Level.029 ワンと鳴くかニャーと鳴くか
昼休みの執務室。
「副会長」
「読書中だ」
湯呑を両手で持つ鹿謳院と左手で本を読む近衛。
最早何も説明する事がない、いつも通りの統苑会執務室。
「副会長は猫が好きなのですか」
「何だ、その質問は? 意味が分からん」
「いえ、本日お読みになられている本がそちらでしたもので」
「俺の読書は呼吸と同じだ。興味の有無で本を選ぶような無粋な真似はせん」
そう言った近衛が手に持つ今日の一冊は『大好き猫ちゃん ちゅきちゅきCAT♡』と言うタイトル。
タイトルからでは内容がまるで想像出来ないが、恐らく猫好きしか読まないであろうと想像出来る本。
「まあいい、答えてやる。猫か犬かのどちらかを選べと言うのであれば、俺は猫を選ぶ」
「あら? 意外ですね。副会長はてっきり犬派かと」
「どちらかと言えばと言う程度の差しかないがな。どちらも同じ、毛の生えた四足獣でしかない」
「犬や猫を毛の生えた四足獣と評される方には初めて会いましたが、何故に犬ではなく猫に軍配があったのでしょうか? どちらにもあまり興味が無いようにお見受けされます」
「単純な話だ。犬の従順な点は評価に値するが、主人へ媚びを売るその精神が気に食わん。対して、猫は従順さに欠ける点がマイナス評価ではあるが、主人へ媚びぬ姿勢は評価に値する。人類に飼いならされ従属し家畜化される事により種そのものを下僕として変容させられた犬とは違い、猫は未だに家畜化に至っていないと言う点が評価対象だ」
「そうなのですか?」
「ああ。近年の研究結果によると、猫の遺伝子は太古より殆どの変化がないと判明した。故に、現代においてもイエネコとヤマネコの違いはほぼ無い。長い歴史の中でヤツらは人と共存する事を自ら選択し、それを善しとした。だが、だからと言って人に下る道を選ばなかった。犬が主人に対して飼われていると感じるのに対して、猫は共に生活をしていると感じている、この差は大きい。俺はそこに生命としてのプライドを見た」
「なるほど。ですが、多くの方は見た目で判断されていると思いますよ。副会長の場合は、媚びるか媚びないかが判断基準なのですね。どちらがより可愛いとは考えた事はないのですか?」
「見た目など下らん。ワンと鳴くかニャーと鳴くか以外に何の違いがある。どちらも全身を体毛に覆われた四足歩行する獣ではないか」
「副会長らしい回答ですね」
緑茶を一口飲み、頷きながら答える鹿謳院は思った。
「(やはり、この男は浮世離れした感性をお持ちですね。近衛家の者に人間性を求めること自体間違っているのかもしれませんが、よもや愛らしい犬や猫を毛の生えた四足獣としか認識しておられないとは)」
そんな事を考えながら、ある意味では近衛鋼鉄らしい回答と納得しつつも、何処か落胆していた。
「俺にばかり質問をして、そう言う鹿謳院はどうなんだ」
「そうですね。私もどちらかと言えばと言う話にはなってしまいますが、犬の方が好みかもしれませんね」
「……ふんっ」
どちらかと言えば犬が好きだと言う鹿謳院。
彼女の言葉を受けた近衛は、それを鼻で笑い飛ばしながら思った。
「(猫をモチーフにした大人気キャラクターがどれだけいると思っている。ドラ〇もんを知らんのか? 大和に生まれ落ちた全ての者は幼少期にドラえ〇んから人生を教わる。それをなんだ、この女は恩師への情を忘れたのか? それに、誰がどう見ても猫の方が可愛いだろうが)」
確かに今読んでいる本は偶然選ばれた物ではある。
だが、それはそれとして近衛はガチガチの猫派だった。
「……なんでしょうか、その反応は」
「支配者の中には自らの意思を持たぬ隷属者を好む者がいる。扱い易く従順な者だけを手元に置けば反逆を恐れる必要がないからな」
「お言葉ですが、犬が人に向ける感情は愛情です。彼らは従順である事で媚びているのではなく、親愛故に自らの飼い主に尽くすのです。そして尽くされた飼い主もまた彼らに深い愛情を注ぐのです。主従の関係こそあれ、そこにあるのは隷属ではなく信頼関係です」
「鹿謳院はいつから犬になった。実際に犬が何を考えているかなどわかるはずもあるまい。憶測で犬の気持ちを代弁しようとするな」
「上か下か。私は、それが全てでは無いないと言いたいだけです」
「少なくともそれは上に立つ側に居る者が口にする台詞ではない。上下の無い関係などこの世の何処にもありはせん」
「橘君とも上下関係があるのですか?」
「そうだ、俺が上で奴が下だ。対等な関係など存在せん。少なくとも俺に、近衛の人間にそんなものは必要ない」
「……そう、ですか。それは、寂しいお考えですね」
「この世界を生き抜く為の合理的な考えだ」
犬が好きか、猫が好きか。
鹿謳院が軽く振った話題はコロコロと転がり、楽しくなるはずだったお話はいつしか、両者の根底にある本質的な違いを浮き彫りする。
しかし、近衛の言葉を聞いた鹿謳院が少し目を伏せた所で、コンコンと扉を叩く音が部屋に響いた。
「どうぞ」
そして、近衛が入室を促す言葉を呟くと同時に勢いよく扉が開いた。
「こんにちはー!」
「あ、失礼します」
扉の向こうから姿を現したのは二人。
今日から夏服で登校する事となった柳沢美月と、同じく夏服での登校を始めた橘蓮だった。