摘は感謝します。ですが、これは慌てていた訳ではなく単に風の悪戯でしょう」
テキパキと身なりを整えると鹿謳院と、それを見ながら離れた鹿謳院とは別の執務机に向かう近衛。
初等部まではそうでもなかったのだが、中等部以降この二人は気が付けば何かと張り合う関係になっていた。
勉強や運動と言った内容から、どちらが先に統苑会の執務室に登校するかと言う死ぬ程どうでもいい事まで。
何かと張り合う二人は大体いつも一緒にいる。
その切欠は中等部一年の前期に行われた校内学力テスト。
幼稚舎から初等部まで、それまでありとあらゆる分野で不動の一位を貫いていた近衛鋼鉄が初めて、鹿謳院氷美佳に膝をついたその瞬間から、二人の競い合いの歴史が始まった。
以降、様々な内容で競い合って今に至る。
しかし、そんな二人にも決定的に白黒をつける機会が訪れたのが二年前。
それが中等部三年の折に開かれた、統苑会次期会長選挙。
どちらが聖桜学園の王に相応しいのかを決める、頂上決戦が開かれたのである。
そして、聖桜学園の中等部と高等部の全校生徒が、鹿謳院派と近衛派の二つの派閥に別れる事で、聖桜学園を真っ二つ引き裂いた激動の会長選挙を制したのが、鹿謳院氷美佳である。
生まれる時代が違えばどちらが頂点に立っていても誰もが納得した二人。
そんな二人がたまたま同じ時を生きてしまったが故の不幸な争いは、鹿謳院に軍配が上がり。
会長選挙において鹿謳院氷美佳に敗北を喫した近衛鋼鉄は彼女の軍門に下り、かつて対立していた近衛派は大局を制した鹿謳院派に取り込まれる形で争いは終了。
──するはずもなかった。
「鹿謳院家の人間が衣服の乱れ一つ気付かず、呑気に茶を啜っていたとはな」
「時にはそう言う事もあるでしょう。ですが、上に立つ者は他者の欠点や間違いに不寛容であってはなりませんよ。──嗚呼、失礼致しました。私が上に立つ者でしたね、以後気を付けましょう」
「そうだな、気を付けた方が良い」
「ええ、御忠告感謝致します」
ニコリと笑う鹿謳院と、それを受けて軽く笑い返す近衛。
「(この女、言わせておけば好き放題言いおって。相も変わらず、この俺を相手に口の減らん生意気な女だ)」
「(今朝は少し起きるのが遅かったので、多少慌てていた事は認めましょう。けれども、それをこんな男に気取られるとは、少々気が緩んでいましたね)」
もちろん、内心は全然笑っていない。
互いにいつも使っている机に向かった二人は、そこで会話を一区切り。
各々が鞄から取り出した本を読み耽り、時に手を動かして本の内容を書き写したりと、静かな時間を過ごす事となる。
呼吸音一つ聞こえない静かな統苑会執務室は、常人であれば耐えがたい緊張感に襲われるかもしれない。
しかし、幼少より武道を嗜み精神を鍛え上げている二人には、この張り詰めた空気こそが肌に合っている様子。
窓の外から微かに聞こえて来る朝の部活動に勤しむ運動部の声。
執務室の扉の外から時折聞こえる生徒や教師の話し声。
それら全ての音を無視した二人は、手に持った学術書や洋書に視線を落として、自分たちの世界に没頭する。