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Level.030 心地良い感情の裏側で


「こんにちは。いらっしゃい、美月、橘君」


「良く来たな橘」


 入室した二人を認識するや否や、直前まで無表情で目を合わす事も無く会話をしていた鹿謳院と近衛は、それぞれパソコン画面と本から視線を外して二人に笑顔を向ける。


「私も来たのに挨拶ないの酷くないですか?」


「朝ここを訪ねるのは珍しいな。何か用事か、橘?」


「えーっと……」


 柳沢を無視して話す近衛にどう反応するべきか迷う橘だが、柳沢美月はその程度の事を気にする女子ではない。


「えー、猫の本じゃないですか可愛いー! 副会長とのギャップ凄いですね!」


「離れろ、鬱陶しい」


「またまたー。夏服になった私にくっつかれるなんて喜ぶポイントじゃないですかー」


「知るか。折角夏服になったと言うのに暑苦しい真似をするな」


 シカトされた柳沢は近衛が座っている椅子に、トントントンと飛び跳ねるように近付いて、彼の背後に立ったかと思うと身体を前に倒してもたれかかった。


 そうして、眉間に軽く皺を寄せた近衛が、背後から抱き着いてきた柳沢を引きはがそうと身体を動かせば、それを見た鹿謳院が溜息を吐く。


「はい、おやめなさい。美月も色々と大変だったとは思いますが、伝統ある統苑会の執務室では常に礼節を心掛けた行動をするように」


「はい、会長! 副会長が私の挨拶を無視したもので、つい!」


「これ以上俺を巻き込むな、全く」


 鹿謳院に注意されると即座に近衛から離れ、ピシリと姿勢を正す柳沢。


 そして、あまり表情を変える事のない近衛が心底面倒臭そうな表情を浮かべる。


「(副会長はあまり感情を顔に乗せられませんから、彼にとって美月が感情を表すに値する相手であると言う事はわかります。けれど、どうでしょうね。元より仲の良い二人でありましたが……。どうでしょうか、少し仲が縮まったようにも思えます)」


「美月は修学旅行の候補地についてのお話しにきたのでしょう?」


「はい、副会長をモデルにして各地で写真を撮ってきましたからね! 生徒ウケもばっちりですよ!」


「ありがとう、美月」


「礼を言う相手を間違えているだろうが」


 鹿謳院と会話を始めた柳沢を見てため息交じりに呟いた近衛ではあるが、それも一瞬。


「それで、橘はどうした。朝からここに足を運ぶとは珍しいな」


「あ、はい! 近衛先輩がこないだ読んでたラノベなんですけど」


「ああ、それがどうした」


「あ、でも、先輩は作者を見て本を読まないとか言ってたから、もしかしたらあんまり興味ないかもしれないんですけど、あのラノベの作者さんは他にもいくつか本を出してる人なんですよ」


「確かに、俺はあとがきに目を通した事もなければ作者の名前すら覚えていない。今読んでる本の作者も知らんしな」


「やっぱり、そうですよね。でも、そんなに本を読むのに好きな作者さんが一人も居ないのって不思議ですよね」


「そうか? 大切なのは作者ではない。作者が生み出した作品だ。造り手に対する敬意はあるが、俺が愛するのは作者ではなく本だ。仮に作者を見て作品を面白いと感じるようになれば、それは感性の死を意味する。本を読む上で余分な情報は不要だ」


「な、なるほど。それは、はい。それは、なるほどです」


 楽しそうに話す橘と会話をしつつ、脳内で今後の展開を予想する近衛。


 複数の思考を同時に展開するハイパーマルチタスクを可能とする近衛は、己が望む会話へ導くための最短ルートを構築を開始。


「(先日読んだラノベと言えばあれか、ハーレムと称する癖にヒロインの誰とも一線を越えなかったあれだろう。最近読んだラノベと言えばあれしかない。作者の他の作品について言及すると言う事は……要するにそう言う事か)」


「それで、なんですけど──」


「よい。あのラノベを書いた作者の他の作品を薦めに来たのだろう」


「あ、はい。ああ、でもやっぱり読まないですよね? 読む順番とか色々あるとかなんとんとか、確か言ってましたもんね」


「順番は特に無いが、基本的に入手した順番に目を通すようにしている」


「それなら、これもそのうち──」


「まあ待て、基本的にはと言っただろう。橘が薦める本であれば次はそれに目を通す事にする。良いから寄越せ」


「あ、はい! 僕はもう読み終わってるんですけど、個人的にはこっちの方が面白くていいかなと思って」


「そうか。では、それから目を通す事にする」


 自分の教室に立ち寄る前に執務室にやってきたのであろう橘。


 肩に掛けた鞄に手をやる彼を見れば、何を言うかなど一目瞭然。


 純粋な好意だけで勧められたものを拒絶する程に、近衛の心は腐っていなかった。


「(柳沢程度の女に気後れしているかと思えば、俺や鹿謳院に対して媚び諂う事もせん面白い男だ。下心もなく見返りも求めずに何かを差し出すこいつの在り方は……。そうだな、心地良いと言えるだろう)」


 実際には近衛家や鹿謳院家について何も知らないだけではある。


 だが、世の中には知らなくても良い事がいくらでもあるので、これはこれで良い関係なのかもしれない。


「はい、とりあえず五巻だけ持って来たんですけど、続きは明日にでも持ってきますね! 近衛先輩も先週は色々と大変そうでしたもんね」


「そうだな。中々に多忙を極める週であったと言える」


「詳しく知らないんですけど、この夏服とかも近衛先輩が何とかしてくれたんですよね?」


「まあそうなる。他にもいくつかの用事があって各地を回っていたが、流石に一週間で全工程を終了させるのは少々無茶だったかもしれん」


 しかし、何処にも違和感が生じない自然な会話の裏側で。


 誰もおかしいと思わない流れの中で、近衛は一つ、また一つとピースを完成させていく。


「休学届をだしたとか言っていたから心配しちゃいましたけど、すぐ戻って来てくれて良かったです! 近衛先輩が居ないとなんだか学校が寂しいですからね」


「ふっ。そんなに持ち上げても話し相手になる程度の事しか出来んぞ。就職先を斡旋する事も出来るが、好きな方を選ぶが良い」


「それは、えっと、はい。就職先はともかくとして、あまり話せる相手が居ないからとても助かります!」


「何を言う。聞くところによると、知り合いから相談を受けたりもしているのだろう?」


 そうして、組み上がったピースがキーワードを浮かび上がらせる。


 誘導されていると相手に気付かせる事なく、流れるように望む話を展開する程度、近衛には朝飯前。


「そんなまさかー、聖桜は怖い人ばっかりだからいつも図書館で本読んだり一条先輩に勉強教えて貰ってばっかりですよ」


「そうか。だが、橘が恐れるような生徒などこの学園にはいないだろうよ。それよりも、一条とは上手くやれているのか? あいつは中々に気の強い奴だからな」


「あ、はい。ちょっと怖いですけど、近衛先輩も一条先輩もやっぱり先輩だから勉強もわかりやすくって。元々僕の学力でここに受かったのって奇跡とか言われてるから、一条先輩には凄く助けられてます!」


「うむ。それならよい。何事も初めが肝心だ。今すぐに頂点を目指せとは言わんが、大学までに何か一つでも構わん。何か一つ、頂点を目指せるように努力をしろ」


「はい!」


 小さく笑う橘の返事を聞いた近衛は脳内で展開していた複数の会話ルートを結合させ、瞬きの合間に思考を収束させる。


「(ここ最近で橘が誰かに相談を持ち掛けられた可能性は限りなくゼロに近い。橘の事は評価しているが、少なくとも今の会話の流れで俺にブラフを挿し込める手合いではないだろう。何より、今ここで嘘を吐く理由がまるでないからな)」


 であれば、先日異性についての話を持ち掛けて来たダリちゃんと橘は同一人物ではない。


 しかしと、近衛は思考を走らせる。


「(だが、そもそもの話、ダリちゃんが話している内容が全て真実であるとは限らない。どうにかして話題を提供しようとした彼が創作した作り話と言う可能性も十分に有り得る。実体験に基づいたエピソードトークには限りがあるが『架空の友人』を生み出す事で、適当な話題を無限に生成する事は可能だ。故に、セレナとの会話を途切れさせまいとダリちゃんが架空のエピソードトークを捏造した可能性もある)」


 自身もまたほんのちょっとだけ現実を偽っているので、マンダリナがそうしている可能性もある。


 そう考えた近衛は再度、別世界からのアプローチを試みる事を決意する。


「(再検証だ。まずは一つずつピースを埋めていく。こちらも肉を切る事になるが、確実にダリちゃんに迫る事が出来る話題が今の俺にはある。ダリちゃんが橘であるかどうかは今考える事では無い。まずは人数を絞らせて貰うぞ、ダリちゃん)」


 近衛鋼鉄がマンダリナの中身に迫ろうとしている視界の端で、マンダリナこと鹿謳院氷美佳は柳沢美月と笑顔でお喋りをしていた。

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