Level.016 思い通りに動かない男
「(楽園の庭の中であれば、あの男の場所にはいつも私が居ますのに。現実とは斯くもままならぬものでありましたか。民が口にされる『現実はクソゲー』とはこう言う事だったのですね。嗚呼、私がマンダリナであると、私が貴女の夫であると口にする事が許されたなら、どれだけ幸せな事だったでしょうか)」
骨に名を刻む駿馬こと近衛鋼に嫉妬しつつも、それなりにこの状況を楽しんでいる鹿謳院。
「(まあ、よいでしょう。そも、美月とセレナが同一人物であると確定したわけではなりませんからね。十中八九間違いはありませんが、まずはその事実を確定させる所から始めようではありませんか。中々二人きりになれる機会に恵まれませんので、探りを入れるのも一苦労ではありますが……。ですが、そうですね、二人きりになる状況を作り出す事自体はそう難しくはないかもしれませんね)」
「副会長」
「なんだ」
「こちらに保管してある書類ですが、やはり職員室にお持ちになって下さいませんか」
「公道の許可書か。……ふむ。まあそうだな。万一にも紛失はありえんが、時には教員の連中にも統苑会の仕事を手伝う機会を与えてやるべきか」
「その理屈は賛同しかねますが、教職の方々に保管して頂くのが一番かと」
初めて本から視線を外した近衛が、鹿謳院の取り出した書類をチラリと見ながらそんな事を言えば、鹿謳院が優しく返事をする。
近衛に用事を頼んで部屋から追い出せば、柳沢と簡単に二人きりになれる。
そう考えた鹿謳院による一手であったが、彼女は肝心な事を失念していた。
「そう言う訳だ。それを持って職員室へ向かえ、柳沢」
近衛鋼鉄がそのような雑事を引き受けるはずがない。
と言う、至極明快な事実を失念していた。
その場に自分より立場が下の人間がいれば一切の容赦なく使う、近衛はそう言う人間である。
尤も、仮この場に鹿謳院と近衛の二人しか居なかったとしても、書類を職員室に持って行くだけと言う、誰にでも出来てしまえる仕事を彼が受ける事はあり得ないので、どちらにしても近衛は動かない。
「えー、今ですか? 後じゃ駄目ですか、会長?」
「あ、ええ、いえ、美月に頼むつもりではなかったのですよ」
「だったら誰に頼むつもりだったんだ。休み時間だからと言って気を抜き過ぎだ。少しは考えてから物を言え、鹿謳院」
「(貴方に頼みましたよね!?)」
心の中で全力で突っ込みを入れながらも、表情は笑顔のままに机の下で足をペタペタと動かす鹿謳院と、勝手に会話を終了させて読書を再開した近衛。
「まあまあ、いいじゃないですかー。後でいいなら昼休み終わる前に持って行くので、預かりますねー」
そして、鹿謳院が差し出した書類を笑顔で受け取る柳沢。
「……ありがとう、美月。貴女にお願いする形になってしまって申し訳ありません」
「いえいえ! このくらい任せてくださいよー!」
やだ、私の妻ったら良い子過ぎ!
近衛の態度に御立腹だった鹿謳院はそんな事を考えながら笑顔を浮かべた。
そして次の用事を考える。
「(この場に美月が居る限り、適当な用事を頼めば彼女の仕事が無限に増えていくだけになるでしょう。けれども、この男がここを離れざるを得ない用事なんてそう簡単には思いつきませんね)」
どうしたものかと思案する、この間一秒。
「先程図書室への献本を口にされておられましたが、今から行ってきてはどうでしょう?」
「何故俺が行かねばならん。近いうちに橘に頼む」
「それはどうかと。橘君は今、副会長の指示で議長と共に中等部の纏め役をされておられるのでしょう? 献本の手続きは少々時間が掛かりますのに、これ以上彼に無理を強いるのは如何なものかと」
「そうですよー、副会長ー。それに結構溜まってますよ? これ全部レンレンに一人で持って行かせるんですか?」
「本を読むなとは申しません。ですが、ご自身で読まれた本はご自身で片付けられるのが筋と言うものではないでしょうか」
「前まで読み終わった本は、その日のうちにレンレンが図書室に持ってってくれたのかもですけど、今それどころじゃないと思いますよー。副会長に頼まれたお仕事頑張ってる最中でしょうからー」
「……ふむ」
鹿謳院の発言に乗っかった柳沢に指摘された事で、本から視線を外した近衛が本棚に目を遣る。
昼休みになる度に適当な本を読む近衛は、読み終えた本を執務室の本棚に置いて帰る。
そんな執務室の本棚は、数十分しかない昼休みの間に一冊から三冊を読み終えてしまう彼のせいですぐに一杯になってしまう日常。
なので、これまでは統苑会庶務の『橘蓮』と言う高等部一年の男子生徒が都度、図書室に運んで献本作業をしていた。
「副会長が橘君に目をかけている事は承知しておりますが、負担を強いるのはまた別の話ではないでしょうか。彼は今、他の誰でもない副会長の指示で業務をされているのでしょう?」
「そうですよ、副会長。そろそろレンレンに頼ってばかりは辞めた方がいいですよー」
「うむ。一理ある」
左手に持った本をパタリと閉じた近衛はそう言うと、すっくと立ちあがった。
鹿謳院の狙い通り、重い腰を上げた近衛は、しかし──。
「少々量が多い。図書室まで運ぶのを手伝え、柳沢」
「しょうがない人ですねー。運ぶだけですよー? 献本の記入とかはご自分でやって下さいよ?」
「それは図書室に居る生徒にやらせればいい」
「いえいえ、それだと副会長なんにもやってないじゃないですか? 何にしに行くんですか」
「俺はその間に図書室に入った新書を確認する仕事がある」
「えぇ……」
ワイワイと話しながらダンボールに本を詰めた二人が執務室を後にすると、そこには鹿謳院氷美佳がポツンと残される事になって──。
「……なるほど、こうなりましたか」
ぼそりと呟いた彼女は、窓の外を見ながらゆっくりと緑茶を飲んだ。