Level.100 心はいつも不可思議で
「(なんせ鋼鉄様は私が何をやっても全然手を出してくれませんからね。高二の男子であれば近くの女子に手を出してなんぼでしょうに。不満タラタラならぬ不満ムラムラです。しかし、まさか鹿謳院様に私の不満が見抜かれているとは、顔に似合わずムッツリな御方ですね)」
「(雫の悩みはやはり、近衛家と一条家の問題でしたか。逃げ出したくても逃げ出す事が適わない重たい現実。やはり、そう言う事……なのでしょうか?)」
そう言う事ではない。
「(おまけに今年の初めからは庶務の教育にばかり時間を割いていますからね。プライベートまで使って学習カリキュラムをこなしているせいで、鋼鉄様と会う時間が少ない。『主ニウム欠乏症』で私の心身はボロボロです)」
「(他家の事情、それも近衛家と一条家のような大物となりますと、鹿謳院と言えども迂闊に介入は出来ません。何処まで踏み込むべきか、見極めが重要になりますね)」
「それは……なるほど。雫も辛い時間を過ごされているのですね」
「辛い、ですか。言われるまで気付きませんでしたが、確かに辛いと言えば辛い時間ですね。とは言いましても、副会長も色々とやりたい事があるでしょうから、我儘を言う気はありませんよ。人間は慣れる生物ですからね、今となってはそこまで辛くはありません」
「(確かに、初めはかなり辛かった記憶もあります。しかし、それが鋼鉄様の望みとあらば従うまで。入学前から付きっ切りで橘蓮に教育を施していたせいで、鋼鉄様に会えない時間が長くなりすぎ、眩暈頭痛嘔吐下痢や振戦に襲われました事もありましたが、今では慣れたものです。会えない時間が主従の絆を深める事もありましょう)」
※振戦、手の震えの事。
「そ、そうですか。雫も大変だったのですね。……ですが、どうしても辛い時は拒絶する事も大切かと。普段の副会長の事は存じておりませんが、話せばわかって下さるのでは?」
「(ヤリたい事を色々と……? い、一体どのような猥雑な行為を雫に強要なさったのですか、あの男は。我儘を言わない雫に一体どのような。大衆の面前でコスプレをさせる男の事です。ま、まさか──)」
「話してわかってくれるような方ではないですよ。一度決めた事は必ずやり遂げる方ですから、そうと決めればこちらの意見などお構いなしです。会長とてご存知でしょう?」
「(外様の生徒を統苑会の会長にする。無謀な計画ではありますが、鋼鉄様がそうすると決められたのであれば、それはもう実現したも同然です。多忙ではありますが、頼られていると思えば悪い気も致しません)」
「な、なるほど。確かに、そう言う男かもしれません」
「(まさか、もう接吻もしたのでしょうか? 雫のこの口振りからするに、有り得ますね。子女の唇を無理矢理に奪うなど、あの男であれば平然とやってのけるに違いありません。な、な、なんと破廉恥な……!)」
想定している猥雑な行為のハードルは低かった。
そして、何を想像しているのか知らないけど、鹿謳院の顔が耳まで赤く染まった事で、一条もようやく彼女の異変に気が付いたらしい。
「顔色が優れない御様子。日傘をさしているとは言っても暑さを凌げるわけではないのですから、そろそろ校舎に戻りましょう、会長」
「そう、ですね。はい、戻りましょう」
と言う事で、耳からプシューと湯気を放出しそうな程に赤くなった鹿謳院を見て慌てた一条は、空中の効いた校舎に急いで避難する事に。
「(鋼鉄様と行かれた旅行中にも倒れられたと聞いておりますが、鹿謳院様は本当に暑さに弱い生物ですね。着物を着ている時は、夏場であってもいつでも涼しそうにされていますけど、洋服が根本的に合わないのでしょうか)」
「(雫と副会長が、キ、キスを? それも、今ではもう慣れてしまう程に何度も。もしセレナの中の方が雫だった場合、刺し違えてでもあの男を葬りましょう。……いえ、いえ、まずは事実確認を取る所からです。まずは落ち着こうではありませんか)」
その後、一条に連れられて高等部の校舎に戻った鹿謳院は、悶々とした気持ちを抱えたまま午後の授業を受ける事に。
そして迎えた放課後の、統苑会執務室。
時間を置いた事で冷静さを取り戻した鹿謳院は、さっそく近衛に質問をした。
「──それは、俺に聞いているのか?」
「はい。キスの経験はおありですか」
いや、あまり冷静じゃないかもしれない。
いつも通りさっさと仕事を片付けようと、近衛が腰かけた直後の質問。
一瞬聞き間違いかと思った近衛が思わず二度見してしまうも、視線の先にはパソコンを見つめて仕事をこなしているいつもの鹿謳院が居るだけ。
「(この女は急に何を言いだすんだ。何処かに頭でもぶつけたか?)」
何言ってんだこいつ? と言う表情を浮かべながら、唐突過ぎる謎の質問の真意を図ろうとする近衛だが、考えるよりも前に鹿謳院が畳みかける。
「おありなのですか? ないのですか? 簡単な質問ですよ」
「……何故その質問をするに至ったかは、この際聞かずにいてやる。だが、質問に答えて欲しいのであれば先に自分の経験を語るべきであろう」
「私はありません。どうぞ、お答えください」
少しくらい考える時間を稼げるかと思ったが、鹿謳院はこれに即答。
「(俺のキス経験を聞いて何か意味があるのか? 別に答えても構わんのだが、意図が読み取れん質問には、得てして裏側に何かが潜んでいる事──)」
「私はキスをした事がありません。これで満足ですか? どうぞ、お答えください」
「(何だ、この迫力は。いつもお喋りでうるさい女ではあるが、会話にはそれなりの理由があった。それがなんだ、これは。薄気味悪いな。……まあ、よい。続く会話で判断すればよいか)」
「そうだな。同年代、同世代の異性との恋愛感情の絡んだキスの事を問うているのであれば、それは無い。たとえばそれが赤子の──」
「それは神に誓えますか? 誓ってキスの経験は無いのですか?」
「……どの神に誓えばいい。生憎と神の存在には懐疑的だが、それでも良いなら誓ってやろう」
「そうですか。ありがとうございました」
「ああ」
唐突な質問から始まった会話は、やはり唐突に終了。
キーボードを叩く心地良い音だけが響く統苑会執務室は静かで、会長と副会長の二人だけの空間はいつも通り静かで厳かな空気で満たされ始める。
「……なんだ、終わりか?」
「はい。ありがとうございます。貴重なご意見に感謝いたします」
普段であればパソコンから殆ど視線を外す事のない近衛だが、この日だけはチラチラと鹿謳院の方を向いてしまう衝動を抑えきれない様子。
「(意味不明過ぎて普通に怖いんだが、流石は鹿謳院家の女と言った所か。俺は今その片鱗を見せつけられているのかもしれん。さっさと仕事をして帰ろう。この女はヤバイかもしれない)」
セレナの中の人に怖がられ、気味悪がられている事など露知らず。
聞きたい事を聞けた鹿謳院は、機嫌を良さそうに作業の没頭。
「(雫が意味深な事を言われるから一瞬、ほんの一瞬だけ焦ってしまいました。ですが、副会長のキスがまだと言う事は、雫はまだ手を繋ぐ所までしか経験していないと言う事になりますね。安心致しましたよ、副会長。けれど、無理矢理でも手を繋ぐのは感心致しません。それに、街中であのようなコスプレをさせるのも良い行いとは言い難く──)」
近衛がまだキスをした事が無いと判明して、心底安心した鹿謳院は脳内で近衛を糾弾しながらも、パソコン画面を見つめる表情はとても機嫌が良さそうで……。
実際の所、その話の何処に安心をしたのか、何に安心したのか、何でそんなに嬉しそうなのか。
人は自分の心すらもよくわからない生物なのかもしれない。
だが、セレナの中の人の鹿謳院に対する好感度がちょっと下がった事だけは間違いない。




